24 地下牢にて
気づかなければ良かったのかしら。
愛情を受け取ることが、こんなにも嬉しいことだと。
誰かの幸せを願うことが、こんなにも自分を奮い立たせると。
自分より小さく、哀れな存在を守ることで逆に自分が守られていると。
その気持ちを受け継ぎたい。誰かに想いを渡してあげたい。そう思うことで本当の意味での誇りを感じたと。
あなたに会えたことで、やっと人間らしく生きた気がするの。
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薄明かりの半地下牢で、ファリティナはぼんやりと思う。
ここに入っておそらく丸三日が経つ。天井に近いところにある灯とりの小窓から、日光が入り、また暗くなった。
日が落ちると文字通りの暗黒が訪れた。
牢は劣悪だった。
廊下に面する出入り口は格子で、目の前の独房が丸見えになっている。
最初の日、ファリティナの入れられた独房の前には一人の男が入れられていた。白い制服のまま連行されたファリティナを見つけると、男はおもむろに性器を出し自慰を始めた。
見るに耐えず、ファリティナは背を向けたが、男は見ろ見ろ、と叫び卑猥な言葉を投げつけた。
すぐに看守が飛んできて、男に殴る蹴るの暴行を加えた。
男は血だらけのままうずくまり、翌日、死んでいたようだった。
その時、ファリティナはここに入れられた意味を初めて理解した。
死を望まれている。
尊厳も矜持もない、出来るだけ惨い死を。
そう気づいてその時は、顔を押さえて泣いた。嗚咽は漏らしたくなかった。鼻を啜り上げる音さえも漏らしたくなかった。
戸のない格子だけの独房は、音は筒抜けで、時折どこからか排泄の音が聞こえ、食事どきには咀嚼の音が聞こえる。
それだけで気分が悪く、ファリティナは一切飲食も排泄もしなかった。
その感覚さえ感じず、ただぼんやりと板に薄い布が敷かれた寝台の上に座っていた。
ジェミニ。
ファリティナは心の中で大切な小さな弟に呼びかけた。
元気になった?寂しくない?姉様、帰れなくてごめんね。すぐに帰るって約束したのに。魂だけになれば、あなたのそばに行けるかしら。
飲まず食わずでも思考だけはできて、ファリティナはうつらうつらと眠りながら、たくさんのことを考えた。
沢山の足音が、自分の牢の近くに止まったことに気づいた時、ファリティナは実の母親のことを考えていた。
ファリティナが手付かずにしているパンと水だけの粗末な食事に群がっていたネズミたちが、キーキーと騒ぐのを見ながら、憐れだな、と思った。
実の母親は、学生の頃から父と婚約していた。卒業後すぐに結婚したのは、自分と同じだった。
そんな話を、ファリティナはサイリウム卿が話してくれるまで知らなかった。
ファリティナが生まれて一年もせずして、お腹を大きくした今の母親が後妻として嫁いできたので、現妻に慮り、誰もファリティナの母の為人を話す人はいなかった。それだけでも、憐れだとファリティナは思う。
次期公爵の婚約者としてきっと窮屈な学生時代を過ごしたのだろう。メイドだった母がすぐに後妻に入ったくらいだ。愛情などなく、責任感のみの夫婦関係だったに違いない。
だとしたら、とても虚しい日々だっただろう。
後妻との関係に怒り、孫である自分を含めてグランキエース公爵家と絶縁するぐらいだから、実の親には愛されていたのだろう。
だが、わざわざお腹を痛め、自分の命を削ってまで産んだ子供を見捨てられ、嫁いだ先ではなかったことのように扱われ、なんと虚しい、悲しい人生なのだろう。
ファリティナは母の肖像画さえ見たことがない。
せっかく産んだ子供にさえ存在を忘れられ、その上、その子は誰かの強欲な企みに巻き込まれこの劣悪な牢の中で死んでいく。
哀れだわ。
ファリティナはつくづく思った。
貴族女性の常とはいえ、政略で娶せられた上、醜聞の元になる子どもしか産めず。
ごめんなさいね、顔も知らないお母様。
家同士の鎹となるべき子供はあなたの希望にもなれなかった。
そう考えてうつらうつらしていると、牢の入り口がガチャガチャと音を立てた。
