カイルスの住まう場所
「ラサル、いないの。」
人馬宮は、いつもと同じ騒がしさなのに、ジゼルが通ると潮を引いたように静かになる。そこに、尊敬があるのか、畏怖があるのか、それとも嫌悪があるのか、あるいはその全てなのか、ジゼルは分からなかった。
人馬宮のはずれ、広い草原にいつもいるラサルの姿がなくて、ジゼルはため息をついた。
ただ、ラサルの姿が見たかっただけなのに。それが、草原にいる姿でも、空を悠々と飛ぶ姿でもよかった。
ラサルハグェは自由だ。檻に入れられて、情緒すら他人に決められていたジゼルとは違う。感情すら檻に入れているジゼルとは違う、自由なラサルハグェをジゼルは愛していた。
「ラサルハグェ」
「ジゼル様、用はお済みでしょう。天秤宮に戻ります。」
ララの言葉に掻き消えた、ジゼルのつぶやきは風に運ばれて、同時に強い風を巻き起こす。
「ラサル!」
「ジゼル様!お下がりください!」
黒い鱗と、金の瞳が、ジゼルの意識のすべてを持って行く。ララが近づこうとした瞬間に、ラサルが咆哮をあげた。ララが一瞬で動けなくなったのを見て、ジゼルはどこか満たされる感覚を覚えた。
神殿にいた時には抱かなかった穢れた感情だと思った。
ジゼルは、ラサルが背中を下げたのを見て、迷いなく足をかけた。以前は、その体高に恐れをなして、エマニュエルの手がなければ登れなかったが、一度知ってしまった自由は、ジゼルに迷いを与えなかった。
「ラサル、飛んでくれるの?」
「ジゼル様!!」
今度は、アンヌ=マリーの悲鳴に近い呼びかけが聞こえたが、無視した。
自由になれる瞬間は、ジゼルには多くなかったからだ。自由の代償を、きっと、この後、払うことになるだろうけれど、それでもいいと思った。
ラサルは迷いなく飛び上がった。風を切る音が、耳を震わせて、楽しくなる。
きっと、ラサルが自分を乗せる理由は、エマニュエルの言うようなものではないことを、ジゼルは知っていた。
ラサルは、ジゼルを穢れない人だと思って、乗せているわけではない。ジゼルを認めているから乗せているわけでもない。
「ラサル、あなたは、私を帰したいのね?」
首元を撫でながら、ラサルが目的にする方向を見つめてつぶやいた。
その方向には、神殿がある。ジゼルを守り人という鎖でつなぎとめて、自由を奪った神殿という名前の牢獄だった。
「だから、背中に乗せてくれるのね。」
「ギャアアアアアアア」
耳をつんざく声に、ジゼルは耳をふさいだ。すぐ後ろに、銀色の竜が飛んでいた。ラサルと一緒に、ジゼルを迎えに来た銀色の竜だ。
「ジゼル様!ご無事ですか。」
「……どなた?」
「エマニュエル・バイエとともに、ジゼル様のお迎えに上がりました、竜騎士のクロヴィス・コルビジュエと申します。」
彼もまた獣人に見受けられたが、ジゼルは、興味をなくした。クロヴィスが銀色の竜の背中を撫でると、もう一度、銀竜が鳴く。ラサルは、目的をもって飛んでいたのに、それをやめてしまった。
「ラサル?帰るの?神殿に行かなくていいの?」
ラサルは、ジゼルの問いかけに、鼻から息を吐きだして答えた。
「ジゼル様、一緒に戻りましょう!ラサル、戻るぞ!」
「残念ね、ラサル。」
ラサルは、ジゼルを神殿に帰したがっている。その理由は、分からない。
ほんのわずかで終わってしまった空の散歩だったけれど、ジゼルは、とても自由でいられた。誰のことも気にせず、誰の視線も気にする必要もなく、守り人でも、王女でもなく、ただのジゼルでいられる。
「ジゼル様!なんてことを!」
地面に足をつけた瞬間、茶色のしっぽを逆立てたララが、ジゼルのもとに大股で歩いてきた。代償は支払わなければならないと思ったが、ララがそれを求めるとは思っていなかった。
右の手を振り上げたのを見て、ジゼルは少し意識をぼんやりとさせた。痛みをごまかすためだった。殺気を隠そうとしないのは、なぜだろうか。そう考えることで、衝撃をごまかそうと思った。
「ギャアアアアアアア!!!!」
だが、ほぼ同時にラサルが、威嚇するようにララに吠えた。ララは、そこから一歩も動けなくなってしまったようだった。ラサルは、ジゼルを神殿に帰したがっている。でも、同時に危害を加えるものから守ろうともする。
ジゼルには、理解できない、その感情に、それでもジゼルはどこかで満たされる。
「姫!」
「……エマニュエル」
「姫、ご無事ですか。」
ジゼルのもとに走り寄ったエマニュエルは、額に汗を浮かべていた。エマニュエルの感情も、ジゼルには理解できない。親切にするのに、困ったり、惑ったり、そんな感情ばかり見せた。こうして心配するのに、殺気を向けるララを護衛によこした。
「クロヴィス、すまない、助かった。ララ、お前は何をしていた。」
「……ララは、悪くないです。ラサルが空を飛んでくれるとは、私も思わなかったの。ただ、街が見たかっただけなのだけど。」
「ラサルと飛びたいなら、私が一緒にします。街を見たいのなら、一緒に出掛けましょう。だから、こんな危険なこと、しないでください。生きた心地がしなかった。」
「……本当に?」
「ええ、本当に生きた心地がしなかった。」
「違うわ。そうじゃなくて、一緒に街に出てくださるの?」
私、見てみたかったの。
そう呟くと、エマニュエルは、ばつの悪そうな顔を浮かべた。きっと、そんなつもりのなかった言葉だったのだろう。
「……ええ。」
「嬉しいわ。必ずよ。」
この場で微笑んでいるのは、ジゼルだけで、エマニュエルも、ララも、クロヴィスも笑ってなんかいなかった。そんなことなら最初から、言わないでいてくれればよかったのに。
ジゼルは、満たされていたはずの心のどこかが、急速に冷えていくのを感じていた。




