アルナイルへの羨望
「姫、」
自分の名前も、姉という呼びかけにも反応することが難しい時が多いが、この呼び方だけはすぐにわかる。
ジゼルは、ラサルハグェの黒い鱗を撫でていた手を離して、振り返った。
「エマニュエル」
「ここにいらっしゃる時は、先ぶれをくださいと、何度も、」
「ごめんなさい」
そう言われたことを覚えていた。けれど、獣人が多く住むこの人馬宮に、自分の侍女を単身、先ぶれに行かせる気にならなかった。
あからさまな敵意を感じる場所に、一人で行かせるよりは、こうして来てしまった方がましだと思っていた。
それに、知らせるつもりはなかったのだ。
ただ、ラサルハグェに会いに来ただけだったからだ。
「次からは、守ってください。ここは、騎士もいますが、気性の荒い獣人だっているんですから。」
「はい。」
「……ラサルに乗りますか?」
エマニュエルは、親切だった。
この婚姻によって、エマニュエルは爵位を得る。その対価に、婚約者と別れてジゼルを引き受けたのだ。エマニュエルにとっても、これは益のある取引なのだろう。
だから、エマニュエルは親切なのだと思った。
「いいえ、今日は、やめておきます。」
あれ以来、一度もラサルハグェには乗っていない。
自由に空を飛びたい
ただ、それだけの言葉が、エマニュエルの翼をもいでしまった。
自分が犯した罪の中で、最も罪深いことだと、ジゼルは思っていた。
だから、ラサルハグェには乗ってはいけない気がしたのだ。
「姫?」
「会いに、来ただけなのです。邪魔をしたようですので、戻りますわ。」
「姫、邪魔などではありません。」
「……汗。」
「え?」
「汗をかいているわ。鍛錬中に、慌ててこちらに来られたのでしょう?あなたの生活を乱したいわけでも、邪魔をしたいわけでもないの。」
「私は、姫のなさりたいことを邪魔したいわけではありません。」
もう、ここに来ないようにしよう、そう思ったのでしょう?
問いかけられて、ジゼルは顔を上げてしまった。それでは、肯定しているのと同じだ。
「……それならば、一つお願いが。」
「なんでしょうか。」
「一人、女性の獣人で、騎士の方を私につけては下さりませんか?」
「獣人ですか?」
「ええ。お強いと耳にしますから。」
「分かりました。選定にお時間を頂戴しても。」
選定に時間がかかる理由を、ジゼルは考えなかった。きっと、考えていても答えは出なかった。
ジゼルは、諦めることを知っている。人に生まれて、女に生まれて、そして、守り人になった。その全ては、諦めることから始まっている。だから、人の性と、獣人の性の違いなど分かりようがなかった。