アンタレスの拍動
ジゼルは、ミモザを摘み取り、小さな花束を作りながら、リシュリュー邸の庭を散策していた。天秤宮よりも、花の種類は少なかったが、丹精込めて作られた庭は、素朴な美しさがあった。
ジゼルの好きなミモザが所狭しと並んでいるのを見ていると、その淡い香りを胸いっぱいに吸い込みたくなる。
ジゼルは、小さな花束を愛でながら、同時に地面に投げ捨てて、力いっぱい踏みつけたい衝動に駆られてもいた。
夢のようになったら素敵だと想像していた舞踏会は、結局、夫婦の現実があるだけだった。そこから日常に戻っても、夫婦の間で何かが変わるはずもない。変わったのは、ジゼルの心だけだ。ただただ淡かっただけの虚しさが、明確な形を持ったのだ。
親切と親愛が異なるという現実を突きつけられて、虚しさは、はっきりと明確な形を持った。
現実を突きつけたジスランを恨むこともできたが、ジゼルは何となくそれを出来ずにいた。
「ジゼル様、そろそろ、休憩いたしませんか?」
部屋に戻ることを促されたが、ジゼルは、なんとなく戻りたくなかった。ジゼルに与えられた部屋は、夫婦の主寝室につながる妻の部屋だ。その主寝室が夫に使われたことはない。だからだろうか、部屋に愛着が持てず、息苦しさばかりを感じる。
「もう少しだけ、外に居たいわ。」
もうしばらくしてしまえば、夏になる。そうすれば、外に居られる時間も、短くなってしまう。そう思うと、息苦しさが強くなった。
「ジゼル様、気分転換に、ラサルに会いに行くというのはどうでしょう?」
ララの言葉に、ジゼルは人馬宮のラサルの黒い翼を思い出していた。自由な翼は、どこにでも飛んでいくことができるはずなのに、ジゼルを乗せると、いつも同じ場所を目指す。ラサルにも、ジゼルは責められているのかもしれない。ふと、そんな気持ちになった。
「……ララ、教えてほしいことがあるのだけど。」
「どうされましたか?」
ミモザを胸に抱きよせて、ジゼルは静かに深呼吸をした。淡い香りを感じて、そして、わずかにその中に虚しさの香りを感じた。
「舞踏会でね、たくさんの獣人に、本当に番か尋ねられたの。」
「……はい」
「この首の傷跡は、番の証だって、ララ言っていたわよね。」
「はい」
「ならどうして、皆、何度も聞くのかしら。本当に妻なのか。本当に番なのか。本当にエルがつけた傷なのか。……どうしてか、分かる?」
「それは……」
「教えてちょうだい。」
「でも、」
「もうね、そんなに傷つかないと思うの。もう、たくさん、傷ついたから。」
ジゼルは、ミモザの小さな花束を、アンヌ=マリーに手渡した。
「獣人は、鼻がいいものが多いです。番は、夫婦ですから、一番そばにいて、触れ合って、その……愛し合う。だから、互いの香りが付くものです。それが番の香りとして、他のものに認識されます。」
一番そばにいて、触れ合って、愛し合う。
その言葉を、頭の中で反芻すると、もう傷つかないと思っていたのに、また、心がじくじくした。
「そう、そういうこと。」
一番そばにいて、触れ合って、愛し合う。
もう一度、同じ言葉を繰り返しても、心は痛まなかった。ただただ、恥ずかしくて、自分の愚かさが嫌になる。
名前を呼ばれたこともないのに、エルと呼び続けていることと同じくらい、恥ずかしくて痛かった。
番の証を与えられたから、認められたんだなんて、愚かな思い上がりが恥ずかしい。
獣人は、みんな知っているのだ。ジゼルが、エマニュエルのそばにいないことも、触れ合わないことも、愛されていないことも、みんな知っているのだ。
番を奪った人間が、証を得たところで、本当の夫婦にはなれないという証明だ。人は祝福してくれたけれど、獣人は、ジゼルとエマニュエルが白い結婚であることを知っている。
ああ、なんと、自分は愚かで恥ずかしい人間なのだろうか。そんな事つゆ知らず、夫の手を取り、仲のいい夫婦に少しでも見られようとしていたなんて。
「もう、傷つかないと思ったけれど、やっぱり悲しいものね。」
「……ジゼル様。」
言わなければよかったと、ララが顔を歪めたのを見て、ジゼルは首をわずかに振った。
「悲しいけれど、知ってよかったと思うのよ。これ以上、愚かなことをしでかさずに済んだもの。」
夫に認めてもらおうと、愚かなアピールをしたり、恥ずかしい行いをせずに済んだ。だから、知ってよかったのだ。
これ以上、期待をするだけ無駄なのだと知ることができた。これ以上、期待することで夫に負担をかけずに済んだのだから。




