54 気づきたくなかったこと
季節は秋に向かっている。
空気を入れ替えるために窓を開けてもらうと、夏の終わりを告げる茉莉花の香りが入ってきた。
ファリティナは深く吸い込んだ。
「いい香りね。」
そう呟いたが、返ってくる返事はなかった。
公爵家の侍女たちは、厳しく躾けられているため、ファリティナの独り言に言葉を挟むものはない。
虚しく感じながら、ファリティナはクッションに体を預けた。
清涼な空気と甘い香りに、うとうとともう一度眠りを誘われた。
「姉様。」
いつのまにかセリオンが入室していたらしい。
ファリティナは顔を上げた。
「寒くないですか?」
「大丈夫よ、開けてもらったの。」
セリオンはあの日以来、日に何度もファリティナの様子を見にくる。
眼球への刺激を避けるため、読書も散歩も禁止されている。退屈なファリティナにとってセリオンの訪問はありがたかったが、忙しい彼の足手まといになっていることが心苦しい。
「庭園にバラが咲きました。ベッドの近くに飾らせましょう。」
セリオンはそう言って、色とりどりのバラの花束をファリティナに差し出した。
「いい香り。きっときれいでしょうね。」
ファリティナは嬉しそうに微笑んだ。
傷ついたのは右目だけだが、刺激を避けるため、出来るだけ動かさないようにとの医師の指示があり、一週間たった今でも、食事や所用の時以外は両眼とも包帯が巻かれている。
ファリティナはあまり深刻に思っていなかったが、傷ついた右目は失明の可能性もある。
そのために、セリオンは過保護なくらいファリティナの動きを制限した。
片目で歩き回れると主張するファリティナを、子供に諭すような甘い言葉でなだめた。
本当なら、この時期はとうにファリティナとともに出国しているはずだった。
予想以上の大怪我に、身動きが取れないでいる。
目だけでなく、ファリティナには全身に打撲痕があり、体を動かすのも辛い筈だ。
母親に搏ち付けられた。それだけでも、精神的にきついだろう。
事件のあった夜は、全身の打撲のせいで熱が出て、その後も微熱が続いた。
ファリティナは苦しそうな息の中でも、泣くこともせず、真夜中に侍女が様子を見にくるまで人を呼ぶこともしなかった。
「ねえ、セリオン。バルコニーに出てはダメ?」
セリオンが部屋を訪れるたびに、ファリティナは外の空気を吸いたがった。
「朝のうちは寒くなってきました。もう少し日が昇ったら一緒に出ましょう。」
「あなたは忙しいのだから、一人でも平気よ。ちゃんとみんなが手を引いてくれるわ。」
起きている間は侍女が付いてくれている。
「では、もう少し後なら。今日は特に冷える。寒さは体に障ります。」
ファリティナは微笑んで首を傾げた。
「寒いのも嫌いじゃないわ。秋は一番好きな季節なの。」
ファリティナの好きなもの。
セリオンの心に陰が差す。
「もう少しだけ我慢してください。体が治ったらもっと広い世界に連れて行ってあげます。」
籠の中の鳥だった。
苛烈でわがままだと思われていたファリティナは、狭い貴族社会の中で望んでもいない柵に囚われ、自由に囀ることもできない哀れな鳥だった。
セリオンはファリティナの好きなものを知らない。
ジェミニやセアラが好む甘いお菓子を、本当にファリティナが好んでいたのか知らない。
ファリティナが弟妹たちに気を配るように、彼女に気を配っていた人間はいたのだろうか。
長く彼女の教育係として務めていた侍女さえ、ファリティナの拘束を機に屋敷を辞めた。
元から当主である母親と、反りが合わなかったらしい、というのはファリティナを取り戻し、世話をする人員を考え出してから聞いた。
ファリティナは知っていたのだろう。
母親代わりにいてくれた侍女がいないことに、特に何も言わなかった。
「庭園も秋の花が咲き始めました。」
「ええ。茉莉花の香りがするの。どこかにあったかしら。」
「私も覚えてませんが、部屋の近くにあるのでしょうね。でも、部屋に飾るには匂いがきつすぎる。」
そうね。とファリティナは微笑んで答えた。
「姉様の好きな花は何ですか。取り寄せますよ。」
ファリティナの手を柔らかく握ってセリオンが聞いた。
視力が使えないファリティナには、楽しみが少ない。せめて花の香りくらい楽しんでほしいが、覚束ない脚では庭園に出るのも一苦労だ。
それに母親のこともある。
ファリティナを傷つけたことを、セリオンはもちろん怒ったが、未だこの屋敷の主人は母親だ。
実質的な力ではセリオンの方があるが、だからといって母親を追い出すことも、軟禁することもできない。
どこかですれ違いでもすれば、また傷つけられるかもしれない。
些事の合間を縫って、セリオンは今、屋敷を探している。
ファリティナが安心して過ごせる場所を用意して、準備ができるまでそこで暮らさせるつもりだ。
公爵邸の中には別邸もあるが、なるべく母親の手が届かない場所を用意してやりたかった。
しばらく考え込んでいたファリティナは、唇を震わせた。
「ごめんなさい、わからないわ。」
涙に濡れた声で早口で答えた。
そして、誤魔化すように微笑んだ。
