レグルスの牙
執務室のある獅子宮は、赤を基調とする宮だ。
エマニュエルは、その好戦的な色調は、オレールによく合っていると思っていた。
オレールは美しいヘーゼルの瞳に、柔和な顔立ちだったが、その内側に攻撃的な性質を持ち合わせていた。12歳とは到底思えない力業を時に披露するが、姉には絶対にそれを見せようとはしなかった。
力のない弱い国王。頼る縁のない非力な少年を、わざと姉には見せているように見えた。
もちろん、穢れなき乙女であるジゼルは、その姿をそのまま受け止めているようだった。
そして、オレールは、そんな姉に弱かった。
「エマニュエルに、頼みがある。」
「……なんでしょうか。」
ジゼルをラサルハグェに乗せてからというもの、なんとなく嫌な予感はあったのだ。
最初に、黒竜をジゼルに見せてほしいと言われた時は、ほんの少しだけ嫌な予感があった。でも、それ以来、嫌な予感というものが、常に、そして強く感じられた。
「姉上と結婚してくれないか。」
「……それは」
「分かっている!お前には、婚約者がいる。獣人の婚約が意味するものも、分かっている。番というものが、何たるか、理解している。でも、姉上の願いを叶えたいのだ。」
「姫が、望んでいらっしゃるのですか。」
「いや、口にはされない。姉上は、多くの守り人がそうであったように、生涯独り身を貫くおつもりだと思う。でも、私は、姉上に幸せになってほしいんだ。たくさんの時間と、心を犠牲にしてきた姉上に。」
エマニュエルも、確かにそう思っていた。国のために犠牲になってきた人だ。報いてやりたいという気持ちは分かった。でも、それに、応えては、婚約者にあまりに不義理だと思った。
「姉上は、口にはしない。でも、神殿から王都に戻る間も、お前を気にしていたと、アンヌ=マリーが言っていた。この間だって、そうだ。決して、私以外の男に触れない姉上が、お前には、それを許したし。あんなに言葉を交わすなんて、ありえないんだ。」
「……ですが、」
「本当に、申し訳なく思っている。エマニュエルの婚約者殿にも私から話を通す。必ず、良い婚約者を探す。だから、どうか、姉上との婚姻を考えてくれないか。」
メトロポリテーヌに、獣人が住むようになったのは先代の王の時代からだ。それまでは、交流はあったが、国民として認められたのはつい10年ほど前にすぎない。
獣人についての理解が及んでいない。
はっきり言って、こんな願いは、獣人同士では決して口にされない。婚約というものが、獣人にとって何たるか。番というものが何たるか。それを、オレールは、本当の意味で理解できていないのだ。
人の性と、獣人の性は違う。移り変わる人の心と、獣人の変わらぬ心は違う。
「公爵の地位を用意する。」
「位は必要ありません。」
「だが、それくらいしか、お前に報いることができない。エマニュエル、お前から番を奪うことになる。分かってるんだ。本当は、こんなことすべきじゃない。獣人を国民として迎えたんだ。僕はこの国の王として、本来、こんなことすべきじゃない。でも!でも、姉上をお一人にしたくないんだ!」
いなくなってしまいそうなんだ
まるで、死ぬのを待っているようで
そう言ったオレールの瞳が、エマニュエルには初めて年相応に思えた。何か、狙いがあるのかもしれない。この少年王のことだ。
でも、姉がいなくなるのではないかと恐れているその様だけは、本当のように思われた。
「……わかりました。」
「本当か!」
「ですが、忘れないでいただきたい。我々、獣人にとって番と引き離されることが、半身をもがれるほどの痛みであることを。」
「……ああ」
あの儚く脆いあの人と、エマニュエルは結婚することになる。
細い体で祈り続けてきたあの人に、報いてやりたいと思う一方で、番から引き離されることがどれほど痛みを伴うか想像すると、恐ろしくなる。
オレールが望むような、ジゼルの幸せは、与えてやれないのではないだろうか。
エマニュエルは、いつの間にか握りこんでいた掌に爪が食い込んでいる痛みに気づいて、静かにため息を吐いた。