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消えるまでのアル・ナスル・アル・ワーキ






手紙の差出人の名前はグレース・ユルフェだった。


ほとんど帰ってこない夫に代わって、ジゼルは、モーリスからしばしば手紙を受け取っていた。

必要なもの、そうでないもの、ジゼルが処理できるものに分けて、手渡すと、あとはモーリスが処理をする。

ジゼルは、見覚えのないグレース・ユルフェという名前の手紙を、そうでないもののレターラックに置いた。




「持って行ってちょうだい。」




仕分けの途中であるにもかかわらず、モーリスにそう告げると、少しの間をおいて、モーリスがそのレターラックを持って部屋を出ていった。

ジゼルは、しばしば頭痛を起こす。それは、精神的負荷がかかると起きやすいとイネスは言っていた。手紙から香る甘い匂いが、ジゼルの頭痛を誘発することを知っていた。

だから、すぐに部屋から出したかったのだ。

差出人のことはよく知らない。ただ、ジゼルの予想が正しければ、あの手紙は嫌がらせを含んでいるのだろう。

この屋敷に夫がほとんど帰っていないことを、グレースはおそらく知っているはずだ。

純粋無垢で愛らしい見た目とは異なる、女らしさを感じると、吐き気がした。




「ジゼル様、そろそろお時間ですわ。」

「ええ、そうね。」




最後の手紙を、必要なもののレターラックに置いて、机に置いた細い鎖のアクセサリーを指でつまむ。仕分けの時、あまりにサラサラと音を立てるアクセサリーに嫌気がさして、右手から外していたものだ。




「最近、オレール様とのお約束が多いですね。」




ララの不思議そうな表情に、ジゼルは笑った。手に持った鎖を、もう一度、机に置く。




「そうね。」




ジゼルが、あまりオレールとかかわりを持とうとしていなかったのは事実だ。だが、神殿から出て、誰とも関わらずに生きていくことが、悲しいことだと気づいたのだ。

家族というものと縁がなかったジゼルは、神殿の中でも外でも一人だった。だが、今、オレールが家族という縁をもたらしてくれた。ジゼルは孤独なままだったが、オレールの近くにいれば、血のつながりだけは感じられる。

ジゼルはリシュリュー邸を出て、馬車に乗った。この馬車も、ジゼルが降嫁するにあたって、オレールが用意させたものの一つだ。

内装は簡素で、ジゼルが好ましいと感じるものだった。ジゼルとオレールはきっと、似ているのだろう。そう思うと、なぜか、心が温かくなった。




「ジゼル様、つきました。」




リシュリュー邸と王宮は、すぐの距離だ。手紙に関して、考えがまとまらないまま、ジゼルは立ち上がった。




「人馬宮に寄れるかしら。」

「……はい。何か、御用がおありですか?」

「ギー・アゼマに、会いたいの。」




ジゼルの返事に、ララは固まった。

ジゼルが誰かに、それも男に会いたいと言ったことが意外だった様子だ。それ以上に、何かを警戒するように、耳がせわしなく動いていた。




「近衛の鍛錬場にいるかと思います。」




夏の午後の涼しい風が、ジゼルの髪をさらう。ジゼルは左手を上げて、こぼれた髪を耳にかけると、鎖の音がよく響いた。

ジゼルは以前から、人馬宮が嫌いだった。ジゼルをよく思わないものが、小さな声でジゼルを批判する空間だった。ジゼルが守り人だということを知らしめてから、初めて入った人馬宮は、前とは違った。




「……落ち着かないわね。」

「それは、その、皆、ジゼル様のことが気になるのです。神の祈りを見てから、ジゼル様が、どれほどすごいお方なのか、皆、理解したから。」

「そうなの?ただのわがまま姫じゃないって思ったってこと?」

「そんな!……ここで、待っててください。ギーを呼んできます。」




落ち着かない空間で、ジゼルはため息を吐いた。人妻らしく慎ましく首まで覆うワンピースであったが、首と手首、裾に繊細なレースが装飾されている。首元は見せるようにと、ララには再三言われたが、今日はこの服装を選んだ。薄い夏らしい青のワンピースは涼やかに見えるし、気に入っていたからだ。




「ジゼル様、どうして、ギー・アゼマに会おうと?」




ジゼルは、自分のこの身の内にある感情を言葉にすることができなかった。神殿で最初に覚えた、諦めるという行為を、今でもジゼルはできるはずだ。諦めることなんて簡単だと思うのに、ひどく難しいことのようにも思う。

