べクルックスの春は短い
石畳の街並みは、神殿と同じく、春とはいえ温度が低いが、活気にあふれていた。
足元は冷やりとしていたが、春の日差しは心地よい。
「姫、どちらに参りましょう?あちらに、街の神殿がございます。」
「だめよ。ジゼルって呼んでちょうだい。それに神殿なんて行きたくないわ。」
ジゼルは繋いでいた手を引っ張った。エマニュエルは相変わらず、困ったような顔をしていたけれど、護衛についてきたララは、憎々しげにその手を見ていた。
そんな目で見なくても、罰はとっくに受けている。握り返されないという意思表示は、ジゼルにとっては十分、罰になった。
「見て。可愛い。これは何?」
「ガラス細工の小物ですね。アクセサリーも売っているようです。」
「見に行きましょう?」
男性は入り辛そうな小さなお店にジゼルは、エマニュエルを連れて入った。こじんまりしていて、ララは外で待機する形になった。
ララの責めるような視線がなくなると、少しだけ握る手に力を入れられた。
「いらっしゃいませ。」
ジゼルより、きっと若いであろう女性が、かわいらしいエプロンを揺らして立ち上がる。その視線は、エマニュエルをとらえていた。美しい銀狼は、女性の心を簡単につかんでしまうようだ。いつか、握り返されない手は、簡単にすり抜けていくのだろうと思った。
「ご夫婦でデートですか?」
「いいえ、まだ。婚約中なの。」
「まあ、素敵です!とてもお似合いですね。」
「ありがとう。」
ジゼルは守り人時代、自分が周りから、どう見られているか理解していた。神殿の中ではヘーゼルの瞳は神秘的だと言われたし、視線を外して微笑めば聖母のようだと言われていた。でも、今、こうして銀狼の隣に立っている自分が、どう見られているのか分からなかった。ただ、似合いという言葉が、正しいとは思えなかった。
「あ!婚約中であれば、こちらの指輪がおすすめです。」
「これは?」
綺麗な色のついたガラスの周りを小さなガラスが取り囲む。宝石であれば、王室によくある王家の指を飾るような意匠の指輪だった。
「婚約者に贈る約束の指輪です。」
「約束?」
「男性が、女性に贈るんです。自分の瞳の色と同じガラスで作ります。お客様であれば、そうですね、これとか。」
赤い色のガラスは、他の色のガラスと比べると小さかったが、エマニュエルの瞳の色と全く同じに見えた。
「……素敵ね。」
自分に、約束は必要ない。これは、益の伴った政略的結婚だからだ。エマニュエルは公爵位を手に入れて、ジゼルは普通の幸せを疑似体験できる。
だから、ジゼルには約束なんて必要ないのに、エマニュエルに約束を与えられる人が羨ましく思えた。
「これを、買いましょう。」
「え?」
ジゼルの心がぐらついた。不安定な場所でつま先立ちをする踊り子みたいに、ぐらぐら揺れる。でも、顔をあげてみると、そこにはやっぱり困ったような、惑ったような、そんな表情があるだけだ。
見なきゃよかった。
ジゼルは首を横に振りかけて、やめる。それが、たとえ、ままごとでも、ジゼルは普通の幸せを、弟から与えられたのだ。
決して得ることができないと思っていた普通の幸せを、ジゼルは心のどこかで強く望んでいたのかもしれない。
「ありがとう、嬉しいわ。」
エマニュエルと同じ瞳の色の指輪を、約束の指だという、左手の薬指にはめる。
「相手にはめてもらうんですよ。」
こっそり、花がほころぶような笑みで言われたが、ジゼルは自分で指にはめた。ジゼルは、誰かと約束なんて交わしたことはない。約束は自分で自分に与える制約でしかない。
だから、エマニュエルの翼をもいだ自分への枷として、指輪をはめるのだ。
いつか、結婚指輪を互いに嵌めた時にも、この指輪があれば、これがままごとであることを思い出せる。
わかっていたことなのに、どうして悲しく思うのだろう。
エマニュエルの腕に、腕を絡めて、顔を仰ぎ見る。この顔は、いつか、ジゼルに微笑んでくれるのだろうか。いつか、真似してくれないだろうかと、ジゼルは口角を上げた。
