56 レミルトン卿2
先代レミルトン伯爵ディアスが、王宮西棟の幽閉者へ面会を申し込んだ時には、すでにファリティナは釈放されていた。
ファリティナにかかった嫌疑は晴れていないが、第二王子の責任において釈放されたようだ。
ディアスはますます不愉快に思った。
そもそもが嫌疑である状態で、拘束したということ。
第二王子ギデオンについて、その資質の疑義を唱えねばならないと心に決めた。
今ではファリティナは公爵家の屋敷に帰っていると聞いて、公爵家に面会を申し入れたが、梨の礫。
今まであからさまに絶縁を決め込んでいた外祖父からの申し入れに、拒否を示しているのかと落胆した。
まだ16歳の少女。
複雑な人間関係に翻弄され、家庭内では孤立していただろう。
最も信頼していたであろう将来の伴侶には婚約を破棄され、軽微な失態で囚人と扱われ、精神的に疲弊しているのだろうと、勇気を出して会いに行くことに決めた。
これは一体。
不躾だとは十分承知だ。
むしろ逃げられないように早朝を狙った。
寝ている可能性もあったが、なんとか一目会い、レミルトンを頼ってほしいと伝える気だった。
それが、まさか。
兄弟仲が険悪だと思っていた美貌の弟に手を引かれて入室したファリティナは、頭部に包帯を巻かれていた。
右目を怪我しているようだった。
「お待たせいたしました。レミルトン卿。」
弟の次期公爵と並んで椅子に座り、ファリティナは言った。
その声にディアスはハッとした。
「このような姿で申し訳ありません。お話をさせていただくのは初めてでございますね。」
ファリティナは、左目だけでしっかりとディアスを見てきた。
その声にディアスは心が震えた。
いつも遠目から見ていると、グランキエース公爵家独特の色合いを持った少女だったが、近くでみると記憶の中の愛娘に面差しがよく似ていた。
思わず言葉もなく、その白皙の面を眺めてしまう。
「見ての通り、姉は万全の体調とは言えません。同席をお許しください。レミルトン卿。改めてご挨拶申し上げます。私は弟のセリオン=グノール=グランキエースです。」
セリオンは眼光に少し圧を込めて、ディアスを見た。
「…これは一体。何があったのですか、セリオン公子。」
ファリティナの頬には殴打の跡が痛々しく残っている。
明らかに誰かに危害を加えられた様子に、ディアスは動揺した。
「まさか、王宮でこのような仕打ちを⁈」
幽閉されていただけだと聞いていた。
まさか、第二王子から暴力まで加えられていたのだろうか。
だとしたら、由々しきことだ。
王家、マニレツネ家を敵に回してでも戦わなければいけない。王国の盾として長く支えた公爵家の姫を、私怨で虐げた。しかも王宮内で権力のほしいまま一方的に虐げたとしたら、同じ王国の剣と盾を自認する立場として黙っておけない。
しかも、自分の大事な孫娘だ。
ファリティナは少し驚いたように目を見開き、ゆるゆると頭を振った。
「違います。王宮ではありません。申し訳ないが、この怪我はこちらの問題。他言なさるようならご面会はお断りします。」
セリオンは厳しい声で言った。
ファリティナはセリオンの手に、そっと手を置いた。
「セリオン。」
嗜めるように名前を呼ぶと、セリオンはファリティナの手を握り直す。
「驚きましたでしょう。ですが、今はご説明できないのです。」
ファリティナは困ったように笑ってみせた。その横でセリオンは厳しい表情を崩さない。
「どうぞ、ご用件を。レミルトン卿。」
柔らかい言い方に、ディアスは胸が苦しくなる。
懐かしい音だった。だが、言葉が指し示す距離に今まで自分たちが彼女に強いた仕打ちを感じた。
「手短にお願いします。」
追い討ちをかけるようにセリオンが言った。
噂とはつくづく当てにならないものだ。
ディアスは心の中で嘆息した。
兄弟仲は険悪だと聞いていた。才能があって美貌も人望もある弟を、凡庸で気位の高い姉が妬んでいると。
だが、目の前にある光景は全く違う。
色合いだけはよく似た二人は手を取り合い、お互いのことを信頼している。
姉は姉らしく、優しく弟を窘め、弟は姉を守ろうと全身を膨らませて威嚇する。
「単刀直入に聞きます。グランキエースには何が起こっているんですか?女子生徒に狼藉を働き、第二王子の怒りを買って王宮西棟に幽閉されたと聞きました。だが、学院生同士の諍いにしてはあまりにも重い処分だ。しかも、公爵家があなたの処分を不服として抗議した痕跡もない。」
