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籠の中のアルファルド






どうして、こんなことになっているんだろう。


ジゼルの瞳を見ていると、そう思っていることが分かった。

王宮からリシュリー邸まで、馬を取りに行く時間も惜しんで、全速力で走って戻り、汗が体を伝っている。

ジゼルは、神殿から与えられた白い服に身を包み、繊細なアクセサリーを身に着けていた。

神殿にジゼルを迎えに行った時と、服装も髪型もアクセサリーも似ている。今まで、似せるために身に着けていたものではなく、本物のそれを見て、ジゼルが戻ることを、神殿が承知していることを知った。

部屋に入って、一つ瞬きする間に、それが分かって、ジゼルを夫婦のベッドに押し倒した。

上から動けないように力をかける。ジゼルは、初めて、エマニュエルから目をそらさずに見つめていた。


どうして、こんなことになっているんだろう。


その瞳は、幼い子どものように、ぼんやりとそんなことを考えているようだ。




「ジゼル様!!」

「アンヌ=マリー、下がれ。」




エマニュエルが、殺気を含んで、命令したが、アンヌ=マリーは動かない。ジゼルから視線をそらさないままでも、アンヌ=マリーは震えていることがわかる。それでも、アンヌ=マリーにとって、仕える主人は、ジゼルなのだろう。一歩も動こうとはしない。

邪魔するなら、殺すぞ

そう、言おうとした瞬間、ジゼルが微笑んだ。それを見て、エマニュエルは、全ての感覚を奪われた。ジゼルのこと以外、すべて、些末なことのように思える。




「アンヌ=マリー、大丈夫だから、下がって。」

「ですが、ジゼル様、こんな獣を、」

「大丈夫だから。下がって。」




獣、そう言われて、エマニュエルは、ぞっとする。人にとって、今の自分は、理性を失った獣も同然に見えるらしい。


それは、そうだ。


抵抗することのできない小さく愛らしい妻を、エマニュエルはベッドに押し倒して、動けないように関節を押さえている。

妻の小さな足が、わずかに動いていたが、それも許さないために、膝を押さえた。窮屈そうに首を動かしたが、視線だけはエマニュエルに注がれている。

走ったせいでかいた汗ではないものが、背中を伝った。

逆に、今まで、なぜ、我慢できていたのだろうか。自分の獣人としての性すら抑え込めていた、騎士としての理性を尊敬すると同時に、霧散して消えたことも分かった。




「姫……姫、ああ」




可愛さに言語中枢がいかれているようだ。話し合えと言われたが、このまま匂いつけしてもいいだろうか。あれほど、愛していると言われていたのだ。

構わないだろう。




「エル、待って」




だめだ。誘っているようにしか聞こえない。香りが甘くて、おかしくなる。あの下品な香りと全く違う。ジゼル特有の爽やかな果実のような甘い香りに、だらしなく涎まで垂れそうだった。




「エル、」




エルと、その声で呼ばれるだけで、支配されそうになる。ジゼルはとっくに、エマニュエルを支配しているというのに、これ以上、どうしようというのだろうか。ジゼルが、嫌がっていると思ったから、失態を犯さないために、家に入らなかったし、最大限、近づかないようにした。

本当は、エマニュエルだって舞踏会で踊りたかったし、健闘会で優勝して祝福のキスをもらいたかった。下品な発情期の雌猫が邪魔さえしなければ、祝福を与えられたのは、あの憎きギー・アゼマではなく、自分だったはずなのだ。




「離して。」




その一言で、エマニュエルは冷水をぶっかけられた気分になる。先ほどまで、頭の中でジゼルが自分を受け入れてくれる幸せな妄想を展開していたところに、急に土砂降りの雨が降ったようだった。

ジゼルは気づいているのだろうか。ジゼルが望むように、たった一言で、ジゼルはエマニュエルを支配している。

ジゼルに死ねと言われたら、死ねる。ただし、ジゼルを殺して一緒に。




「……いやです。」

「離して。私、行かないと。」

「どこにですか。」

「神殿に戻るのよ。」




足を抜き取ろうと、膝を折る。小さな膝頭が視界の端に見えた。噛みつきたくなった。




「そんなところ、戻る必要はありません。あなたを、閉じ込める場所になんて。」

「いいえ。戻るの。これは私の意思よ。」

「……なるほど、そうですか。あのアメデとかいうやつの首を捧げればよろしいですか?」




ジゼルは目を見開いた。ヘーゼルの瞳がこぼれそうで、かわいい。




「何を言ってるの。」

「ああ、それとも、神殿なんて壊してきましょうか。もちろん、全員皆殺しにしてきます。」

「エル、そんな必要ないわ。私は、あそこに戻る。それで、全部、元に戻せるの。」

「番は、そんなものでは、引き裂けませんよ。」




神殿の服は、薄くて心もとないのに、露出は至極少ない。エマニュエルがつけた証が見えない。神殿も、神殿を象徴するような服装も、すべて、エマニュエルにとっては、番を奪う敵でしかない。




「……私は、あなたの番ではないわ。」

「いいえ、番だ。証を持っている。」

「まがいものだと、知っているでしょ!」




まがいもの?


