針をなくしたピクシス
エマニュエルは常に迷っていた。
ジゼルと婚約してから、ずっと、惑っていた。イザベル・エモニエと婚約したのは、幼馴染で、互いに認め合い、尊敬しあうことができるからだった。
惹かれて惹かれてどうしようもない運命の番ではないが、優しい愛情を育んでいける番だと思ったからだ。
だが、イザベルの希望もあって、まだ、番の証は立てていなかったし、互いに香りをつけ合う行為もしていなかった。
だから、婚約を破棄したときも、想像していた痛みや苦しみ焦燥には襲われなかったが、それでも、押し付けられたという気持ちがなくなるわけではなかった。
選んだイザベルと結婚できず、押し付けられたジゼルと結婚する。獣人であるにもかかわらず、人と同じことをしなければならない屈辱を感じていた。
だから、獣人の仲間は、皆、エマニュエルに同情的だった。ジゼルのわがままで、エマニュエルは獣人の誇りを傷つけられたのだと思っていて、ジゼルに冷たい視線を、時には心無い言葉を言っていた。
それを見ていると、エマニュエルは、どうすればいいのか分からなくなった。
確かに、獣人としての尊厳を傷つけられた。そのことに怒りは感じていた。でも、ジゼルを傷つけられると、例えようのない感情に襲われた。
ただ一人で、神殿で祈り続けてきた王女を、ないがしろにすべきではないという気持ちと、あの儚く消えてしまいそうなあの人を支えたいという気持ち、それをごちゃまぜにして、欲望で汚したような色をした感情だった。
どんな顔をしてジゼルを見つめればいいのか分からなかった。親切にすることはできた。でも、獣人としての誇りを忘れるなと周りから言われれば言われるほど、触れることができなくなった。
時折、一人でジゼルが指輪を眺めているのを見ると、申し訳なさがこみあげる。
ただのご機嫌取りのつもりで購入した安価な指輪を、嬉しそうに眺められてしまうと、身動きが取れないほどの居心地の悪さを感じた。
「……証をつけたんですか。」
「……ああ」
気を失った姫を、天秤宮に運ぶ間、ララはどう表現していいか分からない表情を浮かべていた。怒ればいいのか、喜べばいいのか分からないような表情だった。
「ジゼル様は、婚約破棄のお話をしたはずです。」
「ああ」
ベッドに寝かせて、噛みついた傷痕を指でなぞった。例えようのない焦燥に襲われて、番の証をジゼルに残した。獣人は、この証がある限り、絶対に他の誰とも番うことができない。高貴な人ならば、傷者として同様だろう。
「なのに、なんで……。困っておいでだったはずです。ジゼル様のわがままに。」
「そうだ。」
「……地位が欲しくなりましたか?」
「いいや。我々に地位など必要ない。」
「なら、なんで!」
「声を抑えろ。姫が起きる。」
「私はただ、誤解を解きたかっただけです。互いに憎しみ合わずに、婚約を解消してほしかっただけで。これでは、ジゼル様の望みと違います。」
ジゼルの望みは、自由に空を飛びたいという、ただそれだけのことだった。
それを、盛大に勘違いしたオレールが、エマニュエルをあてがっただけで。だから、ジゼルは、エマニュエルに恋情を抱いていたわけではなかったのだ。あんな風に、幸せそうに指輪を眺めていたのは、エマニュエルを愛していたからではなく、ただ、そんな環境に身を置ける己の幸運に感謝していただけだったのだ。
それを知ってしまったら、動けなくなった。だから、ジゼルの了承なしに、証を無理やり残してしまったのだ。
自分の行き場をなくした焦燥を、ジゼルにぶつけた。
「これで、いつでも、空を見せて差し上げられる。」
「……え」
「傷の手当てをしておけ。」
この何色とも表現できない感情を、エマニュエルは、これから一生隠し通そうと思った。この感情が、ジゼルを傷つけるかもしれない。だから、この感情に名前を付けず、このまま海の底に沈めて、消えてなくなるのを待つことにした。




