22 絶縁
人気のない学院の廊下をゆっくり歩きながら、ファリティナとセリオンは話し合う。
今まで自分のことを中心に生活していた二人が、急に近づくのは母親にいらぬ警戒心を持たれる。なるべく今まで通り、屋敷内で積極的に話し合うのは避けるべきだ。とファリティナは提案した。
「追い詰められると、人間、ろくなことを考えないものよ。慌てて行動を起こされて、一番割りを食うのは結局、一番弱い存在だわ。」
学院に戻ったとしても、積極的に登校しているわけではない。週に一、二度現れるかどうかのファリティナと放課後の図書館で落ち合い、下校するこの時間だけが、ゆっくりと話せる機会だ。
ジェミニは屋敷にいないが、今度はジュリアンが、ファリティナの存在に依存している。
毒を盛られた、と身をもって知ったジュリアンは母親を警戒している。全容を話すにはあまりにも酷で、ファリティナは何も説明せずにいるが、そんなジュリアンをなだめるために、屋敷を離れられない。
セリオンは屋敷の中では、ファリティナにもジュリアンにも知らず存ぜずで過ごしている。
一見は変わらない日常に見えて、状況は目まぐるしく変わった。
「ジュリアンにいい先生が見つかって良かったわ。」
ファリティナが言った。
絵が得意だと分かったジュリアンに、学院の講師のツテを使って絵画の家庭教師が派遣されることになった。
絵画や音楽は、通常、女性の趣味であり、男性では嗜好品を生産する身分のない者たちの生業だと思われる。
名のある肖像画家などはそれなりに尊敬されているが、高位の子息が趣味とするには珍しい。
だが、ファリティナは推した。
コリンが騎士になる夢を叶えようとしているように、ジュリアンにも夢をもたせたい。それに、身分ある男性にも絵画を趣味にしているものもいる。
大概は政治の一線から退いて、豊かな領地経営の傍らの道楽だが、時々は名声とともに高額で売り出されることもある。
「相性も良さそうですしね。それにあの子にあんな才能があるとは思いもしませんでした。」
「そうね、驚いたわ。鉛筆画だけでも鑑賞に耐えるぐらいだもの。もともとの才能がすごいのね。…伸ばせる場所が見つかればいいけど。」
ジュリアンはセアラとともに皇国に留学させることに決めた。
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サイリウムから戻り、ファリティナはご無沙汰していた婚約者に帰郷の旨を知らせる手紙を送った。
離れている間にも、王宮で式典はあり、それを欠席したことを詫びるため面会を申し出た。
その返信にファリティナは青ざめた。
無事の帰還を労う言葉はそこそこに、多忙を理由に面会は断られた。
返信はほとんどが学院での過ごし方の注意に紙面が割かれていた。
曰く、以前からアマンダ=リージョンとファリティナの確執は噂になっているので、アマンダに近づくのは止めること。また、先日の誕生会での騒ぎで、アマンダ=リージョンはひどく心理的に追い詰められている。執行部として王子の自分と共に動くことが多いため、学院では自分との面会も出来るだけしないでくれ、と。
「王家は、グランキエースを切り捨てたわ。」
手紙を受け取って2日後の放課後の学院で、ファリティナはセリオンに告げた。
青ざめた頬はこわばっていた。
「ジュリアンをセアラと一緒に皇国に出しましょう。なるべく早く。このままだと、私の没落に巻き込まれる。」
ファリティナは休学の手続きが済み次第、モドリ城に戻るつもりだ。その時にセアラも連れて行くつもりだった。
モドリ港から皇国への船に乗せて、セアラを送り出す予定だった。
ジュリアンはセリオンとともに王都の屋敷に残すか、どうしてもファリティナと離れられないと言うのなら、モドリ城に行くつもりにしていた。
短期間にグランキエースの子女が半分、国外に出ることは、またあらぬ疑いを生みかねない、と警戒してのことだった。
だが、王子との事実上の絶縁を示唆する手紙を受け取り、ファリティナは臓腑が冷えた。
このままではファリティナの悪評を理由にし、婚約の破棄をされる。ガゼリの権益をどうするつもりかわからないが、芋づる式に鉱石の横領も表に出すつもりだろう。
国内でジュリアンを保護してくれるところを探すより、留学に出す方が早い。
子女が三人も皇国にいれば、ある程度財産を移しても一見怪しまれることはないだろう。信頼の置ける侍従をすぐに選定して、皇国の準備をしてくれ。
人気のない庭の長椅子に隣り合って座り、整えられた庭を眺めながらファリティナはセリオンに言った。
セリオンは、ぎり、と歯ぎしりした。
ファリティナが見ると、怜悧な眦が上がって、目に怒りを煌々と光っていた。
「ふざけるな。たかが噂に踊らされて婚約の破棄など。そもそもガゼリの権益は王家が欲しがったものだ。愛妾の顔を立てるために、グランキエースそのものを切り捨てるなんて。この婚約と鉱石のことは元は関係ない。」
「そうね、だけど、貴族だもの。望みのものを手に入れるためにどんな手だって使うわ。そんなに怒らないで。」
ファリティナは切なくため息をついた。
「怒ってもいいのです、ファリティナ。あなたが怒らないからこんな。」
「人の気持ちはこちらの都合で変えられないわ。好意を寄せることで味方につけられるなら、こんなことにはなっていない。」
悪夢を見る前、ファリティナは王子に好意を寄せていた。それも周囲が呆れるほどに。それなのに、王子はグランキエースを切り捨てたのだ。
