占うスピカ
ジゼルは、獅子宮にいるオレールに呼び出されて、リシュリュー公爵邸から久しぶりに王宮に出てきていた。
夫には、しばらく会えていないので、今日、王宮に出仕することは伝えられていない。手紙でお伝えし、お会いになられたら、どうでしょうという、アンヌ=マリーの提案は受け入れなかった。
手紙で伝えて、会いたいと言って、煩わせたくなかった。
時折、夫は、ジゼルを誘った。ラサルに乗らないかと、無感情に言われると、何かに腹を立てられているのかと思ってしまう。
お前が、空を飛びたいだなんていうから、結婚する羽目になったのだ、と言外に言われている気がした。
だが、最近はエマニュエルの機嫌がいいのか、その誘い文句を言われなくなった。いや、そもそも、会うことがほとんどないことも、良いのかもしれない。
「オレール、あとは、ここでいいかしら?」
「ええ、姉上。そこにサインを、あとこちらもお願いしても?」
名ばかりの摂政が、名前を書くことに何か意味があるのだろうか。そう思いながら、言われたところに言われたようにサインをしていく。どれも、オレールが手掛ける政策のようだが、内容は読まないようにしていた。
内容を読めば、意見を持ってしまう。持ってしまった意見が、オレールと対立した場合、面倒ごとになる。
「姉上、こんな日に、申し訳ありませんでした。」
「……こんな日?」
「今日は、近衛兵の健闘会の日。家族や恋人が応援に行く日なのに、こんな風に仕事をお願いしてしまった。」
「……そうでしたの。私は、存じ上げませんでした。」
そんなこと、エマニュエルから知らされていない。応援なんて望まれていないことは、分かっていたのに、わずかに残っていた気持ちが荒波にのまれたのが分かった。
「そ、れは。きっと、姉上を煩わせないために、黙っていたのでしょう。どうせ、勝つのは、いつもエマニュエルですし。ああ、そうだ。姉上に、優勝者に祝福のキスを贈る乙女の役をしていただきましょう。」
「……え?」
「どうせ、優勝するのはエマニュエルですから、祝福のキスをしてください。」
どうしよう。
ジゼルは、いつになく焦っていた。夫にキスをするなんて、エマニュエルのあの惑ったような表情が、嫌悪に満ちるのを想像するだけで身がすくむ。だが、オレールに、夫婦が不仲であることを悟らせたくなかった。オレールは、まだ幼い。だから、オレールが、ジゼルを幸せにしようと画策した結果、エマニュエルもその番も、そしてジゼル自身も不幸になっていることを知らせたくなかった。
「でも、近衛兵のほとんどが獣人だと聞きます。私は、獣人の中では、あまり評判がよくありません。」
「だからこそです。守り人だった姉上の、その神秘に触れれば、獣人の中でも考えを改めるものが出るかもしれません。それに、エマニュエルとの仲をアピールすれば、獣人の誤解もとけるかもしれない。」
「でも……」
オレールは、ジゼルの言葉を無視して、ベルを鳴らす。
「姉上を飛び切り美しく。そして、神秘的に。なるべく守り人であることを強調するように、準備を。」
呼ばれた侍女たちは、慌ただしく、用意のために部屋を出ていった。ジゼルは、残った書類に、言われるがままに殴り書きのサインをした。
もうすでに、始まっているという健闘会に間に合わせるために、慌ただしく用意がされた。守り人のように繊細な白い布を何枚も重ね、そして、細い鎖でできたアクセサリーで髪を飾る。白い生花をいくつも髪に着けて、両手両足にも細い鎖を巻き付けた。手を動かすたびにさらさらと流れる音がする。生花とベールを組み合わせて髪だけ覆い、顔には少し華美な化粧が施された。
鏡を見ると、守り人の神秘と俗世の美しさが混ざり合う、不思議な女がいた。
「姉上!すっごく、綺麗だ。行きましょう!これから決勝だそうです。予想通り、エマニュエルが残っています。」
「……オレール、手を貸してくれる?足元が見えづらくて。」
「もちろんです。」
連れていかれたのは、いつも近衛兵が訓練をしているという広間で、その周りを囲うように席が用意されていた。小さなコロッセオのような形で、王族席だけ少し高い位置にある。
息遣いまで聞こえてきそうなほど近い場所だ。王であるオレールと、摂政のジゼルが入れば、観衆までもが立ち上がる。そのせいでひどい圧迫感を覚えた。
「みな、楽にしてよい。エマニュエル・リシュリュー、ギー・アゼマ。おぬしらの健闘に期待する。」
まだ幼いと思っていた弟の君主たる瞬間を目にすると、ジゼルは少し戸惑いを感じる。弟の言葉に傅く騎士は、二人とも獣人だ。どうせ、目は合わないだろうと、夫を見ると、強い視線を向けられた。
どうして、お前が、ここにいる。
そう言われているようで、ジゼルはすぐに目をそらした。
「優勝者には、守り人からの祝福を与える。それでは、始めよ!」
さらりと流すようなオレールの発言に、それでも観衆は、面白いものを見つけたかのように、ジゼルを見た。
二人が今一度、剣を携えて一礼する。それと、ほぼ同時に、剣を交える音が始まった。土埃が視界の端に映り、足音と金属のぶつかる音、荒い息遣いが聞こえた。人々が息をのむ音がして、戦いが熾烈を極めていることが察せられたが、ジゼルは目線をそらしていた。
夫の戦う姿を見たことはなかった。獣人の強さを、しなやかさを見てみたいと思ったけれど、同時に、視界に入れたくないと思った。これ以上、その獣人としての強さに惹かれたくない。獣人としての矜持を奪った自分が、そんなことしていいはずがない。
「……姉上、応援なさらないのですか?」
ジゼルはゆっくりと目線を上げた。ジゼルが動くたびに、細い鎖がサラサラと音を立てる。
中身がどうであれ、その様は、神秘的と言えるかもしれない。
まがいもの
ジゼルは、そう思った。自分はまがいものだ。守り人として、祈る人として、エマニュエルの妻として、オレールの姉として、人としてまがいものだ。
「エル」
小さく声を出した瞬間、エマニュエルは劣勢になった気がした。ギー・アゼマの剣に押されている。
「エマニュエル隊長!!」
たくさん声が聞こえていた。ありとあらゆる声が聞こえていたはずなのに、ひと際、強い声が聞こえた。女の高い声。それが、聞こえた瞬間に、むせかえるような甘い匂いを感じた。
ジゼルが、その香りのもとを探そうと視線をさまよわせ、赤いリボンを見つけた瞬間に、夫は膝に土をつけていた。




