アル・スハイル・アル・ムーリフ
ジゼルは、レースを編んでいた手を止めて、外を眺めていた。最近は、出かけることも面倒で、ジゼルはずっとリシュリュー邸に籠っている。時折、庭に出てみるものの、にぎやかだったジゼルの周りは、今は悲しい静けさが包んでいた。
時折、寂しい、と口に出してみるが、誰もが痛ましい顔をするだけで、ちっとも心は晴れなかった。
「ジゼル様、旦那様のお帰りです。」
まだ日のあるうちに夫が戻ったことなどない。ジゼルは期待を持ちそうになって、すぐやめた。どうせ、ジゼルに会いに帰ってきたわけではないのだ。
モーリスに、そう、とだけ返事をして、ジゼルはぼんやりと庭を眺めている。すると、すぐに部屋が騒がしくなった。
「……姫」
「あら。お帰りなさい、エル。」
あの事件以降、夫に会ったのは初めてだった。獣人を思いのままにできる香り、その全てを闇に葬れと弟に命令された夫が、忙しかったのはうなずける。だから、会えないのだと、理由をつけると、心はわずかに楽になれた。
ジゼルは、わずかに微笑んだが、エマニュエルの表情は険しかった。いつもの惑うような迷うような、そんな表情ではなくて、明確に不快を示すようなものだ。
「どうかしたの?」
「ララの処分が決まりました。」
「……そう。また、処刑?」
ジゼルは、悲しい気分になる。
「いいえ。ただ、懲戒免職、王都追放処分となりました。」
「そう、それは良かった。私の周りで、これ以上、不幸が起こるのは悲しいですから。」
神殿に帰りたくなってしまう。
そう言いかけて、ジゼルは口をつぐんだ。
近くに立っていたアンヌ=マリーが、あからさまにほっとしたのを見て、優しい心の持ち主なのだと思った。アンヌ=マリーは、本当に、ララのことを心配していたのだ。
「ララは、不用意に薬のことを話してしまった。それが、グレース・ユルフェの耳に入ったというだけです。」
「あの噂の出所が、ララだというのは意外でした。」
ジゼルは、少し遠くを見ながらそう言った。いつの間にかファム・ファタールの噂が流れてしまっていた。出回ってしまった噂を、消すことが出来ないと判断したジゼルは、すぐに噂を上書きして流した。
「あなたが、ララに頼んだのではないですか?」
「……ええ。噂は消すことが出来ませんから、人には毒だと、付け加えて言いふらすように言いました。でも、一度目の噂も、ララが流していただなんて……。私が、決してあってはならない薬だと、イネスに言ったことを知っていたはずなのに。」
「一つ目の噂も、本当はあなたがララに言わせた。違いますか?」
「そんな。なんのために?」
ジゼルは、困ったように微笑んで、夫を見る。夫の表情は変わらなかった。
「ララは、自分がしたことだと言っているのでしょう?」
「ええ。ですが、何かにひどく怯えているようでした。」
「まあ。私におびえて、嘘をついていると?私が、そんなにひどい主人に見えますか?」
ジゼルは、少し芝居がかった口調でそう言って、肩をすくめた。
籠の中に一羽だけいる片翼の蝶
それが、イネスが言った占いの中で、唯一わからないものだった。それを、ふと思い出す。
「……いいえ。あなたは優しい主人に見える。だから、不自然でもある。」
「そう?妻を疑っている、ということですね?」
ジゼルは立ち上がり、エマニュエルに一歩近づいた。すると、エマニュエルが一歩下がった。それを見て、ああ、やっぱり駄目なのだと思った。
この部屋で、声を上げて泣いた時から、分かっていたことだったのに、突き付けられると悲しくなるものだ。ジゼルは、深く息を吸って、吐いた。
「今回のこと、とても悲しく思っていますし、己の浅はかさを恥じてもいます。私が、イネスに願ったことは事実だわ。イネスはそれを叶えようとして、そして、叶えすぎてしまった。そんな薬が無ければ、イネスは死なずに済んだ。グレースさん、だったかしら?被害者の女性も、加害者の男性たちも、人生を狂わせずに済んだ。それに、同じ女性として心を痛めているのです。ララも、こんなことにならずに済んだはずだわ。全部、私が言ったことが原因です。」
ジゼルは、流れるように言ってから、祈るように手を組んだ。
「あなたのことで、学んだはずだったのに、愚かでした。自分の言葉が、どれほどの人生を狂わすか、知っていたのに。」
知っていた。誰かの人生を狂わすのは簡単だということを、知っていた。一度目は期せずして、そうなってしまった。二度目は、どうだったか、分からない。
