サルガスもしくはギスタブ
夫が、戻ってこない。
一人でいると、声をかけられた時に、会話に困ってしまう。ジゼルがあいまいに微笑んだり、わずかに言葉を返せば、人は満足してくれるが、獣人はそうではない。
皆、何かに疑問を感じているようで、大体は、ジゼルを質問攻めにした。
エマニュエルの妻なのか。
そして、エマニュエルの番なのか。
その傷は、エマニュエルが自らつけたものなのか。
直接、誰も、エマニュエルと前の番の顛末について、ジゼルを責めはしなかったけれど、ジゼルは真意の分からない、その質問を聞くと責められている気分になった。
すぐに戻るというエマニュエルの言葉を信じて、素直に待っていたけれど、一向に戻らなかった。その間に、何度も同じ質問を受けている間に、喉はカラカラになった。
バカみたいだ。
夫が自分のもので、自分が夫のものだと誇示する行為は、嫌だとか言って、ドレスの色を緑にした。でも、ジゼルはどこかで期待していたのだ。夫婦らしく、舞踏会でダンスをしたり、一緒に会話を楽しんだり、楽団の演奏に耳を傾けてみたい。どこかで、そんな期待をしていたから、髪飾りに赤色を選んだりしたのだ。
本当に、バカみたい。
ジゼルは、神殿で最初に覚えた、諦めるという行為を、夫相手にだけは出来ずにいた。
夫に待っているよう言われた場所を離れて、ジゼルはゆっくりとバルコニーに向かった。一人で歩くには高すぎる踵だったけれど、それでも一人で歩いた。エマニュエルの手が、自分の手を握り返さないことは諦められた。だから、次は、夫の手に手を重ねること自体を、諦めようと思った。
「美しい方。」
バルコニーの石造りの手すりは、ひんやり冷えていて、少し火照っていた体を冷やす。喉を水で潤したかったけれど、少し体が冷えたせいで、諦められた。
「美しい方、よろしかったら、シャンパンはいかがですか。」
もう一度、呼びかけられて、ジゼルは振り向いた。ジゼルよりも年上の金色の髪を一つに束ねた男が立っていた。その手には、泡がはぜる音のするグラスが二つ握られている。
喉の渇きを急速に感じて、ジゼルは、思わず受け取ってしまった。
「あなたが、一人でいるところに、出くわせるなんて、私は幸運です。」
「……そうでしょうか。」
「ええ。あなたは守り人様です。人の尊敬を集め、あなたの祈りにあやかろうとする者たちが、あなたの周りに集まりますから。」
「私のことを、よくご存じなのですね。」
「……私ばかり、あなたのことを知っているなど、ご不快でしょう。申し訳ございません。私は、ジスラン・ドゥニと申します。北のさびれた領地を任されたしがない伯爵の身です。」
男は、肩をすくめた。ジゼルよりも年上だと思ったのは、その顔に、わずかばかりの皺がくっきり見て取れたからだ。40代だろうか。体は引き締まっており、身に着けている服も靴も洗練されているように思えた。
「……ドゥニ伯。存じ上げず、失礼をいたしましたわ。」
「お気になさらないでください。美しいあなたに、今宵、お会いできたことが奇跡です。こうして言葉を交わし、名前を呼んでいただけることが喜びです。」
ジゼルは、手放しの称賛に戸惑い、そして曖昧な微笑を返すことを選んだ。夫がもしもそんな言葉を口にしたらと、一瞬たりとも想像などしなかった。
「踊られないのですか?」
「え?」
「申し訳ありません。先ほどは、あなたが一人でいるところに出くわしたと申し上げましたが、本当はお一人になるのを待っていました。ずっと、見ていましたから、踊っていらっしゃられないのも知っていました。」
「そう、でしたか。」
ジゼルは、静かに瞬きを繰り返す。ただ、なんと返事をしていいか分からなかった。今まで、声をかけてきた尊敬と畏怖をごちゃまぜにした人たちよりも、ジスランから明確な意思を感じていたからだ。
「夫君と、あまり上手くいってらっしゃらないのですね。」
疑問形ではなく、明確に言い切られて、ジゼルはより一層なんと答えていいか分からなかった。ジスランをまっすぐに見つめると、女性に好かれそうな微笑を浮かべた。
「見ていたら、分かりました。あなたは、ずっと遠慮してらした。踊ることだけじゃない。ただ、腕を借りることさえ、気にされていた。」
「……夫は親切ですわ。夫婦仲は良好です。そんな風に、あらぬ疑いを抱くのはやめてください。」
陛下が決めた結婚の手前、ジゼルはどうしても、それを認めることができなかった。だが、強く言えば言うほど、それは、肯定と同じになることもわかっていた。
「親切と親愛は似て非なるものですよ。」
ジゼルは、衝撃を受けながらも、あいまいな微笑の仮面を慌ててもう一度被った。親切という優しい言葉で、ずっと誤魔化してきたのに。突き付けられた現実の痛いこと。
「私なら、あなたにそんな顔はさせないものだがね。」
ジスランはそう言って、あいまいに微笑んだままのジゼルの頬に触れた。その指先は、夫の剣を握る手よりも柔らかくて、冷たかった。