この感情ごと諦めてしまえば、みじめな思いもせずにすむことは分かっていた。なのに、それが、できないでもいた。

生きることは、諦めることだと思っていた。今は、生きる上で、諦められなかった。




「王女殿下!」




思ったよりも大きな声で呼ばれて、ジゼルは振り返った。そこには、大きな縞柄のしっぽを激しく揺らすギー・アゼマの姿があった。ジゼルは、人の心を変えることは簡単だと思っていた。少し微笑んだり、少し憂いを見せれば、心が変わることを知っていたのだ。獣人も同じなのだと、認識した。

だから、ジゼルは、本当にわずかに嬉しそうに口角を上げて見せた。




「ギー様」




ジゼルの一言に、ギー・アゼマの足が一瞬止まり、それから、すごい勢いでジゼルの手を取った。




「わざわざお越しいただいて。お声をかけてくださったら、馳せ参じましたのに。」

「我が家まで?お忙しいのに、申し訳ないもの。それに、お会いしたいと思ったのは、私のわがままですから。」

「何か、ご用が?」

「……それは、」




ジゼルは少しだけ、困ったように眉を下げる。

ギー・アゼマの後ろで、ララがせわしなく目を動かしていた。まるで、何かを探しているようだ。




「王女殿下?」




正確には、ジゼルは降嫁した身である。もう王女ではないが、多くの獣人が、ジゼルをそう呼んだ。最初は理由が分からなかったが、そのうちに知った。ジゼルは、エマニュエルの妻として認められていない。

涙を流した日から、ジゼル自身も、そう思っていた。ジゼルは、エマニュエルの妻ではない。




「ただ、お会いしたかったと言ったら?」




取られた手を、振り払うことなく、わずかに力を込めた。怖いくらいに強く、そして傷つけないように握り返された瞬間に、ジゼルは胸の内で、でたらめな感情が渦巻くのが分かった。


この手が欲しかった。

でも、それは、この手ではない。




「光栄です!王女殿下。あの日、祝福を下さった日から、あなた様のことを何度も考えていました。どうにか、あなた様に近づけないかと、エマニュエルに、護衛役を願い出ていたのです。」

「……夫は、なんと?」

「ララがいるからと断られました。神聖なあなた様をお守りするのに、一人では不十分だと、何度も言ったのですが。」




ジゼルは、悲しげに見えるようにあいまいに微笑んだ。男のしっぽがピンと伸びたのを見て、ジゼルは男に視線を戻し、そしてもう一度、今度は嬉しそうに微笑む。




「ジゼル様、お時間です。」

「……わかったわ、アンヌ=マリー。」




ジゼルはもう一度、男の手を握りしめた。




「ごめんなさい、これから、陛下と約束があるの。会えて、嬉しかったです。あなたに祝福を与えられてよかったわ。」




そして手を下ろす。左手の鎖だけがなって、ジゼルはふと右手を上げた。




「ああ、どうしましょう。」

「どうされましたか、ジゼル様。」




ララが近づいて、ギー・アゼマから距離を取らせるように、体ごと寄せられた。




「右手のアクセサリーを忘れてきてしまったみたい。」

「ああ、さっき、」

「ええ、さきほどいた西の書斎だわ。」

「でも、ジゼル様、」

「あそこに、忘れてきてしまったみたい。陛下からお借りしたものなのに、困ったわ。」

「西のタレットにある書斎ですか?」




ジゼルは右手を上げて、困ったように見せた。ララは何とか口を挟もうとしていたが、アンヌ=マリーが不自然ではないように、手を引き一歩下がらせたのが、目の端で見えた。




「ええ。取りに行きたいけれど、陛下との約束が……」

「王女殿下、私が、取りに行きましょう。お届けに上がります。」

「本当?」

「ええ、少しでもお役に立ちたいですから。」




ジゼルはゆっくり微笑みを向けた。


可哀そう。


ジゼルには、ギー・アゼマの感情は理解できない。憧憬というものは、周りを見えなくして、己を愚かにする。

カーテシーをして、ギー・アゼマに手の甲へのキスを許した。

憧憬を抱くことは間違いではない。それ自体は、己を愚かにするが、同時に幸せにもする。盲目になることは、幸福になることでもある。だが、抱く相手を間違えてはいけない。

ジゼルがゆっくりと、獅子宮に行くために歩きはじめると、アンヌ=マリーは静かにそれに従った。

ジゼルの顔に、もう微笑みはない。ただ、あるのは、愚かな男への憐れみだけだった。







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