ジゼルの言葉に首を傾げた。番にまがいものなどない。ジゼルは、エマニュエルのただ一人の番だ。

誰が、どれほど否定しようと、エマニュエルの番はジゼルだけだ。




「あなたの番を、私は奪ったわ。」

「ああ、イザベルのことですか?」




息をのんで、ジゼルが瞼を閉じた。もう一度、開かれた瞳は、エマニュエルから視線をそらしていた。許せなかったので、口付けをする。

拒むように首を振るジゼルにしつこく口付けて、離すと、ジゼルはこちらを見た。それに充足を覚える。




「彼女とは、番になる約束はしていましたが。実際には、番になっていません。証を交わしたのは、姫とだけです。」

「でも、あなたはずっと困っていたわ。私を見るとき、いつも迷っている顔をしていたもの。」

「そうですよ。最初は、人の理の中に入れられてしまって、困りました。獣人は、誰かに言われて番うわけではないですし、獣人の社会では受け入れ難いことでしたから。」

「だから、破棄しようと、」




婚約破棄をしようとしていたジゼルを思い出して、思わず手に力が入ってしまった。顔を歪めたジゼルを見て、人がいかに弱いか痛感する。それが、また、愛おしい。




「困っていたのは、あなたの言葉を真に受けていたからです。姫の望みではなく、陛下の意に沿う結婚だと言ったでしょう?それを真に受けていたんです。姫が望んでいるわけではないなら、婚約は破棄すべきだ。でも、姫を失うのは耐えがたかった。だから、俺は同意なく、あなたに番の証を付けてしまった。」

「でも、結婚してからも、匂いつけをしなかったじゃない。」

「それは、姫の意に反する結婚だと思っていたからです。匂いつけは、そういう行為です。無理に番にしてしまったんですから、無体を強いるのは気が引けました。だから、なるべく、姫との接触は避けていました。理性が持ちませんから。」




ジゼルは、今までとは違う表情を見せていた。少し頬が赤くて、目が潤んでいる。泣きそうな、恥ずかしそうな表情に盛大に煽られた。




「もういいですか?かなり、もう、限界です。匂いを付けたくて、おかしくなりそうだ。」

「だめ、待って、」

「えー」

「それに、この体勢では、話に集中できないわ。」




待つことは了承して、体勢は変えなかった。番に忠実な獣人が多いが、エマニュエルは、忠実すぎては番が逃げてしまうことを既に学習済みだ。




「運命の番は?」

「あー」




説明するよりも、香りをかぎたくて、首元に顔を寄せる。




「エル!」

「姫は、なんと聞いているんですか?運命の番について。」

「運命の番は、神が祝福した運命の相手だと。一生一人と決めている獣人が、番を捨てるほど、愛する相手。出会えることが奇跡。出会ったら、最後、二人を引き離すことは神にもできない。そう聞いているわ。」

「一部の獣人が、愚かにも、子どものおとぎ話を信じているだけですよ。」




ジゼルは、小首をかしげた。その所作すら、かわいくて死ぬ。




「運命の番、そんなもの獣に身を落とした獣人の言い訳です。あの下品な香りに負けて、本能に落ちた愚か者が、運命の番などと世迷言を言っているだけ。」

「そんな、」

「本能に負けて獣に落ちることは、獣人にとって恥ずべき行為だ。四つ足の獣に、自身が近いことを公言している恥ずかしい行いです。」




だから、グレース・ユルフェを、ジゼルが始末したとき、驚いたのだ。心優しいジゼルが、エマニュエルのために、そんなことをすると思っていなかった。

ここで、初めて、ジゼルの関心が、もしかしたら己に向いているのではないかと思った。




「じゃあ、グレースのことは?」

「発情期のうるさい猫としか思っていませんよ。」




グレースの前にいると、確かに発情の下品な匂いに中てられる瞬間もあった。だが、それが理性を上回ることはなかった。その匂いを感じた時は、ジゼルのことを考えて、やり過ごしていた。




「でも、私、神殿に、」

「無理です、もう。前までの私なら、手放すこともできたかもしれません。あなたに無理強いをしていたと思っていた私なら、自分の心も体も引き裂いてでも、神殿まで送り届けることもできたかもしれない。」




でも、もう、無理だ。埋まらない溝があることを信じて、その溝の手前から、眺めているだけでも幸せだと思っていたエマニュエルは、そこに溝がないことを知ってしまったのだ。

眺めているだけでは、もう、満足できない。傍にいられれば、それだけでいいと思っていた自分は、もう死んだ。エマニュエル自身が、殴り殺した。




「今日、姫の執着を、姫の言葉で聞いてしまった。」

「居たの?」

「ぞくぞくしました。私への執着を知って。」




ゆっくりと、唇を近づける。獲物を追い詰める獣のように、ゆっくり、気配を消しながら。

ジゼルは拒絶の言葉を、口にしない。




「姫、」




そう呼びかけながら、息苦しい詰襟の襟元を取る。




「エル、……名前で呼んで?」




頭の中で何かが爆ぜた。もう無理かもしれない。エマニュエルは、頭の中で爆ぜたのが、理性だと分かった。

四つ足の獣に落ちるのも、悪くないかもしれない。

そこでもう一度、ジゼルは人間でか弱いことを思い出して、頭の中で爆ぜた理性をなんとか搔き集める。




「エル?」




すぐに、それが意味のない行為であることを、理解した。








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