プレイアデスの行く方へ
秋が近づき始めているせいか、日が落ちるのが早くなった。ジゼルは、弟と紅茶を飲みながら、それを感じていた。
「今夜も、一緒に食事をしてから帰られますか?」
「ええ。もし、オレールが迷惑でなければ。」
ジゼルが、微笑むとオレールも笑った。家族というのは、こんなまがいものの表情を見せあうことなのだろうか、ジゼルはふとそんなことを思った。
「この間、宰相が、リシュリュー邸に来たとか。」
「ええ。なんだか、怒鳴り散らして帰っていったわ。」
「なんと?」
「さあ?あまりに煩わしかったから、話は聞いていないの。」
オレールは、姉上らしいと、笑う。
「宰相が、おじい様であること、知っていたのだけれど、初めて認識したわ。」
「分かります。私も、血のつながった家族は、姉上だけだと思ってしまう。」
「そうね。でも、あなたは家族をつくれるわ。私はいつか、先にいなくなってしまうのだから、ちゃんと考えなくては駄目よ。」
「また、その話ですか。」
オレールは唇を尖らせた。ソファにかけながら、出来上がっていない書類を手に優雅に紅茶を飲むオレールは、施政者であることを強く認識させられる。
オレールはこの国の王だ。だから、意味のないことはしない。ジゼルを、エマニュエルと結婚させたことも、オレールなりに意味があるのだろう。
ジゼルを幸せにするという目的以外に、きっと、何かある。ただ、それを聞いてはいけない気がした。神殿の外で生きる限り、誰かとつながりが必要で、そして、ジゼルにはオレールしかいないからだ。
ノックの音がして、オレールは一瞬顔をゆがめた。それを、ジゼルが咎めるように目を向けると、姉上との時間を邪魔したから、と言い訳を並べる。
「誰だ。」
「エマニュエル・リシュリューです。ご報告したいことがございます。」
ジゼルは一瞬、カップを落としそうになった。エマニュエルとは、どれくらい、顔を合わせていないだろうか。会話らしい会話は、舞踏会の日が最後な気がした。
そんな彼が、無理やり与えられたに等しい、リシュリューの名前を名乗っていることに驚いて、わずかに喜びを感じてしまった。そんな自分を愚かだと思った。
「入れ。どうした、そんなに慌てて。」
「西のタレットで騒ぎが起きました。お耳汚しになるかとは思いましたが、気になる点がありましたので、ご報告を。」
片膝をついた夫は、ジゼルに気づいて、一瞬、目を見張った。そのあと、視線をそらして、オレールを見た。
「獣人4人が、女を取り合って刃物沙汰を起こしました。近衛兵が2人、あとは使用人が3人で、王宮内で行為に及びました。今は、女と引きはがして、それぞれ、独房に入れているのですが、冷静になったものたちから順番に話を聞くと、香りが原因だと。」
「……香り?」
「甘い香りのせいで、本能のまま行為に及んだと。獣人は香りに敏感ですので、念のため、人に調べさせましたが、部屋から本来ない大量のキャンドルと、バラの香りがする妙なキャンドルが見つかりました。」
「バラ?」
ララが驚いたように声を上げて、そして、ジゼルが振り返ると真っ青になった。オレールもララを見て、それから、何かを察したような表情をした。
「最近、妙な噂がありました。獣人を思い通りにできる香りがあるという噂でした。ですが、真偽も確かではなく、また、すぐに他の噂が流れたのです。獣人を思い通りにできる香りは、危険なもので、人には毒だというものです。」
ジゼルは小さなため息を吐き出すと、ひどい倦怠感を覚えた。
「噂の出所は分かっていませんが、姫は何かご存じですか?」
「……」
「姉上……?」
目を閉じて、息を吐きだした。この結果は、ジゼルの望んだものではない。でも、この結果は、ジゼルに責任の一端がある。エマニュエルの番を奪った時と同じだ。
生きるとは、なんとままならないことなのだろうか。
「ララ、イネスを連れてきてちょうだい。」
「姫、」
「話はイネスが来てから。アンヌ=マリー、被害にあわれた女性にお見舞いを、用意して。」
この結果は、望んだものではない。そう思っていながら、同時に、予想していたことでもあった。だから、言葉はよどみなく出た。