ファリティナは胸が締め付けられて、胸を押さえた。
「叶わないものを欲しがって。なんて醜いのかしらね、私は。」
見開いたままの瞳から涙が溢れた。
将来の伴侶だと思うから、好意をねだった。返されることがない、と気付くまでに時間がかかってしまった。その間、周りから見たら呆れるほどの愚か者だったろう。
「…ファリティナ。泣かないでください。姉様。」
ごめんね、ファリティナは指で涙を拭いて、唇を噛んだ。
「頭の悪い姉でごめんなさい。私にもっと、力があれば。才覚があれば。」
「違います、あなたのせいじゃない。」
「守ってあげて。セリオン。あの子達を哀れだと思うなら。せめて、生き延びさえすれば。」
「姉様。」
セリオンは膝に握りしめたファリティナの手を取った。
「誰も死なせない。笑ってください、ファリティナ。あなたの笑顔が、あの子達の希望なんだ。」
うなずいたファリティナがこぼした涙が、握りしめたセリオンの手に落ちた。
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セリオンの隣を歩くファリティナが思い出したように笑った。
「なんですか?」
セリオンが聞いた。
「ええ、あなたにもあんな才能があったなんて。と思って。」
ふん、とセリオンが鼻を鳴らした。
「ご存知ですか?今の流行りは風景を切り取る写実ではなくて、もっと抽象化されたものなんですよ。私の絵はそれに近いのでは。すぐに理解されなくてもいいんです。」
サイリウム領で時間を持て余し気味の双子は絵を描いて過ごしていた。そこにファリティナも、珍しくセリオンも参加した。
セリオンの絵が壊滅的だったことに、大笑いした。
「知ってる?巷間ではあまりにも前衛的な絵を描く人を画伯って呼ぶそうよ。」
画伯とは身分ある人物が絵を趣味とするときに付けられる尊称だ。
だが、巷では、一周回って皮肉として使われているらしい。
「いいですね、実にいい。今から売りに出しておけば、100年後に理解できた人が得をする。」
「まあ、セリオンったら!冗談でもそんなことしたらあなたの信者が本気で競り落としに来るわよ」
ファリティナが声を上げて笑った。
実際、セリオンには魅力があり、学院での人気も高い。
サイリウムでは、初め評判だけで顔を覗きに来たサイリウム卿の子息からとても気に入られ、帰る頃には信者とも言える言動になった。
「どうする?モドリ城にあなたの名前とともに額縁に入れて飾られていたら?何年かおきに学院の生徒にも見学されるのよ。あれが鬼才セリオンの前衛的な絵画って。」
ファリティナがニヤニヤ笑いながら言うと、セリオンが心底嫌そうに顔をしかめた。
「最悪だ。二度と描かない。」
ファリティナが明るく笑った。釣られてセリオンも吹き出した。
「セリオン、待ってくれ。」
笑い合う二人を止める声がかかった。
見ると王子だ。
少し遅れて、当然のようにアマンダと数人が着いてきていた。
「良かった、探していたんだ。先程議案に上がっていた老人収容施設の施策について、もう少し聞きたいことがあるんだ。執行部室に戻ってくれないか?」
セリオンの眉が寄った。
「今からですか?」
少し険のある声色に、王子とその側近たちが怯んだ。
セリオンはファリティナを見た。
ファリティナは礼通りに軽く俯きがちで、話が終わるのを待っていた。顔色は窺い知れない。
「すみません、姉様。執行部に戻ってもよろしいでしょうか?」
ファリティナが頭を上げ、軽くうなずいた。その顔は淑女らしく、少し微笑んでいる。
「よろしいのですか?また図書館でお待ちいただくことになりますが。」
帰りの馬車のことを慮ったのだと思った王子が言った。
「帰りの足なら、心配ない。私がセリオンを送って行こう。」
そう言われても、セリオンの顔は晴れない。
本気で邪魔だ、と王子を思った。
この帰宅までの短い時間が、ファリティナとの貴重な逢瀬だ。先日、泣かないでほしい、と言ってしまったことを後悔していた。セリオンが協力者になるまで、ファリティナが一人、不安を抱えてどれだけ涙を飲んできたのかを思うと、撤回して、自分の前だけ泣いてくれと言いたかった。
それだというのに。
「心配ないわ、セリオン。先に帰ります。」
「ですが。姉様。」
話し合うべきことはまだある。
ファリティナの休学の手続きが進まないのは、母親が反対しているからだ。ファリティナはいざとなればジュリアンとセアラを先に皇国に出すことを希望しているが、あの二人はファリティナに依存している。見捨てられたと思い、失望されれば、皇国での生活に耐えきれない。
セリオンは休学の承認を待たずにサイリウムに出奔させることも考えているが、準備が十分とは言えなかった。
「セアラにケーキを約束しているの。遅くなれないわ。」
ファリティナは明るく言った。
「またですか。先週買って帰ったばかりだ。」
「いいじゃない。今度は違うものを食べるんですって。」
「ほどほどにしてください。子豚を出すつもりですか。」
相変わらずの嫌味にファリティナがクスクス笑う。
「あなたにも残しておくわ。」
ファリティナが言うと、セリオンは肩を竦めた。
甘いものは好物ではない。
「相変わらず、甘いんだから。」
ジェミニだけでなく、弟妹一様に。
そのファリティナは、誰に甘えられるのだろう。
美しい微笑みの仮面の下で、セリオンは悲しく思った。