51 押収
ギデオンの訪問は突然だった。
ファリティナは扉の向こうが騒がしいのに気づいた。
人の出入りの少ない西の塔にしては珍しい。ファリティナは緊張して、扉を見つめた。
いつでも覚悟はできているつもりでいても、やはり緊張するものね。
ファリティナは臓腑に重くのしかかるものを感じた。
この部屋に入ってふた月はたっただろう。日付を見るものも無いので、正確にはわからないが、ぼんやりと数える。
夢で見たとき、毒杯を渡されたのは、学院を卒業する一月前だった気がする。
このまま、あと一年ほど過ごせるかと思っていたが、現実では進むのが早いのかもしれない。
セリオンは失敗したのだろうか。
鬼才と言われても、まだたった15歳。
爵位もない彼に、なんて酷なことを頼んでしまったのだろう。
セリオンだって、この公爵家に生まれなければ、自分の弟に生まれなければ、あの才能をもっと華々しく活かせたかもしれないのに。
せめて生き延びてほしかった。
彼ならどんな場所でも、華やかに咲いてみせるだろう。
セリオンのことが羨ましかった。
両親が、セリオンと自分を差別して扱ったと思ったことはない。
子馬を与えられなかったことも、女子だから、と侍女に諭され、そんなものかと思っていた。
その分、ファリティナには公爵令嬢として、豊漁地グランキエースの姫として十分のものを与えられたと思っている。
他家では、身につけられない豪華な衣装。年齢に比べて豪奢過ぎる宝飾品。
連れて行かれる社交場には子女は少なく、正直退屈なことも多かったが、下の爵位家の大人たち顔負けの衣装を身に着け、傅かれた。
そこにセリオンとの差をつけられることはなかった。
セリオンとの差は、生まれ持った才能だった。
何をしても、彼には勝てない。
一を聞いて十どころか、二十、三十も理解し、話を展開していくセリオンに、ファリティナは共感など持てなかった。それはセリオンも同じはず。
セリオンの横では、ファリティナは退屈におとなしく口を閉ざしているしかない。下手に発言すると、その理解力のなさに、大人たちは苦笑し、セリオンからは蚯蚓を見るような目で見られ、ファリティナは小さくなるしかなかった。
両親が彼を誇りに思い、将来を期待することは仕方なく、そのことに勝ち気に立ち向かう気はさらさらなかった。
そのことがいけなかったのかもしれない。
家族も周囲も、徐々にファリティナに興味を失っていくのが、身につまされて分かっていた。
そのことに、ぼんやりと傍観していただけで、目の前にあるものを淡々とこなしていっただけだった。
ギデオンと出会うまでは。
父が王家との縁を持ってきたとき、青天の霹靂だった。美しく朗らかな王子王女に囲まれた彼を、ファリティナは好ましく見ていた。ギデオンはいつも楽しそうだったから。
式典の場で緊張していても、兄姉の手助けを受け、可愛らしく微笑む様にファリティナもほっこりしたものだ。
伴侶になれるなんて思ってもみなかった。
言葉を交わすと優しくて、親切で、ファリティナのことを気遣ってくれた。
家族になる人だから、優しくしてもらってもいいのだ、と無意識に甘えてしまっていたのだ、と今なら思う。
家族でさえ、言葉少なに、事務的な気遣いしかされないファリティナにとって、ギデオンの気遣いは心からの好意に感じ、嬉しかった。
幼かった、とファリティナは反省している。
あの頃の自分は、ジェミニじゃない。
一人で外にも出られない幼児じゃない。
どんな人に会っても、どんな場所でも、寄りかからず立っていなければいけなかった。
それが、ファリティナ=ウィンディ=グランキエースとして生まれた者の責務だった。
嫌われ者の、公爵令嬢。
何もかも、望んだものではないけれど。
生まれてきたことも、王家の婚約者となったことも、セリオンの姉となったことも。
だけど自分の存在が、両親を困らせ、王家を困らせ、婚約者を困らせた。そして、無理難題を押し付けた才能ある弟も。
残った事実はそれだけ。
自分の存在に空しさを覚えながら、ファリティナは手に持った石を包み込んだ。
物語には悪役が必要なのね。
ファリティナ=ウィンディ=グランキエースは、生まれた時から悪役だった。
この世界にいる主役たちのための、成敗されるべき強敵。
ファリティナに与えられた身の丈に過ぎる豪華な衣装は、より強い悪役を演出する為のものだったに違いない。
望んだものなど、一つもないのに。
たったひとつ、小さな弟を救いたい。そう思うまでは。
その願いが、悪役ファリティナが願うものは全て、強欲に当たることに気づいていたら、願わなかった。
そうすれば、ジェミニはまだ生きていたのだろうか。
ファリティナが唇を噛んだ時、扉が唐突に開いた。
衛兵を手で制して、ギデオンが入ってきた。
その後ろから、セリオンが入ってきた 。
ファリティナは、驚いて眉を上げた。
二人はファリティナを見ると、眉を顰めた。
「殿下。」
衛兵が咎めるような声でギデオンに呼びかける。
「ここにある道具を全て押収しろ。誰の許可もいらない。王族の私の責任において、誰がどういう名状で彼女にこの仕事をさせたのか調べる。」
ギデオンの声がいつになく厳しい。
衛兵はおとなしく、ギデオンに従った。
「姉様。ファリティナ。」
