イプシロンの鳴き声
「ジゼル様、頭痛に効くお茶をご用意いたしましたわ。」
アンヌ=マリーの声に、眉間に添えていた手を、わずかに離して顔を上げる。
伯爵領では結局、望んだように夫と時間を共有することなく過ごし、王都のリシュリュー公爵邸に戻った。
旅行の疲れはとっくに抜けたはずなのに、今日の朝からずきずきと痛んで、片側だけ拍動するように頭が痛んでいた。
時折あることで、ひどい時には、起き上がれないほどだったが、予兆はいつも同じだった。日の光がいつになく眩しく感じる。
消えない炎が、目を焼き切るほどに強く感じる時には、頭痛が起きる。そんな日にも、ジゼルは休むことを許されなかった。ひどい痛みの中、耐えることに慣れすぎていて、薬を使うという発想に至ったことがなかった。
「頭痛が起きる前に、お姫様が言ってくれれば、起こさない薬湯だってあるのに。」
「……そうなの。」
「まあ、とりあえず、それを飲めば楽になるよ。」
イネスは、腰に手を当てて、叱るような言葉を使った。イネスの女性にしては低い声は、頭痛が強い今、とても心地いいものだ。
ゆっくりと、それを飲み切って、ジゼルはしばらく目を閉じていた。拍動するような痛みは、すこし収まり、地面の揺れを感じていたはずなのに、収まっていた。
「すごいわね……」
「さすが、魔女!って言ってくれていいんだよ。」
「イネス!調子に乗らないの!」
アンヌ=マリーが片手を振り上げると、それが、振りだと分かっていながら、イネスは頭をかばって、ジゼルの後ろに隠れた。
「さすが、魔女ね。」
「ジゼル様!ジゼル様は、イネスに甘すぎます!」
「そんなことないもん。」
アンヌ=マリーは、イネスに厳しい。ジゼルは、苦笑して、そして、自分を嘲笑するように吐息を漏らした。
「ジゼル様?」
「頭痛の理由は、わかっているのよ。」
「嫌なことが、あるんでしょ?」
「……そうね、嫌なこと、そうかもしれないわ。」
頭痛は、過度の緊張や精神的な負荷が原因であることが多いと、ジゼルは経験上知っていた。
「狼のせい?」
「イネス!」
「……っ」
ずきりと痛んで、こめかみに手を添える。反射的に、大きな声を出したことを、アンヌ=マリーが謝罪したのを目の端にとらえて、わずかに首を振る。
「仲良くできないから?」
「……そうね。そうかもしれない。」
「狼と、仲良くしたいの?」
「夫と仲良くなりたいなんて、おかしいかしら?」
「ううん。そんなことないと思う。」
イネスは、ジゼルの前で、繕うのをやめたのか、言葉がますます幼さを増していた。
「夫の心を動かすような、私に情熱を持ってくれるような、そんなことになってくれたらいいのに。」
「……心を動かす?」
「そう。いいえ、動かせなくてもいいの、少しの間、私にその心が向いてくれたら……そうだわ、そんな薬できないかしら?」
「でき、なくは、無いけど。」
「本当に?」
心は動かせなくともいい。少しだけ、ジゼルに興味を持ってくれて、そして、夜を共にしてくれさえすれば、それでいい。それで、子どもができたら、ジゼルは、もう少し生きる意味を見出せるかもしれない。
戸惑うように、イネスが頷いたのが見えた。
「イネス、確か、弟をアカデミーに通わせたいって言っていたわよね。」
「っ!……うん!」
「その薬ができたら、アカデミーへの入学費用を、報酬として与えるわ。」
「本当?」
「ええ、約束よ。」
「……ほんとのほんとうに。」
「もちろん、ちゃんとしたものを作れたら。」
イネスは、今度は明確にうなずいた。頭の痛みはどこかに吹き飛んでいた。憂いはたくさんあるけれど、ほんの少しだけ希望が見えた気がした。




