25 王子の困惑
あまりの劣悪さに吐き気を催した。
凍てついた覇気を隠そうともしなかったセリオンに詰め寄られ、ギデオンはファリティナの幽閉場所を確認した。
返事はすぐになく、やっと返ってきたのは二晩を過ぎた昼過ぎ。
ファリティナが入れられたのは王都の端にある、アーベナルド牢獄だった。
凶悪な犯罪や殺人を繰り返し犯すものたちが収容され、その全てが死刑の罰が確定している。
すぐに駆けつけると、ファリティナは最下牢の暗い地下牢の中で、ぼんやりと座っていた。
悪臭が漂い、奇声が聞こえる。
ファリティナの牢では、食事の残りと思えるものにネズミが集っていた。
あまりにも醜悪な環境に、ギデオンは身震いした。
まさかこんなところに。
彼女は公爵令嬢で、王子の婚約者だ。
一歩間違えれば死に至る怪我を負わせるところだったが、それでも軽傷で済んでいる。
しかも相手は身分があるとはいえ、随分格下の男爵家。たとえ跡に残る傷がついたとしても、せいぜい示談金で済ませる程度のものだ。
こんなのは間違いだ。
ギデオンに気づいたファリティナは、ろくにギデオンを見ることなく、床に頭をつけた。
黙秘をしていると聞いていたので、さぞや恨まれた目で見られるだろうと思っていたので、言葉を失った。
認めていないのに、なぜ。
それではまるで、罪を認めた罪人のようじゃないか!
セリオンはファリティナがアマンダを虐めることなどあり得ない、と言い切って反証のために学院を休んでいる。
そこまで必死になっているからには、セリオンには確信があるのだろう。それならばどうして本人の口から、違う、と一言言わないのか。
ファリティナの酷く落ちぶれた様子と、その態度に考えがまとまらない。
とりあえず、外に出ることだ、と思い直したが、王宮の西棟しか思い浮かばなかった。
ファリティナは一切、言葉を発しなかった。
馬車の移動中も、王宮の自室で幽閉部屋の準備を、待たせている時も。
ギデオンはファリティナに向かい、違うなら否認してくれと訴えたが、ファリティナは一切の反応を拒否しているようだった。
その態度はひどくギデオンを苦しめた。
婚約者だ。
この先、死が分かつまで共にいることを約束している相手だ。
その相手からの黙秘。
契約で縛られた相手だとしても、信頼しあえる間になりたいと思っていた。
ここのところ、ファリティナには悪い噂がつきまとっていたが、ギデオンは学院の執行部と、本分の学業、王子としての公式な仕事が忙しく、ファリティナを近くに寄らせないことで噂から遠ざかろうとしていた。
信頼できる弟のセリオンが、頭から否定し、また会いに行った時に小さな末弟を抱きしめて慈しんでいるのを見て、噂は噂に過ぎない、と少し安堵した。
欲を言えば、自分でどうにかして欲しかった。
だが当人は姿を見せず、気にもしないようで悪評ばかりが尾鰭を付けて大きくなっていく。
周囲の人間たちが、面白半分だったり、本気で心配したりして、ギデオンの耳に入れる。ギデオンも困っていた。
そんな中、執行部の親しいアマンダが、困っているギデオンを助けたい、ファリティナを説得する。と言い出した。
アマンダは、施策のアイデアが秀逸で、平民の感覚や人の流れをよく掴む優秀な人材。心根も真っ直ぐで、人を助けたい、という思いが強く、明るい人柄だ。高位貴族の令嬢の見本のようなファリティナの側にはいないタイプで、もしかすると彼女の心をときほぐすかもしれないと思い、紹介した。
結果、惨敗だった。
権力の頂点にある公爵家を背負って立つ彼女からすれば、平民に近いアマンダに話しかけられたことだけでも許せなかったらしい。
先に帰ってしまったファリティナの代わりに、アマンダに聞いた事情はそんなことだった。
アマンダは失敗してファリティナを怒らせてしまったことをギデオンに詫びた。
だが、いつもの奔放にも思える思い切りがなく、歯切れが悪い。
問い詰めると、口に出すのも憚れるような言葉で、自分だけでなく、家族も貶められ、辛かったと泣いた。
しかも、とアマンダは続けた。
「ファリティナ様は、その、わたしとギデオン様の仲を疑っておいでで。わたしのことを泥棒だと。訴えて家ごと潰してやると…。怖かったんです。」
醜い、とギデオンは思った。
女のそういう醜聞は話には聞くが、実際、目の前にするとこんなに醜く、不快なものだと思わなかった。
そこからアマンダは今まで抱えていたものを堰を切ったように話し始めた。いくつかの話には、ギデオンも覚えがあった。
アマンダが優秀で、自分のそばにいるために、嫌がらせを受けている。
ギデオンは申し訳なく、結局はファリティナを遠ざける決断をした。
