デネブに願いを
夏とはいえ、夕方には風がわずかに冷たくなる。乾燥した地域だから、余計に寒さとして感じるのかもしれない。
ジゼルは、その涼しさの中で、庭のガゼボで紅茶を飲んでいた。リシュリュー邸の庭に大きく手を加えて、ガゼボも新しく作らせたものだった。
「お姫様!」
「……イネス、あなた、またお風呂から逃げ回っているでしょ。」
「今は、忙しいから。別に逃げてないよ!」
フードから覗く髪がまた毛玉をつくっているのを見て、ジゼルは眉をひそめた。
「出来上がったよ!」
ジゼルは、本当は、イネスがそれに没頭していることを知っていた。弟のアカデミー入学に間に合わせるためだ。
「何が?」
「狼を傅かせる薬!思い通りになるよ!」
目の前に突き出されたのはキャンドルの形をしていた。わずかに、バラの香りがするだけだった。
「わかんないでしょ?焚くと、獣人には、もう、抗えない香りになるんだ。人には、分からないけど。」
「……それは、」
「欲に忠実になって、それを叶えるためなら、どんな命令でも聞くようになるんだ!名前は、ファム・ファタールにした!」
どう、褒めて。
そんな顔をしているイネスに、初めて魔女の片鱗を見て、ジゼルはぞっとした。それは、他者を思うがままにできると思っているイネスにか、思うがままにしたいと思っていた自分自身にかは分からない。
ファム・ファタール
運命の女、そして破滅へ導く女。これほどにまで相応しい名前があるだろうか。
「……何てこと。」
「え?」
「なんてものを作ってしまったの。」
突き出されたキャンドルを、受け取ることもせず、ジゼルは震えた。自分が招いてしまったことが、恐ろしかったせいだろうか。
「これさえあれば、狼と仲良くなれるよ。」
「彼の意思に反して?」
ジゼルの一言に、ララは警戒するように耳を動かした。
「これがあれば、どんな命令も聞くと言ったわね?」
「運命の番を超えて、本能に語り掛けるから。欲しくて欲しくてたまらなくなるはずだよ。貰うためなら、どんな命令も聞くようになる。」
ジゼルは、割れるように頭が痛くなるのを感じた。
「……それは、獣人の意思を無視して、どんな命令も聞かせられるということよ。」
「そうだよ!でも、それで、お姫様の願いが叶うんだよ!それが、願いだったじゃん!」
「違うわ!……違う。この国に、こんなものあってはいけないの。」
「どうして?なんでよ!お姫様の願いを叶えただけなのに!」
ジゼルは確かに願った。夫の心が、自分に向かないだろうか。いや、向かなくてもいい、一つの夜だけでいいから、くれないだろうかと。
「獣人を受け入れたこの国に、獣人にだけ命令できる薬などあってはいけないの。獣人が、安心してこの国に住むためには、人が、獣人を好き勝手できるものなど存在していいはずない。」
「……それは、」
「こんなもの、あっちゃいけない。」
「そんな!これを作るために、一生懸命、」
「イネス!あなたは凄い魔女よ。腕も確かだわ。だけど、作っていいものと悪いものがあることを分かってない。それは、人の手に渡っていいものではない。」
イネスは自分の手の中にあるキャンドルを見つめた。
「じゃあ、」
イネスが次に何を言おうとしているか理解して、ジゼルは首を横に振った。
「そんな!」
「いいこと、イネス。その薬を、決して人に渡してはいけません。人に売ったり、人に譲ったりしたら、決して許しません。良いわね?」
「……人に、」
「分かったわね?」
イネスは、わずかに唇を尖らせて、それからしぶしぶ頷いて、踵を返した。アンヌ=マリーが、咎めるように呼び止めたが、ジゼルが片手で制する。
「ジゼル様、」
「あれだけ言えば、分かってくれたと思うけれど。」
あんな薬、あっていいはずがない。
この国で、誰もが安心して暮らしていくためには、そんなものあってはいけない。
「ララ、お願い事があるの。」
ジゼルは、イネスの遠くなっていく背中を眺めながら、口にする。ララは、傅いてジゼルの声に耳を傾けていた。
一羽だけ籠の中に片翼の蝶
これだけは、まだ、当たっていない。
ジゼルは、その答えを、知らずに済んだらいいのにと思った。




