シルマの祈り
ジゼルが生まれた時に与えられた使命は、ただ祈りを捧げることだった。
ただただ国のために祈り、兄が王として世を治めている間、ずっと、祈り続けることだった。
ジゼルはただ、消えない神の炎を守り続ける「守り人」として一生を終える。
ジゼルが長く「守り人」でいられれば、いられるほど、兄は平らかな世を築いていることになる。だから、ジゼルは、この神殿から出たいなどと思ってはいけないのだ。
たとえ、ジゼルが「守り人」としか呼ばれず、自分の名前を忘れてしまいそうなことに辟易していても、思ってはいけない。
王のため、国のため、国民のため、今までこの神殿で祈りを捧げてきた「守り人」たちの多くがそうしてきたように、ジゼルもそうしなくてはならないのだ。
ずっと、そう思ってきた。
「王女殿下」
いつものように祈りを捧げていた。消えぬ炎は、水に守られるように、水に満たされた神殿の中央で輝いている。ジゼルは、膝まで水で濡らしながら、炎の近くで跪いて手を合わせていた。
石で作られた神殿は、音が大きく響く。
刀と金属がぶつかり合う音がずっと聞こえていたけれど、ジゼルはそれでも祈りを捧げていた。
「王女殿下」
もう一度、呼びかけられて、ジゼルはゆっくりと立ち上がった。周りに控えていた神官たちが、ジゼルの代わりに口を開く。
ジゼルは神に捧げられる娘だ。俗世に穢れてはいけない。だから、誰とも口をきいてはいけない。
「何用でしょうか。守り人様は、ご覧の通り、祈りを捧げるお時間でございます。」
「その必要はなくなりました。」
「なにを、おっしゃっているのか。」
「陛下がお隠れになられました。」
ジゼルは、わずかに顔を上げた。ベールで視界はよくないが、飾られた細い鎖が音を立てた。
「お迎えに上がりました。」
ジゼルに手を伸ばす男の姿は、良く見えない。銀の髪に赤い瞳、それに加えて銀色の耳が見えた。
獣人
ジゼルが会ったことのない種族が、メトロポリテーヌ国に受け入れられるようになったのは、兄の治世になってからだ。
過去のように保守的であるだけでは、国は発展しないという考えだと伝え聞いた。
でも、神殿はそれに最後まで反対していた。だから、いつも、口が酸っぱくなるほど言われた。
人のために祈りましょう。
守り人様は、人のために祈るのが使命です。
「失礼な、このような獣臭いものを神殿に入れるなど!」
「すぐさま追い出します。守り人様、お下がりください。」
ジゼルは、口を開くのも嫌になった。
誰のためにも、ジゼルは祈りたくなどなかった。
ジゼルが、守り人になると決まった日から、俗世に染まってはいけないからと、家族から引き離されて処女宮で過ごした。
一度だけ、処女宮から出されて、兄に会ったけど、ただそれだけだった。ほかに二人いる妹たちと弟、両親が幸せそうに家族として過ごす中、ジゼルはずっと一人だった。
一人は孤独だ。
神聖だと言われ、どんなに大切にされても、ジゼルは孤独だ。
17歳で、ジゼルは守り人になった。それまでに、妹たちは結婚し、子どもを産んでいた。10年間ここにいる。ふつうの幸せなど、もう得られないことは知っている。
「……兄は、死んだのですか。」
「守り人様!このような穢れたものと言葉を交わすなど!」
「はい。ですから、もう、あなたは守り人の任を解かれます。」
「次は、決まっているのですか。」
「いいえ。」
普通の幸せは望めない。そんな人間が、もう一人生まれるのは可哀そうだった。
それならば、この生活に慣れているジゼルが、ずっとここにいる方がましに思える。
「それならば、私が引き続き、守り人として、炎をお守りいたします。陛下のために、祈りましょうと、お伝え願えますか。」
「……いいえ、その必要はありません。」
「私では、力不足でしょうか。」
「いいえ。陛下は守り人制度を廃止することに致しました。」
なんだと!そう口々に神官が怒声を浴びせるが、銀色の獣人はひるむ様子もなく、静かに、だが腹から出る力強い声で制した。
「政に、口を出すな!そなたらの業を裁かぬ代わりに、くだらぬ人質制度は、やめる!とのお言葉です。陛下は、誰かの犠牲のもとに成り立つ国などいらないと仰せでした。神官長殿は、快く同意された。これ以上、犠牲は出さぬ方が互いのためだと。」
「……くだらぬ」
くだらぬ人質制度
祈りは、何の役にも立たない。そう言われている気がして、ジゼルは静かにため息をついた。
悲しい思いをした守り人は、きっとたくさんいただろうに。
それでも、皆、国のためだと思って、涙を呑んできたのだ。それなのに、それはくだらぬ人質制度だと言われてしまうと、身動きがとれなくなる。