蝶を愛でるミラ
ジゼルは、久しぶりに処女宮に入った。そこには、本当に何もなかった。
ジゼルが何にも執着しないように、机とベッドと、わずかな本だけ。鏡も、絵も、娘らしい装飾も一つもない場所だった。
思い出でもあるかと思ったが、ここにきても、思い出せることは何もない。
ただ、寒かったことを思い出した。
「ジゼル様、戻りませんか?少し、埃っぽいです。」
鼻にしわを寄せた黒い耳の獣人は、ララの代わりに、ジゼルの護衛を務めるコラリー・デュボワだ。見慣れない垂れた耳を見て、ジゼルは、何の獣人か聞いたが、答えを教えてくれなかった。
後から、エマニュエルに聞けば、雑種で、そしてその問いかけが、彼女にとってタブーであることを知らされた。
「ええ。そうね。」
「どうして、こちらに?」
アンヌ=マリーは、ジゼルが体をわずかに震わせたことに気づいたのか、ショールを肩にかけてくれる。
「何か、思い出すことがあるかと思ったのだけれど。何も、感じなかったわ。」
オレールが、古くなった処女宮を改修することを決めた。ジゼルの宮だったから、ジゼルの許可を求めてきた。
ジゼルが反対する理由など一つもなかったが、一度訪れることを決めたのだ。
「思い出す必要などないわね。」
十分、自分は満たされている。ジゼルは自分の左手を見た。人差し指の結婚指輪以外に、薬指に約束の指輪があった。
本物の宝石で作り直すとエマニュエルは言ったが、ジゼルは譲らなかった。この指輪は、ジゼルにとって、自分を繋ぎとめるものだったからだ。
「ジゼル様、一つ、お耳に入れたいことが。」
「なに?」
「手紙がなくなったことです。」
ジゼルが、ジスラン・ドゥニに書いたものだ。書き途中で、アメデに呼び出されたため、机に置いたまま放置していた。
そのあとは、気を払う暇がなくて、すっかり忘れていた。ふと思い出して、探したが、どこにも、その手紙はなかった。
モーリスも、アンヌ=マリーも知らないとなると、ハウスメイドが間違って捨てたとしか思えなかった。
「あったの?」
「いいえ、どこにあるかは分からないですが、ジスラン・ドゥニが死にました。」
「……え?」
「女遊びの激しい方でしたから、恨みを買ったのではと噂されていますが。」
「含みのある言い方ね?」
アンヌ=マリーは、少し迷ったように口を開いた。
「旦那様ではないかと。」
「まさか!隊長はそんなことなさいません!」
ジゼルには、コラリーの否定は耳に入らなかった。
エマニュエルは、自分と同じ。
ジゼルは嬉しくてたまらなくなった。否定され続けて、捨てることを強要され続けた執着。捨てなければ生きることが出来ないと、自分自身も思い込んでいた感情を、エマニュエルだけは愛してくれる。
そして、同じものを返してくれる。
「……そう。彼は死んでしまったの。」
これで、ジゼルの周りで起きた不幸が一つ増えてしまった。だが、それはジゼル自身を輝かせるための、一つの犠牲に思えた。
誰かの犠牲のもと、ジゼルの中の季節が息を吹き返していくのを感じる。
「ラサルに会いに行くわ。」
「すぐに、隊長に知らせてきます。」
走り出したコラリーを追うように、アンヌ=マリーと一緒に処女宮を出て、ジゼルは歩き出す。
ジゼルの中で息を吹き返した季節は、花を目覚めさせる。ミモザが散ることのない花を、咲き誇らせていた。
愛と呼ばれる感情は、いつかこのミモザさえ燃やし尽くしてしまうほど強く輝き、そして薄汚れているものだ。ジゼルは、それを知っている。
でも、それを捨てようとは思わない。
エマニュエルへのこの感情が、いつか今日という日すら燃やしてしまっても、もう捨てようなどとは思わない。
「姫!」
ラサルの前に、すでに立っていたエマニュエルは、ジゼルを見つけると、その銀の尾を揺らした。
いくつの不幸を踏みつけても、ジゼルはこのエマニュエルへの感情を育て、花を咲かせ、いつか散らせて見せる。
「占いは、よく当たるものね。」
一羽だけ籠の中に片翼の蝶
それが、ジゼルを指しているわけではないことに、気づいたのは最近だった。ジゼルは、その籠の中の片翼の蝶を愛し、閉じ込めているのだ。
「姫?なにか?」
「いいえ?」
ジゼルが微笑むと、エマニュエルは人前にもかかわらず、深く口付ける。
エマニュエルの口づけを唇に受け、ジゼルの中でまた一つ花が咲き誇った。
花の中、地を這う虫けらがいる。これが、この虫の見る夢だったら、そこまで考えて、ジゼルは一歩足をすすめた。花の中にいる地を這う虫けらを躊躇なく踏みつぶす。
躊躇する必要などない。ジゼルの中に生まれた季節は、不幸の上に成り立つ美しい季節なのだから。