うっすらと目を開けると、美々しい騎士と貴族がいる。
婚約者の第二王子だと気付いて、ファリティナは寝台を降りた。
足に力が入らず、崩れ落ちるようにネズミの糞が散らばる床に座り込んだ。
どうしましょう、立てないわ。
このままでいいか。
どうせ、身分も何もない死を待つだけの罪人だ。
ファリティナはそのまま、手をついて一行に額づいた。
「…これは、どういうことだ。」
低い、唸るような声が響いた。
ファリティナは黙ったまま、頭を下げていた。
「彼女は公爵令嬢だぞ。なぜこんな牢にいる。こんな、こんな罰を受けるほどのことはしていない筈だ!」
王子が激昂していた。
王子がここにぶち込んだのだと思ったけど、知らなかったのかしら。
だとしたら、王子も間抜けね。
思考だけは相変わらずのファリティナはだんだんと冴えてきた。
ここに入れたのは手違いだったかもしれないが、自白でも強要されるのかしら。
ファリティナは形式的に行われる尋問に一切の黙秘を貫いている。
鞭打ちなんか受けたらさっさと認めてしまいそうだわ。痛いのって耐性ないのよね、私、箱入りだから。
「すまない、ファリティナ。なにかの間違いだ。すぐにここを出よう。」
「ですが、殿下。彼女は罪人です。」
「彼女の罪はそれほどのものか?そうじゃない。」
周りの刑吏が戸惑い気味に顔を見合わせる。
「では、いかがしましょう。他の牢が空くまで少しここでお待ちを…。」
「いや。」
王子が遮った。
「王宮に連れて行く。西棟だ。」
ああ、政治犯を入れるところね。
ファリティナは納得した。
伝統的に王族と高位貴族の政治の中枢に関わる人物が幽閉されたところ。
政治犯でもない自分が入れられるとしては、破格の扱いだ。だが、罪も認めていないのに、罪人としての扱いは変えられないらしい。
ファリティナは立たされて、牢を出された。
王子の後をついて、騎士達に囲まれて歩く。
3日飲まず食わず、ずっと寝台に座っていた身体は思うように動かず、歩く速さについていけず、肩を小突かれた。
「さっさと歩け」
刑吏の声が聞こえたのか、王子が振り返った。
「やめろ、無礼だぞ。私の婚約者だ。」
険しい顔をした王子に刑吏たちが驚いたように頭を下げた。
あら、知らなかったのね。
罪状を知らないことといい、身元を知らないことといい、ここの刑吏は随分下の立場らしい。
随分と雑な扱いで罪人に嵌めたのね。
王宮までの移送は意外にも、王子の馬車だった。
警護の騎士達と王子が揉めていたが、手枷をしたままの非力な令嬢が何ができる、と王子は押し通した。
馬車が動き出すと、王子がポツリといった。
「なぜ、否認しないんだ。」
苦しそうなつぶやきに、ファリティナは顔を上げた。
王子は青い顔をして渋面を作っていた。
私、臭いのだわ、きっと。
3日もあの劣悪な場所に着の身着のままでいたのだ。匂って当たり前だ。
そう思って、小さくため息をついた。
だったら一緒の馬車に乗らなきゃいいのに。そうか、王子自ら尋問する為なのね。
答える気は無い。これからも。
拘束された罪は冤罪だが、王子は分かっていて牢に入れたのだ。あそこまで劣悪な場所だと知らず、様子を見にきて慌てたのだろう。
セリオンが怒り狂ったのだろうか。
帰ったら罵られそうだわ。
防げるものではなかったが、呼び出しに応じて、ホイホイと出て行ったのだ。迂闊だ、馬鹿だと詰られても仕方ない。
「君は、していないんだろう、本当は。なぜ、無実を訴えない?」
ファリティナは黙秘を貫いた。
無実を叫ぶまでが何らかのシナリオなのだろう。ここで簡単にその手に乗るわけにはいかない。
「セリオンは君を救おうと必死に動いている。君が無実だといえば、もしかしたら釈放も叶うかもしれない。なぜ、否認しないんだ。」
ごめんね、セリオン。
あなたの邪魔をするつもりはないけど、自分が口を開くことで、敵に新たな好物を与えることになる気がする。
横領のこと、母の裏切りのこと。
あなたがあなたの才覚で選んだ人を味方につけるまで、黙秘し続けるわ。
ファリティナはしっかり口と目を閉じた。