「聞かれたことが、なかったの。」
好きな花さえ、贈られたことがなかった。
家族がいたのに。
婚約者がいたのに。
セリオンに聞かれて、改めてその寂しさに気づいた。自分のことが哀れで、存在自体が虚しくて、心が震えてしまった。
生まれ持っての悪役、ファリティナ=ウィンディ=グランキエース。
割り切っているつもりだった。
生を受けたその時に、混乱を引き起こす種になったこと。そんなものは自分のせいではない。
目障りだと思われていることも、死を望まれるくらい疎ましく思われていることも、この立場に生まれ落ちたからには、仕方のないことだと思っていた。
だからといって、気づきたくはなかった。
生きてきた時間、誰にも気遣われることがなかったなんて。
立場を務めるための人形として、心のない人型として扱われていたなんて。
無関心が、こんなに残酷なことだなんて。
両眼に巻かれた包帯が涙に沁みた。
ジェミニ。
ファリティナは心の中でジェミニを求めた。
あなたのところに行きたい。
柔らかく小さい体を抱きしめたい。
そんなことを許してくれる存在もなかった。
抱きしめることも、抱きしめ返されることも。
手を繋ぐことも、側に寄り添って体温を分け合うことも。
人の肌の温かさを感じると、生きていることを許されている気がした。
あなただけは、私が生きていることを許してくれた。
失ってしまった。
もう、二度と返ってこない。
嗚咽も漏らさず、ただ涙を溢れさせるだけのファリティナを、セリオンは抱きしめていた。
××××××××××
ファリティナの涙が滲んだ包帯を取り替えた頃、ファリティナの部屋がノックされた。
セリオンの侍従が苦い顔をして入ってきた。
「ご面会の方がお越しです。ファリティナ様に。」
セリオンとファリティナが顔を見合わせた。
「誰だ?」
セリオンが聞いた。
「レミルトン家の先代様です。」
ファリティナに寄り添っていたセリオンの雰囲気が変わった。
どこで聞きつけたのか、ファリティナが屋敷に戻ってから二度ほど、 ファリティナ宛にレミルトン卿から手紙が届いていた。
重傷のファリティナには知らせず、中を確認すると、今までの疎遠を詫び、会って話がしたい旨が丁寧に書かれてあった。
だが、セリオンは無視することにした。
どちらにしろファリティナには会わせられない。
公爵家で娘を虐待していたことを知られるわけにもいかない。
甘言で近づいてきているが、コンスル公爵派がファリティナを嵌めたのは間違いない。レミルトンが首謀でなかった確証もないのだ。
不名誉に落とすだけで飽き足らず、命まで狙うほどファリティナのことを憎んでいたのであれば、幽閉を解かれたことも口惜しく思っているはずだ。
どんな汚い言葉で罵られるかわからない。
たとえこの公爵邸の中であったとしても、身を傷つけられることだってある。
これ以上、ファリティナを傷つけるわけにはいかない。
そう思い、セリオンはレミルトンが接触してきていることを、ファリティナに話さないでいた。
まさか、ここまで執拗に追いかけてくるとは。まだ人と会うには早い時間に、屋敷まで押しかけるとはなんと不躾な。
身分だけあって、実権などないことを見え透いているのだろう。
「会わなくていい、姉様。」
セリオンの声が硬く響いた。
ファリティナは俯きがちに、首を振った。
「そういうわけにはいかないわ。疎遠だったとはいえ、実のお祖父様だもの。」
「あなたはこんな状態だ。何が目的かわからないからこそ、会わせるわけにはいかない。」
「そうね、でも。」
ファリティナがうっすら笑った。
「もし、私を呪いに来たのであれば、この姿を見て、既に成就されたことに溜飲が下がるかもしれないわよ。」
「やめてください!姉様!あなたはそんな人じゃない!」
セリオンの思いもかけない激昂に、ファリティナは驚いた。
「まあ、セリオン。」
「あなたは何もしていない。そんなふうに自分を貶めないでください!」
セリオンは厳しい声でファリティナを戒めた。ファリティナは口を閉ざした。
「帰ってもらえ。体調が悪いと。」
セリオンが指示を出した時、ファリティナがセリオンの手を握った。
「ダメよ。会うわ、セリオン。」
「ファリティナ。」
「やっと出てきたのよ。本当のところ、何が目的か、少しはわかるはずよ。」
感情の籠らない声でファリティナが言った。
「…あなたという人は…。」
ギデオンなんかよりよっぽど権力のなんたるかが分かっている。
命を狙われていたというのに、どうしてそんなに強くあれるのだろう。
「立ち向かわなくていいのです。強くあろうとしなくても。この世界が私たちを排除するならば、私たちから捨てればいい。」
ふふ、とファリティナは笑った。
「悪役っぽいことを言うのね。」
「そんなに何度も立ち向かえないわ。いずれ退場する役回りならそう何度も機会は訪れないでしょう。だから、今回は会うわ。だから。」
側にいてね、セリオン。
ファリティナが柔らかくセリオンの手を握った。
「当然です。」
セリオンはファリティナの手を強く握り返した。