「エル、あそこにお花屋さんがあるの。見に行きたいわ。」
「はい。」
腕を絡めた時、エマニュエルの体はこわばっていた。謁見の時、ゆらゆら揺れていた銀色の尻尾は、婚約が決まってから一度も揺れたことはない。その意味を、ジゼルは、なんとなくわかっていた。
「キレイ。このお花は?」
「ミモザだよ、お嬢さん。おや、人狼の彼氏とデートかい?最近、増えたんだよ。人と獣人のカップル。」
きっと、王女様の影響だね。こっちは、ジャサントゥ、綺麗だろう。
そう、獣の耳を持たない店主はつづけた。
「そうなの。」
「王女様も、人狼と婚約したんだろう?王女様は、ずっと、神殿で祈ってくれてたんだ。だから、幸せになっていただきたいよ。」
「人狼じゃないわ。狼の獣人よ。」
「大体、一緒だろ。でもよ、獣人には、王女殿下は評判悪いんだよ。なんてったって、番を、」
「店主、その花、包んでくれないか。」
“番”
耳慣れない言葉に、ジゼルは、少し戸惑った。その言葉の意味が語られる前に、エマニュエルが遮ってしまう。続きを聞いたら、何か変わるだろうか。続きを聞いたら、戻れなくなるだろうか。
ジゼルは他人事のように思った。
店主は何を思ったのか、それ以上、無駄口をたたくことなくジャサントゥを包み始める。でも、ジゼルはミモザが欲しかった。
店から出る時には、もう一度、腕に腕を絡めた。今度は、後ろにいたララに、お嬢様とたしなめられる。
窘められなくとも、罰は十分に受けていた。
「……ミモザ」
「え?」
「ミモザが欲しいわ。」
「……ああ。すみません、勝手に。もう一度、買ってきましょう。」
「いいえ。あの子から買う。」
花屋から出て、どうしてか街の神殿の方に足が進んだ。そこに行くまでの間に、一人の少女が立っていた。
耳は白くてふわふわで、愛らしい眼をしている。ミモザの小さな花束を手に持っていて、少女と女性の中間地点に立っているようだった。
「姫、あの娘は、」
「ジゼル。」
そう答えて、腕を離す。その手が自分をつかまないことを知っていたから、娘の方に歩み寄った。
「お嬢さん、そのお花を売ってくれる?」
「……お客様には、売れません。」
「ララ。お金を。」
「お客様に、売れません!この花は、」
「いいえ。売ってもらうわ。その花が、私は欲しいの。」
ララが持っていたお金の価値が、正しくジゼルには分かっていない。でも、それが、このガラスの指輪と同じかそれ以上であることは分かった。
「施しなんていりません!」
「これは、施しじゃない。あなたの花への対価よ。今日は、家に帰って。」
ジゼルは、視線を外して、ゆっくり微笑んだ。それが、神殿で聖母と呼ばれる微笑であることを知っていた。
「……っ」
娘はジゼルの手から引っ手繰るように、お金を取って、ミモザを地面に捨てて走って行ってしまった。ジゼルは静かにミモザを拾う。片膝をついたせいで、ワンピースが少し汚れた。
「獣人への施しですか。気分が良いことでしょうね。」
「ララ、やめろ。」
「……獣人だからじゃないわ。」
ジゼルはミモザの小さな花束を、手の中でくるりと回した。春の香りがわずかにした。
「私は、十年間、春を売らなければならない娘が一人でも減りますようにと、祈っていたの。それが、人でも獣人でも関係ない。でもね、私の祈りでは、何も変えられなかったの。本当は、政が、変えるべきなのよ。でも、その力は、私にも弟にも、まだない。だから、せめて、今日という日を、春を売らなくていい日にしたいの。」
「……姫」
「きっと、偽善なんでしょうけどね。」
ジゼルが、神殿に向かって歩き出すと、反射的にエスコートの手が伸ばされた。けれど、ジゼルは、その手を取ることも、腕に腕を絡めることもしなかった。
春の香りの花束が、両手を塞いでいるからと、言い訳をしてみたけれど、小さな子どもの言い訳よりも拙いものだった。