セリオンがファリティナに呼びかけた。
ファリティナはふわりと笑った。
口当てをしているため、目元だけが優しく笑む。
「セリオン。」
セリオンに応える声は柔らかかった。
泣きたくなる。
こんな声だった。
セリオンは忘れかけていたファリティナの声に、胸が詰まった。
柔らかい、歌うような声。
ファリティナは口当てをして、王宮のメイドが着るお仕着せを着ていた。手元には辰砂の石があり、削って粉にする道具がある。
ファリティナが来ているお仕着せのエプロンにも、赤い粉が付着していた。
「ファリティナ、これは、毒だ。辰砂だ。」
ギデオンがファリティナに言うと、ファリティナは小さく肩を竦めた。
その表情を見て、セリオンが言った。
「知っていたなら、抵抗くらいなさってください!」
ファリティナは叱られた子どものように肩を竦め、目元で笑った。
「だって暇なんだもの。」
のんびりとした口調で、ファリティナが言った。
「あなたって人は…!」
セリオンが叱るように言う。
ファリティナは相変わらずふわふわと、慈しむようにセリオンを優しく見ていた。
ギデオンの心に二人の表情がストンと落ちた。
心細くて泣きそうなセリオンと、どこまでも能天気に笑うファリティナ。
不安だったろう。
この先何が起こるのか、誰もわかっていない。
だけど、ファリティナは弟たちを守るために笑うのだ。
だが、ファリティナの一言で、彼女は単なる16歳の少女だと思い知らされた。
「何かしていないと、悲しみに呑まれてしまいそう。」
セリオンがファリティナに手を伸ばし、そのまま抱きしめた。
「…姉様。」
××××××××××
気をつけてはいたのだ、とファリティナは言った。
口当てもつけ、石を持つ時は布で持つようにしていた。
粉もなるべく落ちないように、注意を払っていた、と言い訳するようにファリティナは言った。
ファリティナの着ていた衣服はすべて回収され、新しいお仕着せに身を包み、綺麗に清められた部屋でファリティナはのんびりと言った。
その暢気な様子と、ちぐはぐな現実。
死を覚悟していた。
仮定ではなく、この仕事を渡された時点で、死を望まれているのだとわかりながら、日々を過ごしていた。
その残酷さにギデオンは怒りを通り越して悲しくなる。
彼女に死を宣告するような酷い所業をしているのは誰か。
調べ上げる必要がある。
ファリティナの告発状が精査されないこと。
セリオンの面会の希望が通らないこと。
そして、公爵令嬢たる彼女に、過分な罰を与えていること。
見過ごしていいものではない。
この恣意的な罰の濫用を見過ごせば、公正を第一とする王家の威信に関わる。
ギデオンはそう主張して、警護の許可を待たず、ファリティナの部屋に押し入った。
「少し、痩せたわね。セリオン。背も高くなった。」
ファリティナは嬉しそうに言う。
あなたも。とセリオンは返して、言葉に詰まった。
ファリティナの顔には隠しきれない苦悩の跡がある。
たった何ヶ月かで、彼女は年相応の若々しさを無くしてしまった。
無邪気に、万能な自分に酔いしれるような、そんな初々しさは全く感じない。
あとどれだけ泣かせれば、運命はこの人を解放してくれるのだろう。
「ジェミニのこと、知らせてくれてありがとう。」
ファリティナは気丈に言った。
「ジュリアンとセアラは、元気にしてるかしら。」
「あなたがここに来てすぐに、サイリウムに連れて行きました。ジェミニの最期をともに過ごしてくれました。」
セリオンが言うと、ファリティナは悲しそうに息をついた。
「…酷なことを、してしまったわね。」
まだ10歳の彼らが、死を見届けたのか。
「あんなところに連れていかなければ。私が、セアラたちを出すように言わなければ。」
悔恨の言葉をセリオンが遮った。
「いいえ。」
セリオンは怒ったような顔をしてファリティナを見ていた。
「ジェミニは幸せでした。幸せでなかったはずがない。今まで屋敷より広い世界を知らなかったのに、あなたに、兄弟たちに慈しまれながら旅ができた。」
あんなことさえなければ、ジェミニは順調に回復していたに違いない。
たとえファリティナが拘束されたとしても、絆を持った兄弟たちが屋敷でもジェミニを守っただろう。
「ジュリアンたちも辛かっただろうけど、弟を愛していました。あなたが、ジェミニを守ったからだ。」
何が起きているのか。
双子の弟妹にははっきりと説明せずにいる。
だが、彼らは感じ取っていた。
ジェミニの身の上に起こったこと。
ファリティナが戻ってこないこと。
慌ただしくサイリウムに送られたこと。
「ジェミニを埋葬してすぐに、二人とも留学先に発ちました。」
そう、とファリティナは少し安堵したように息を吐いた。
セリオンはそっとファリティナの頬を撫でた。
「今日は連れ帰れないんです…。」
うん、とファリティナは頷いた。
「必ず、近いうちに迎えに来ます。2、3日のうちに。それまで、あと少しだけ我慢してください。」
セリオンが辛そうに顔を歪めた。
「…私は平気よ。」
ファリティナが言った。
笑みはなく、真剣な目でセリオンを見つめていた。
「無茶はしないで。セリオン。」
望みは、生き延びること。
自分でなく、あなたが。
ファリティナの目がそう言っていた。