38 夏の思い出
ファリティナは石を削っている。
シューシューと削る音だけが、誰も訪れない部屋に響いていた。
この石は囚役として渡されている。
随分な扱いだ。とファリティナは思いながら手を動かす。
黙秘は続いている。
それだというのに、勝手に罪を決められ、罰まで与えられる。
そんなに自分の存在が憎いのか。
その悲しい身の上が、ジェミニと被る。
ただ、生まれてきただけなのに。
公爵位など要らなかったのに。
王子との婚約などなくても良かったのに。
愛されると信じる立場にいたから、愛されたいと願っただけなのに。
叶わないものをほしがるのは強欲なのだ。ジェミニも自分も強欲だったのだろうか。だからこんな罰が与えられるのだろうか。
ファリティナはジェミニに会いたかった。
ただただ小さく、大きくなるためだけに生きている存在を抱きしめたかった。
どうか。苦しまずにいて。
何も知らないまま笑っていてほしい。
生まれてきたことを後悔する日が、あなたにはこないでほしい。
私のように。
××××××××××
ギデオンがファリティナの部屋を訪れた時も、ファリティナは石を削っていた。
その日、ギデオンは花束を差し入れた。
「昨日、学院でサマーパーティがあったんだ。」
花束はその時飾られていたものの一つ。
パーティの最後に、片付けついでにお土産に持って帰ることができる。
王宮の庭園の花を使用した美しい花束は毎年、令嬢たちに人気のものだった。
「まあ。」
ファリティナは嬉しそうに花束を受け取った。
「もうそんな季節なんですね。」
夏の盛り、この宴が終わると学院生たちは一斉に短い避暑に出かける。しばしの休暇を経てまた学院に戻ってくる。
ファリティナはもうひと月も、この西棟の中にいる。
石造りの塔は風が吹き抜ける日は涼しいが、ファリティナの部屋の窓は勝手には開けられない。
それでもファリティナはいつきても涼しい顔をしている。
アーベナルド牢獄から助け出してからも、泣くこと喚くこともせず、ここにいるのが当然のような顔をして静かに過ごしている。
どうして、そんなふうにいられるの?
ギデオンは軋む心を抑えながら、ファリティナと向かい合った。
「昨年は領地に帰っていたね。」
昨年もファリティナは欠席した。用事があるから領地で過ごす、と言って休暇が終わってもすぐには学院で姿を見かけなかった。
その頃のギデオンの周りはファリティナは執行部に入れなかったから、拗ねているのだと噂していた。
ファリティナが欠席していたので、今年と同じようにギデオンはアマンダをエスコートしてファーストダンスをした。
その頃からだっただろうか。
ギデオンとアマンダの恋仲が噂されるようになったのは。
「どうして、昨年は欠席したの?」
あの時、ファリティナが出席していれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
あれから坂を転がり落ちるように、ファリティナの評判は悪くなり、アマンダは色々な嫌がらせを受けるようになった。
ある時はせっかく仕上げた施策報告の書類を捨てられ、靴や鞄を故意に隠されていたこともあった。
執行部も一緒になって探したこともある。
怯えるアマンダを慰めるように一緒にいる時間が増えた。
それは、自分一人ではなく執行部全員がそうだった。
虐められるアマンダを守るようになってから、絆が生まれ連帯感が心地よかった。
ギデオンの質問にファリティナは答えなかった。ただ、美しい桔梗の花をじっと見ていた。
「・・・領地は、好き?」
ギデオンは質問を変えることにした。
ファリティナは少し微笑んで頷いた。
「・・・幼い頃、この夏の季節は毎年家族で行きました。」
返してくれたことが嬉しく、ギデオンは目で促した。
「双子の弟妹が生まれてからはあまり行かなくなりましたが、珍しく家族が揃う日だったので懐かしく思います。」
「いいところ、なのだね。」
「そうですね。山脈があるので自然雄大で、気持ちの良いところです。」
「そう。いつか私も行ってみたいな。」
ギデオンが言うと、ファリティナは口の端を上げて、奇妙な笑い方をした。
どきり、とギデオンは心が鳴る。
