声を殺すベネトナシュ
サラサラと手首の鎖が音を立てる。細い金属の鎖は、ジゼルを縛るものじゃないのに、これをつけていると自分が守り人であったことが嫌でも思い出される。
健闘会が終わって、ジゼルはすぐに屋敷に戻った。服も靴もアクセサリーも、全部、そのまま、逃げ出すように。
「ジゼル様」
自室に戻ると、ジゼルのその様子に、皆、戸惑いを感じている顔をしている。オレールへの挨拶すらしなかったジゼルが、何に取り乱しているのか、誰も理解できないで戸惑っているようだ。
ジゼル自身、自分がどうしてこれほど取り乱しているのか分からなかった。
「守り人様」
アンヌ=マリーは、ジゼルが返事をしなかった理由を、名前に求めたようだった。神殿から出たばかりのジゼルは、確かに、守り人、そう呼びかけられなければ、自分を認識できなかった。
神殿から出て、エマニュエルに姫と呼ばれて、自分が守り人でなくなったことを覚えたはずだったのに、今は祈りに引きずられているようだった。
「……アンヌ=マリー」
「どうされたのですか。」
「頭が痛むわ。」
「すぐに魔女を呼びます。」
ジゼルは、頭の痛みと一緒に、ひどくイライラして浮ついたような不思議な感覚を感じていた。あの、甘い香りを感じた時から、ずっとだ。
声を上げて泣き出したい。そんなこと小さな子どもの時ですら感じなかった。
ジゼルは、処女宮に一人で閉じ込められている間ずっと、俗世に染まってはならないと教わった。だから、感情を揺らすこともないし、泣いてしまいたいと感じることもない。
それなのに、今は、声を上げて、叫んで、泣き出したい。こんなにも胸を揺さぶられる理由は何だろう。
「お姫様、頭が痛いの?」
「……イネス。割れそうよ。」
「これを飲めば楽になると思うけど。前よりも、回数が増えてる。」
「ええ。回数も増えたし、強さが増してるわ。」
イネスの用意した茶葉を、アンヌ=マリーが受け取り、ティーカップを湯で温めているのが見える。
「……お姫様、それは、我慢してるせいだよ。」
「我慢?神殿にいたころの方が我慢してたわ。今は、自由だもの。」
「そうは、見えない。お姫様は、自由に見えるように、我慢してる。」
ティーカップを受け取って、ジゼルは、すぐに飲み干した。この頭痛から、解放されたくて、この感情から自由になりたくて。
「薬ができたら、お姫様は自由になれるの?」
ジゼルは、ゆっくりと顔を上げた。
「できたの?」
「まだ。だけど、できるよ。運命の番の香りだよ。」
「……運命の、番?」
「そう。ただの番を超える。理性を焼き尽くす本能の香り。」
ふわりと甘い不愉快な香りを思い出して、ジゼルはティーカップを手から取りこぼした。
「ジゼル様!お怪我は?」
「運命の番とは、何?」
「番の中でも、特別な本能的に分かる相手のことを言うらしいよ。神が祝福したもう番。人間よりも獣人は、本能に近いから、わかるって。その甘い香りは、あらがうことができないほどだって。出会ってしまったら最後、一生一人と誓う獣人が、番を捨ててしまうほどの強い力なんだよ。二人を引き離すことは、神にすらできない。」
「……赤い、リボン」
「え?」
ジゼルは、立ち上がって、そのまま一歩足をすすめた。目的があったわけではなく、何かを求めたわけでもない。
「みんな、下がってちょうだい。」
「ですが、今のジゼル様をお一人には、」
「お願い、下がって。」
ジゼルの強い言葉に、全員が戸惑って、顔を見合わせ、そしてしぶしぶ部屋を出ていく。
ジゼルはまた、一歩足を踏み出した。静かな部屋には鎖の音が響いた。
膝から崩れ落ちて、ジゼルは、声を上げた。生きてきて、こんなに声を上げたことはなかった。喉を潰して、もう二度と声を出せなくなるのではないかと思うような、自分でも耳を塞ぎたくなるような声だ。
地面に向かって声を吐き出すと、ぼたぼたと、手の上に涙が落ちた。涙が枯れてなくなって、そうしたら、また戻れるだろうか。
これが、幸せであり、これに満足できると信じていた自分に。神殿ではない外にいられることに感謝し、そしてエマニュエルという親切な夫を持ったことに、感謝する自分に戻れるだろうか。
ジゼルは、衝動のまま、泣き叫んだ。そうすれば、胸のひきつった痛みがなくなると信じて。
でも、この痛みは決してなくならない。それを知ってもなお、声をあげて、ジゼルは泣いた。