西のタレット、窓際に赤いベルベットのリボン、そこまで想像して、ジゼルは小さくつぶやいた。
「占いは、よく当たるものね。」
小さなつぶやきを、きっと、誰も聞いてはいない。誰にも聞かせるつもりはなかった。
ララは、乱暴にイネスを連れてきた。
研究を終えたにもかかわらず、イネスが風呂に入った形跡はない。ジゼルの前に連れてこられて、突き飛ばされたイネスは顔を上げたが、ほとんどフードの下に隠れていて表情は分からなかった。
「イネス……あなた、約束を破ったわね。」
「な、んのこと?」
「ファム・ファタール」
ジゼルが低い声でそう言うと、フードをララに取られたイネスは目を見開いた。なぜ、ばれたのか。そんな顔をした。
「あれほど、言ったのに。」
「だって、それは!」
「あなたが、弟をアカデミーに入れたがっていたのは知っているわ。お金が必要なのも知っていた。でも、あれは絶対に売ってはいけないと」
「でも、」
「誰の手にも渡ってはいけないと言ったはずよ。あれは、つくってはいけない薬だって。」
ジゼルとイネスの会話で、オレールもエマニュエルも察したはずだ。あの薬は魔女が作ったものであり、それをジゼルも承知していることを察しただろう。
「でも、あれが欲しいと言ったのは、お姫様じゃん!お姫様が望んだことでしょ!狼と、仲良くなりたいって!」
ジゼルは、言われたくなかった一言に、一瞬、怒りのまま頬を打ちたくなった。手を握りしめることで我慢したが、感じたのは屈辱だった。オレールはきっともう、二人の不仲を知っていただろう。でも、白日のもとには晒したくない事実だった。
「……そうよ、私が望んだこと。でも、言ったはずよ。この国に、人が獣人を思うがままにできるものなどあってはいけない。誰もが安心して暮らすためには、そんなものあってはならない。あなたの作ったものは、恐ろしいものだと。」
「だから、人には売らなかった!」
「誰にも渡してはならない、そう言ったでしょ。意味は分かっていたはずだわ。」
ジゼルは、目を閉じたくなった。見たくないものを見なくていいのは、幸福な人間だけだと突き付けられる人生だった。だから、ジゼルはいつも見たくないものも見てきたつもりだった。でも、今だけは何も見たくない。
「魔女、なんてことをしてくれた。」
エマニュエルの言葉には、ついぞ聞いたことのない怒りが混ざっていた。それは、獣人を思いのままにできる薬に対する怒りだけではないことが、読み取れた。
「……話をまとめると、魔女が作った薬で騒ぎが起きた。それで、その薬が獣人を思いのままにできるものだということ、かな?」
オレールの静かな声は、無関心にすら聞こえる冷たさだった。だが、冷静な施政者である弟が、この事態を許すはずがないことも分かった。
「それで、誰に売ったの?」
「……赤いリボンの獣人に。」
「それは、被害者自身ってことかな?それとも別の獣人かな?」
「おそらく被害者自身でしょう。」
「そう。じゃあ、純粋な被害者は、香りに惑わされた男ということになるな。まあ、全員処罰することにはなるだろうけど。」
ジゼルは、顔を上げた。
「オレール、お願い、」
「姉上、そのお願いは聞けません。たとえ、姉上のお願いでも。」
「オレール。イネスを助けて。聞いたでしょ?私の願いをかなえるためだったの。」
「聞いていました。だから、言える。姉上は、無関係だ。この件に、姉上は一切関係ない。」
「イネスは、間違いを犯したわ、でも、」
「姉上、落ち着いて下さい。処罰はすべてを調べてから。今すぐに、どうこうするものじゃありません。」
ジゼルは、首を横に振った。オレールが、イネスをどうするつもりかは、分かっていたからだ。
「姉上は正しい。そんな薬あってはならない。それだけは、確かだ。」
イネスが、事態を理解して、ジゼルの手にすがろうとにじり寄った。それを、ララが羽交い絞めにする。抵抗するイネスはジゼルの足首に触れた。鎖の音が、響いた。
ジゼルは、その手をとることが出来なかった。これは、ジゼルの望んだことではない。でも、心のどこかで、何かにほっとしている自分がいる。
それが、怖くてたまらなかった。