「イネスは、弟をアカデミーへ入学させたがっていた。イネスが、獣人に薬を売ったのは、あなたが報酬を与えなかったからだ。ララのことは、真実は分かりません。でも、意図して流させた誰かがいるのは確かです。ララは、頭は悪いが、口は堅い。だから、選んだのですから。それに、被害にあったギー・アゼマは、あなたが忘れたという、その手に付けているアクセサリーを取りにあの部屋に行った。」
「……そう。どうしても、私を悪者にしたいのね?でも、何のためだというの?」
「運命の番」
ジゼルは、その言葉を夫の口から聞いた瞬間に、叫びだしたくなった。泣いて喚いたあの日に、記憶と体が飛びそうになる。
「あなたは、グレース・ユルフェが、私の運命の番だと知っていたのではないですか。」
「……なぜ、そう思うのかしら。鼻の利かない人間が、分かるはずないわ。」
「どうやって、あなたが知ったのか。それは、分かりません。でも、あなたは知っていたはずだ。だから、グレース・ユルフェから来た、私宛の手紙を処分した。」
「……女の顔をして、夫に近づく獣人からの手紙を処分したら、いけないの?お飾りの妻でも、それくらい、許されるのではない?」
声が震えていることに気づいて、ジゼルはもう一度、深い呼吸を繰り返した。取り乱してなるものか、そう思った。
「グレース・ユルフェは、これで、誰とも番えなくなる。匂いが染みついたせいで。」
誰とも番えない。
運命の番である、エマニュエルでさえ、グレースとは、もう番えないのだ。それを知った時、女性として同情すると同時に、安心した。自分でも最低だと思った。誰かの不幸の上で、成り立つ幸せなどあってはならないといったくせに、誰かの不幸に安心してしまったのだ。だから、こうやって、夫に糾弾されるのだ。
「……そう。」
「これから、グレース・ユルフェに会いに行きます。彼女はこれから、男爵家に戻され、そのまま修道院に行くことになっている。」
それを、攫って、番になったら、本当に物語のようだ。後世に語り継がれる、お姫様と騎士の物語。主人公は夫、ヒロインはグレース、悪者はジゼルだ。
頭の中が、ぐるぐるとかき回されるようで、考えは纏まらない。夫が会いに行ったら、どうなってしまうだろうか。
今度こそ、本物と夫は番える。そうしたら、ジゼルはどうなるだろうか。
それを守り人として祝福できたなら、ジゼルの矜持は守れるだろうか。そこまで、想像して、絶対に許せないと思った。
誰かの不幸の上で成り立つ幸せを、ジゼル以外はいつも享受してきた。神殿にいる間、ずっと、そうしてジゼルの不幸の上で、幸福があったはずだ。なのに、ジゼルだけは、それを許されないなんて。
「そう。グレースに会いに行くの。」
「ええ。」
「もう、あなたと、グレースは番えないのに?」
ジゼルは、自分が本当に悪役になったのだと思った。アンヌ=マリーが、ゆっくりと部屋を出たのが見えたからだ。アンヌ=マリーは、良き使用人だ。常に、ジゼルの良い面だけを見ようとしている。それが、アンヌ=マリーの優しさであり愚かさであることを、ジゼルは知っていた。
「あなたの言う通り、イネスが薬を獣人に売るように仕向けたのも、ララに噂を流させたのも、ギー・アゼマがあの場にいるように仕向けたのも、私だとして、自分から、それを買ったのはグレースよ。私はグレースと話をしたこともないわ。そんな私が、グレースに薬を買わせることも、使わせることもできない。グレースは自分から、選んだのよ。」
ああ、自分は今、どんな顔をしているのだろうか。神秘的に見せるために、表情を作ってきた。でも、今は、それができないでいる。きっと、ひどい顔をしていることだろう。一番、見せたくない相手に、一番、見せたくない自分を見せている。これは、罰なのかもしれない。
「女として同情するわ。でも、同時に自業自得だと思うわ。私の夫を奪おうとしたの。薬で。」
それとも、薬がなくとも、番ったの?
ジゼルは小さな声で、そう問いかけた。夫にとってその質問は、屈辱だったのかもしれない。はっきりと不愉快だと、表情から分かった。
「グレースが、自分で選んだ。それも、私のせい?」
ジゼルの問いかけに、夫は答えなかった。その瞬間に、この先が、ジゼルには見えた。
踵を返す夫の背中に、揺れない柳を思い出す。
「そう、それでもグレースに会いに行くというのなら、私にも考えがあるわ。」
ジゼルがそう言っても、夫の足取りは変わらなかった。
籠の中に一羽だけいる片翼の蝶
それは、きっと、ジゼル自身だ。リシュリュー邸という籠の中、二羽になれなかった、飛ぶことのできない虫けら。それが、ジゼルだ。




