【章の途中ですが、コラム風なものです】地元にある地味な城の話(改題、一部修正加筆)
健康維持も兼ねて、私の地元豊橋をジョギングした時の出来事です。スタート地点は……
大池
豊橋市の真ん中にある向山緑地に来た時の事。来た理由は、吉田城のある豊橋公園に車を停めることが出来なかったからであります。今日はここからジョギングと思いまして……。ここ向山緑地は大池と言う池をベースに造られた公園であります。私が学生時代。部活でよく走らされた場所でもあります。当時の池の印象は?と言いますと
(……池の水が緑に澱み、魚たちが腹を出して浮いている……。)
そんな池の水気を吸い込みながら高校時代走っていたのでありましたが、改めて公園の立地を見ますと不思議に思うことがあります。それは何かと言いますと
(……自然のままの状態で池になることは無い場所に池が存在している。)
高台の上。淵ではありますが、池があるのは高台の上。高台の下に水が集まって池が……ならばわかるのでありますが、池があるのは高台の上。
……と言うことは、この大池は人工に造られた池?と調べてみますと、江戸時代に吉田城の南と東の空堀部分に水を引くべく造られたものでありまして、その水路を利用して吉田城下の下水並びに更に下流の吉田方の農業用水としても利用されていたそうであります。ただ明治になりまして牟呂用水が開通。大池の役目は池周囲の田畑に縮小。更には市街地拡大に伴い周囲の田畑自体が無くなり現在は全てが地中。暗渠の中で処理されることになったそうであります。
そんな大池からジョギングを始めるのでありますが、折角ですので何処か目的地を決めようかな?となりまして、時間も中途半端。小1時間で戻って来ることが出来るような場所はないモノか?と考えました結果。
(……吉田城の東にありました二連木城に行ってみようか?)
となりまして
(……確か路面電車の何処かの電停を真っ直ぐ北に向かえば辿り着くことが出来たよな……。)
の昔を記憶を頼りに大池から坂を下り(これが大池からのかな?の)水路が見えたところで右折。国道一号線を渡り市電通りに到達。そこから3月に中止となりましたハーフマラソンのコースを少し走り前畑の電停に到達しました。
三八の市
前畑の電停を北に向かい、少し走って目に入りましたのが
『3と8の付く日の午前中。車両の通行は禁止となっています。』
と言った主旨が記された看板。この日は3と8の付く日ではありませんでしたので催されてはいませんでしたが、毎月3、8、13、18、23、28の日にこの通りでは市が開かれています。
(……本当に私が小さかった頃。まだスーパーらしいスーパーが少なく、タバコ屋と言うモノが各所で普通に食料品を扱っていた時代に。活気のあった三八の市に行ったことがあるかな?)
その当時に比べますと静かになってはいますが、現在も続けられている市であります。
……でその道をしばらく走っていきますと
(……T字路。)
と言うことは
(二連木城はこの電停ではない……。)
ここで西に向かってしまいますと吉田城に辿り着いてしまいますので針路は当然東。それらしき茂っている場所を目標に坂を上るであります。しばらく走っていきますと
『○○址』
と言う石柱が目に入りまして
(ここかな?)
と視線をあげましたところ
『東田神明宮』
の文字。一瞬参拝しようかな?の態勢になって
(ここではない。)
と再び走り出そうとした姿が
(……近くを散歩されているかたからは不審者に映ったようでありまして……)
しばらくロックオンされた視線を背に受けつつ東に進んで行きますと通りに出ました。路面電車の通りのある南へ戻って着いた電停は『東田坂上』。
(……勿論ここではない。)
と次の電停目指し、東へと向かうのでありました。
二連木城
二連木城は戸田氏の城。その戸田氏はもともと尾張の出。今の豊田市での戦いにおいて松平氏と共に台頭した戸田氏はその後、知多半島から海を渡り渥美半島に進出。渥美郡を掌中に収め、更に国を越え遠江の三ヶ日まで進出したところで今川氏から待ったを掛けられ、当時、今川が東三河の拠点としていた船形山城を攻め落としてしまったことにより報復を受け。その後、今川に織田。松平に武田の争いに翻弄されることになる戸田氏でありますが、その戸田氏が進出した経路にあたる土地はもともとどのような場所であったのか?と言いますと
『伊勢神宮領』
どのような方法で?となりますと
(……戦国の世であります故……。)
と言うことを東田神明宮で思い出しながら次の電停であります東田のある交差点に辿り着くのであります。次が競輪場前でありますので、
(……ここで無かったら幻の城。)
と思いつつ北へ向かいしばらく進みますと
『二連木城址』
の石柱を発見。歩いてみて改めて思うのは
(……城って戦う時のためにある場所なんだな……。)
城と言いますと、どうしても安土桃山以降の家臣や街の人全てを抱え込んで。のイメージがありますので大規模なモノを想像するのでありますが、戦国時代は各国人が各々の本拠地で暮らし、武田信玄のような領主にしても普段は便利な館に暮らしている。いざと言う時の攻守の拠点として城があるわけでありますから
(学校の外周を走るぐらいの感覚で回ることが出来てしまう規模なんですよね。)
今は公園並びに高齢のかたが利用される施設として活用されています。
一回りした後、二連木の界隈をジョギングしていますと
(……東三河の戦国時代に出て来る姓がチラホラと……。)