どうせ、数年後には婚姻をむすぶ契約だ。アマンダが視界に入らなければ、ファリティナの嫉妬も減るだろう。
それにしても欲深い。とギデオンは呆れていた。
学業を疎かにするほど、弟を溺愛しているのに、本来の本分である学院のことを蔑ろにしているにも拘わらず、執行部員に嫉妬とは。
ファリティナに対する不信感は募るばかりだった。
アマンダを階段から突き落としたと聞いた時、とうとうやってしまったか。と絶望的な思いだった。
父である国王への報告、立場ある王族の家族の顔が思い浮かび、ウンザリする気持ちだった。
だが、その後のセリオンとの面会で、雰囲気が一変した。
怜悧な美貌のセリオンがあれほどの感情を爆発させて怒りを見せたのは、初めてだった。
そして、セリオンが問い詰める一言、一言に、横面をたたかれたようだった。
噂は噂に過ぎない。
確たる証拠もなく、証言だけで罪を決めてはならない。
そんな基本的なことも実証されないまま、ファリティナは拘束された。
ファリティナはギデオンに無実を訴えることもしなかった。
悪評だけで罪に問えるなら姦淫罪に問える。
セリオンが指摘したことに、背筋が粟立った。
ファリティナには性に奔放で、淫らな悪女の悪評がつきまとっていた。あれが王族の一員となるとは、と眉をしかめながら噂されていた。
あんな噂になるほどの悪女ではないことは、ギデオンはよく知っている。
彼女は夜会にも出ない。自分を誘うこともなければ、どこかに参加したという話も聞かない。
夜な夜な場末の社交場に。とあるが、公爵位の彼女が供も連れず、外に出歩けるはずがないことは、同じような立場の自分がよく知っている。
高位貴族の実態を知らない、あり得ない噂なのだ。
だが、本人も婚約者である自分も否定しないために、偏見だけが広まっている。女性として、一番尊厳を傷つけられる噂だ。
そして。
今回の事件の顛末は、その噂を基にしている。
アマンダを怪我させたことが拘束の理由だが、罪として確定にされたことは、自らの素行の悪さを顧みず、王子の親しい友人を嫉妬のあまり傷つけたことだ。
セリオンは訴状を読んで、ギデオンに突きつけた。
姦淫の罪に落とそうというのですね、噂を真実にして。
恐ろしいほど美しい微笑みを湛えて、セリオンは執行部員を睥睨した。
「ここで宣言します。反証を用意してグランキエースへの侮辱罪で訴状を提出します。」
ファリティナを陥れたのはお前たちだ、とセリオンの表情は言っていた。
「後ろ暗いことがない方は怖がることはありません。所詮、この箱庭の子どもの遊びが行き過ぎただけのことだ。学院在学中に、灸をすえる。だが、ここを一歩出たら、命をかけての謀略だということをわかっていてほしいですね。相手が他国の王族であったとしたら、攻め滅ばされる覚悟でやることだと。我が国の盟主同士でやれば、当人だけでなく、一族の首をかけて。侮る、ということはそういうことだ。況してや、身分制を敷くこの国の、高位を相手に選んだんだ。」
にや、とセリオンは笑った。
「相応の覚悟を見せてもらいます。」
セリオンはもう一つ、訴状を用意しようとしていた。
「社会実験の一端として、ちょうどいい。」
そう言って披露した案に、執行部員たちはあんぐりと口を開けた。
噂で姦淫の罪に問えるのかとするのなら、同じく噂で婚約の破棄は一方的に行えるのかを実験する。と言い出した。
具体的には、一部の執行部員が、アマンダ=リージョンに入れ込んで婚約者を蔑ろにしているのではないか。という訴えだった。
この噂が、成婚を契約としてなされている婚約に、破棄をさせる効力を持つのか。
「待て!なぜ!なぜ俺なんだ!そんなこと、ここにいる誰だってやってる!」
名指しで実験台にされようとしている執行部員は、セリオンに噛み付いた。
「訴状を提出してもらう方の同意が得られたからですよ。」
ことも無げにセリオンが言った。
「これは研究施策の一環。そこに協力してくださると。」
「や、やめてくれ…。それこそ侮辱罪だ!」
「うん。そうなるでしょうね。それならばそれで、やってみましょう。噂は立てられた方が否定するのが難しい。訴えられた側が無罪の証明をすることを悪魔の証明と言います。当然ですよね、何もなかったというのは物証や証言が得難い。その難しい課題に、挑戦していると思ってくれていいですよ。訴状にはちゃんと、施策研究のためと加えておきます。このことで、醜聞が広がるようなら、どうぞ侮辱罪として訴えていただきたい。その効果がどれほどのものか、私も興味がある。」
セリオンは、ギデオンに向かって言った。
「公平で、慈悲深いギデオン殿下。どうかご協力下さいね。あなたの資質が、現実の統治にどう影響するのか、
ご自分の目で確かめてみたいでしょう?」