26 好きの反対は、嫌いではなく、無関心
見覚えがある。
ファリティナは移された西棟の部屋を見回した。
豪奢な部屋だ。数時間前までのあの牢とは全く違う。床には柔らかい絨毯が敷かれ、二間続きの部屋には、片方には食事のためのテーブルセット、片方は一人で寝るにはあまりある広いベッドが誂えてある。
流石に窓には格子が嵌めてあるが、それでもガラスが入れられており、開け閉めもできる。
贅沢で、それでいて寒々しい。
ファリティナは自分を抱きしめた。
あの悪夢で毒杯を差し出された部屋に違いない。
予知夢が現実になっていっている。
最後はあの毒杯を賜るのだろうか。
ファリティナは眉を寄せて、ため息を吐いた。
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ギデオンは、王宮の幽閉部屋を準備させた。準備が整うまで、ギデオンの部屋で待たされることになった。
不躾だと思い、ファリティナはなるべく俯いていたが、懐かしさと物珍しさにチラチラと伺っていた。
婚約者であるファリティナは、以前ギデオンに強請って部屋に入れてもらったことがある。婚約が整ったすぐのことで、仲を深めるために度々王宮にギデオンを訪ねて来ていた。
今考えると、厚かましく、恥ずかしい行いであるが、ギデオンは快く応じてくれた。伴をしていた侍女たちに後でこっ酷く叱られたが。
今もこんな風に軽々しく自分を招き入れるということは、王子も貞操観念が薄いのだろう。
あの男爵令嬢とはもう懇ろになったのかしら?あの奥の部屋のベッドを使って。
寝室に続く扉をそっと見ながら、ファリティナは心の中で毒づいた。
飴色のテーブルセットに腰掛けて、お茶を勧められた。良い香りに、体が飢餓を思い出す。思わず手が伸びそうになったが、止めた。
ちょっと待って。
この3日、排泄もしなかったのよ。ここで水分を入れたら、急に催してくるんじゃないかしら。
ダメよ、絶対ダメ。
それだけは嫌だ。
親切面して人を嵌めるような性悪王子の前で、それこそ漏らしたりでもしたら大変だわ。
この不屈の精神を褒めたい、とファリティナは自らを称えた。
ギデオンはお茶に手を伸ばそうともしないファリティナに困ったように、優しい声で言った。
「…警戒、しているのか?信用してくれ、毒なんか入ってない。」
毒か。
その可能性にファリティナは今更気づいた。
危なかった。世の中には全てを話したくなるような、自白剤というものがあるらしい。気分を高揚させて中毒にさせるような薬も。そんなものを使われたらあることないこと、自白として利用されそうだ。
ファリティナはますます頑なに俯いた。
「気づくのが遅れてすまなかった。恐ろしかったろう。」
ギデオンが言った。
そっと目を上げると、ギデオンは本当に反省しているように、テーブルに目を落としていた。
「あんなところに、君がいるなんて思わなかった。もっと、早く確かめていたら。」
ああ。
とファリティナは心の中で嘆息した。
分かっていたけど、辛いものね。
無関心を突きつけられるのは。
自分がどういう処遇を受けるのか、関心さえなかったということか。貶める道具とはいえ、仮にも婚約者であるのに。
2人の婚約が整ったのは学院に入る一年前、ちょうどファリティナの父である公爵が逝去する直前だった。2人ともまだ13歳だった。
ファリティナは憧れの王子様と婚約できたのが嬉しく、まとわりついたものだ。
父の逝去や、学院への入学などめまぐるしく状況が変わり、なかなかゆっくりと会うことなどできなかったが、それでもファリティナは物腰柔らかく、優しいギデオンを恋い慕っていた。
それが一方的であることに気づいたのは、いつだったろう。ジェミニに構い出す頃には、流石のファリティナも気づいていた。
ギデオンから返される微笑みは社交辞令だと。
共に学院に入学したというのに、時間を合わせて会う計らいもなければ、同じ課題の仲間にも誘われない。
視界に入れば婚約者として扱ってはくれる。それもギデオンが執行部入りするまでのことだ。
ファリティナが理由のない欠席を繰り返しても、悪評で貶められても、ギデオンが動くことはなかった。
婚約者として必要な場所で公務を果たしさえいれば、ギデオンは優雅に微笑んでくれたし、寄り添っていた時間に不快な思いをさせられることもなかった。
それが優しさなどではなく、無関心からくるものなのだと、その時ははっきり気づかないでいたが、こう、自覚させられるとなかなか、心を抉るものである。
好きの反対は、嫌いではなく、無関心。
どこかの本で読んだ一説を思い出して、ファリティナは妙に納得した。
「何か言ってくれ、ファリティナ。セリオンの言うように、何もしていないなら、何もしていないと。アマンダに対しておもしろくないこともあっただろう。先日の誕生会でもアマンダは泣かされたんだ。君たちに確執があったのは否定できないだろう?だけど、突き落としたりしていないなら、そう言ってくれ。そうじゃないと。」
あれは勝手に泣き出したのだ。
ファリティナは鼻白む思いで俯いていた。
噂で人を判断して近づいてきたから、噂を突きつけただけだ。
あの場の勝負は正々堂々としたもので、誰かを引き連れて威圧したわけでも、痛めつけて恐怖を植え付けたわけでもない。
口喧嘩に負けたくらいで、権力のある恋人を頼るなんて、卑怯だ。
そんな気概で、魑魅魍魎の蔓延る社交界を渡っていけない。
と思っていたけど、今のこのありさまを見たら、そうでもないのね。
ファリティナは思う。
結局、愛は何者にも勝る。
まさに倫理さえも、社会常識さえも超える。
愛さえあれば、契約で決められた関係など、結ばれるための演出の一つでしかない。
だけど、王子の表情からして、ここまでのことは想定外だったということだろう。
どこまでも甘い王子様だ。
重苦しい沈黙はそれほど続かず、幽閉部屋の準備が出来たことが告げられた。
王子の先導で西棟に向かい、豪奢な部屋に案内された。
それほど急いだわけでもないのに、ファリティナは息切れし、肩で息をした。
「大丈夫かい?」
見かねたギデオンが、声をかけたが、ファリティナは無言で頷いた。
頑なに沈黙を貫き通すその態度に、ギデオンはため息をついた。
「侍女などはつけられないが、不自由なことは無いようにする。時間ごとに係りの者が訪れるだろうから、用があればその者に申し伝えてくれ。」
物珍しそうに部屋を見回したファリティナに、ギデオンが言った。
数時間前のあの牢とは大違いだ。
ここでなら、人間らしく眠れる。
正直助かった、とファリティナは思った。
いずれ死ぬかもしれないが、どうせ過ごすならこの部屋がいい。
ファリティナはギデオンに頭を下げて礼を言おうとした
だが、長い間動かしていなかった喉はヒューヒューと音を立てるだけで、言葉らしい音が出ない。
たった3日喋らないだけでこんなふうに弱ってしまうのね。
ファリティナは愕然とした。
ギデオンもそれは同じだった。
ファリティナが礼を言おうとしているのは態度で分かった。だが、閉じ込められていたせいでなにもかも弱っていたのだ、と今さら気づいた。
箱庭。
セリオンが侮蔑の色も隠さず放った言葉が今更ながら響く。
学院は箱庭だ。守られている架空の世界。だが、そこを一歩出れば命と尊厳を簡単に脅かす現実が待っている。
その残酷さにギデオンは今更ながら打ちのめされる思いだった。