ファリティナはまだ婚約を解消されたことを知らない筈だ。
ここにそんな情報を入れるのは誰もいない。
それなのにどうしてそんな悲しそうに笑うのだろう。
まるで、ギデオンがグランキエース領を訪れることなどない、と分かっているように。
「グランキエース領は王都から少し離れておりますので、父が滞在できるのも少しの間でした。」
亡き公爵は政治の要職に就いていた。宰相職に就いていたこともある。若いギデオンは人となりを知る前に亡くなってしまったが、セリオンによく似た白皙の美男子だった。
あまり笑うことはなく、発言も短く要所だけを伝えて飾り気のない、子ども心には少し怖い印象だった。
「父は領地にいるより、馬車の中にいる方が長かったことを覚えています。」
グランキエースまでの道のりは馬車で3日。行って帰ってくるだけでも、およそ一週間。
政治の中枢にいる公爵では長く王都を離れられなかっただろう。
「それでも、お父上はご家族と一緒に行きたかったのだろうね。」
そう言うとファリティナは曖昧に笑った。
「父は、セリオンに領地を見せる必要があると思っていたのでしょう。継嗣ですから。」
「・・・きっと、君たちにも見せたかったのだと思うよ。」
寂しい言い方に、思わずギデオンは言った。
「・・・領地で、セリオンともう一人の弟は子馬を与えられました。狩の練習用に。私も欲しがったのですが、与えられなくて。」
「驚いた。意外とお転婆だったのだね。」
ファリティナは絵に描いたような高位令嬢だ。自分で馬どころか傘さえも持たない。常に侍従に囲まれているのでその必要がないのだ。
「ええ。父にはそう言われました。あまり話してくれないのに、お転婆もほどほどにと。馬も、もらえないと分かって、私、拗ねてしまって。家出をしたんです。」
「家出⁈」
「といっても、屋敷の厩舎の中です。誰にも言わずにこっそり隠れたんです。」
「それは。お父様は焦っただろうね。みんなが探して大変だったろう。」
「それが私はそのまま眠ってしまって。気づいたら自分の部屋にいました。そのあとも父からも何も言われなくて。」
侍従たちからは小言をもらったが、父も母も何も言わなかった。母は生まれたばかりの双子の世話が忙しかっただろうが、父は何を考えていたかよくわからない。
もともと、父からも母からもあまり言葉をかけてもらえる子どもではなかった。
「子馬はもらえませんでしたが、そのあと、狩の練習に行くときに、父の馬に乗せてもらえるようにはなりました。」
どこか勝ち誇ったように言うファリティナに、ギデオンは笑った。
「お父様はあなたが心配だったのだろう。女の子が馬に乗りたいと言い出すと思わなかったんだよ。馬を自分で乗りこなしたいほど好きだったの?」
ファリティナは相変わらずのんびりと首を傾げた。
「今思うと、置いていかれたくなかったのでしょう。」
その返答にギデオンの胸が詰まった。
寂しくないわけがない。
飄々として、いつも澄ました顔をしていた。
学院にいる時も、この部屋にいる時も。
人に囲まれるセリオンに対して、なんとなく日陰のように遠巻きに見られていた。
そのことを悲しく感じないわけじゃない。
彼女がもっと気安い性格ならば、人は寄ってきたのだろうか。
彼女がもっと賢ければ、話しかけられたのだろうか。
そんなふうに、もっともっとと、理想の何かを彼女に押し付けて、予想通りの反応を返してくれなければ、切り捨てて良かったのだろうか。
ファリティナの優しさは分かりにくい。誰にでも目に映る、分かりやすい優しさではない。
大きな声で人を巻き込む明るさで、分かりやすい善意を示しはしない。
だけど何か守るべきものには、信念を持って立ち向かう。
彼女の背に庇われた者は、彼女を信頼するだろう。
彼女が黙秘しているのは自分のためじゃない、とギデオンも気づいている。
セリオンに生きて、と言い、学院という盾に隠れるようにと言った。
セリオンを守るために、彼女の背に庇っている何かを守るために、ファリティナは信念を持って敢えて悪評を受け入れる。
そんな彼女を、守るべきは自分だったのに。
「あなたとの婚約が、解消された。」
ギデオンが言った。