ファリティナは軽く俯いてディアスの話を聞く姿勢を見せた。
セリオンの眼光は、変わらず冷たいままだ。
「何故、王家に抗議なさらなかったのですか?あまりにも公爵令嬢を侮った処分だ。挙句、婚約は解消されたと聞きました。原因は第二王子の不貞だというのに。これでは、この国の盾と言われるグランキエースの存在を軽く扱われてしまう。」
「…それが、あなた方に何か問題でも?」
聞いたのはセリオンだった。
勝気な眼光はそのまま、敵対的な雰囲気を崩さない。手はファリティナの手を握ったままだ。
「ファリティナは、私どもの孫です。」
ディアスはセリオンを見返した。
15歳にしては、肝が据わりすぎている。
絡め手を使えない態度は未熟だと思うが、人を煽ってこない冷静さはある。
なるほど、鬼才と言われるだけある胆力だ。
「ファリティナ。」
ディアスはファリティナに向き直った。
「君は、ここにいて幸せか?」
その質問はファリティナにとって想像もしなかったものらしい。
心底、驚いたように顔色を変えた。
無言でディアスの顔を見つめている。
なんと答えていいかわからないようだった。
「君たちに言うことではないと思うが、正直今のグランキエースは公爵としての責務を果たしていない。」
セリオンと繋いでいたファリティナの手が、冷たくなった。小さい震えが、繋いだ手から伝わる。
「君は亡くなった娘が命と引き換えに生んだ忘れ形見だ。それが不遇をかこつのを、指を咥えて見ているわけにはいかない。困っていることがあるのなら、頼ってほしい。」
ファリティナの白い顔はだんだんと色をなくし、青くなっていく。
人形のように口を閉ざし、ディアスではないどこかに焦点を合わせ固まっていた。
その申し出はファリティナにとって予想外だった。
命をかけて産んだ娘に泥を塗ったと、罵られるのだろうと思っていた。
幽閉されていた王宮で命を落とせばよかったのに、と嘲笑い、グランキエースの裏切りをどこまで把握しているかわからないが、おそらく横領のことを掴んで、揺さぶりをかけてくるのだろうと。
せめて、セリオンだけは命乞いをするつもりでいた。
才能ある彼なら、王国のために使える。
グランキエースの名前は、今更何の益もなく、ついてくる派閥もないので潰してもらって構わない。だから、まだ幼い弟妹だけは見逃してほしいと、床に額ずいてでも懇願する覚悟はあった。
だが、怨んでいるはずの祖父は、ファリティナの庇護を申し出てきた。
これは罠なのだろうか。
こんな絡め手で、自分を取り込むことでグランキエースという古木を利用しようとしているのだろか。
だとしたら、取り込まれるしかない。
頭の悪い自分は、状況に飲み込まれるしかない。
だが、セリオンは。
憎んで高笑いでもしてくれれば、哀れな姿を晒して幾らでも懇願できるのに。
ここで自分が何か反応を示してしまえば、セリオンの立場が危うくなるかもしれない。
同情に頼る形で取り込まれるほど、薄気味悪いものはない。
虐げられたことを恨みにも出来ず、セリオンはその才能を搾取されるまま。ここでなんらかの取り引きに応じてしまえば、セリオンの計画のように国外に出ることも難しくなる。
彼一人なら、すぐにでも王国を出て弟妹たちのところに行けるのに、自分が怪我を負ってしまったために身動きが取れないでいる。
セリオン一人でも、出奔するように強く勧めれば良かった。
ファリティナはひどく後悔していた。
愚図愚図とセリオンの優しさに甘えていたために、また兄弟の命を晒すことになってしまった。
どうしたらいいのかわからない。
レミルトン卿の手を取るべきなのか。
のらりくらりと躱して今は帰ってもらい、セリオンと相談するべきなのか。
ぎこちなくセリオンの方を見ると、心配そうに自分を見る美しいブルーグレーの瞳とかち合った。
「姉様、大丈夫ですか?」
あまりの顔色の悪さにセリオンが聞いた。
その心配そうな甘い声色に、ファリティナの心が震えた。
「…わからないの…。」
頭の片隅で、やめなさい、と叱責する自分がいる。
ここでそんなことをしてはいけない。
敵か味方かわからない祖父の前で、弟に助けを求めてはいけない。
だけど。
助けて。
ファリティナはセリオンを見た。
何もかも足りない自分には判断できない。
どうしたらあなたを助けることができるのか。