三 首の交わる点(ⅲ)
「テトさんの機嫌は大丈夫?」
「生まれた時から損ねているから大丈夫だ」
俺の軽口に、ハンドルを握るエマンは、そう、と深刻そうに返す。
「あいつのストレスが心配か?」
妙な反応だったので、俺は突っ込んでみる。エマンは首を振った。
「……あなたのストレスが心配ね。どちらかというと」
「生きること自体がストレスだ。どうってことはない」
「すぐそういうこと言う。カッコつけてるつもりなの?」
「格好ついてるように見えるのか?」
訊き返すと、エマンは「……そんなわけないでしょ」と語気を強め、それから黙った。
俺は、エマンの運転する車の中にいる。彼女の所有する車のうちの一台だという。自動四輪車は基本的に高級品で、というのも、液体燃料を用いた内燃機関が採用されており、これは外国からの輸入に頼っている現状だからである。技術を自国で囲い込み、差をつけようと思うのは、別に〈形而の都市〉の専売ではない。そんなものを幾台も所有し、各地に隠しているというだけで、エマンの強かさが窺える。
一般市民の移動手段は基本的に安価なバイクである。こちらのエンジンはマージュ機関とも言うべきもので、マージュ片を反応させて生まれる重量の変動を利用し、エネルギーを稼ぎ出す。ペダルを代わりに漕いでもらっているようなもので、最新のものでも出力は液体燃料のそれに遠く及ばないが、コストが異常に安くなっている。
日は落ちていた。行き先は〈歯抜けの街〉の中央から東に二〇分ほどにある繁華街。二階建ての薄汚れた飲食店が連なり、独特の不健康な活気が漂っていた。
用向きはと言うと、なんと、マージュ塊の手配が済んだのだという。きっかり三日でその報が来たものだから、俺はつい笑ってしまった。エマンも半信半疑のようで、ウソかも知れないから自衛はしっかりしておいて、と警告してきた。
「敢えて訊いてこなかったが、どういう筋なんだ」
場末の無人の雑居ビル裏、金を詰めたハードケースを携え、車から降りながら俺は訊ねる。
エマンはエンジンを切り、運転席から出てきて、
「何年か前に、〈帳影〉の社員が横流ししたものらしいわ。社員は捕まって即刻クビになったけど、塊は売られて行方不明に。総容量は八〇kbって」
「八〇……?」
聞いたこともない話だった。事実なら、俺の目を通すメディアでは扱われなかった、つまり揉み消された事件ということになる。
「そう。でも、そんな大きな塊、個人が扱えるものじゃない。三大企業の独占が成立してるのは、彼らが囲い込んでるからだけじゃない、マージュ粒子のポテンシャルを引き出すために必要なコストが法外だからなの。私的に運用できるはずもなく、手に余ったマージュ片は投資目的で次々持ち主を変え、分割されていって……今日、私たちが手にいれるのは、そのうちの二七kbの塊」
知らなかっただけで、その手の市場が存在しているようだった。投機でマージュ塊を集める人間は、将来に一体何を期待しているのか知らないが、とりあえず、そういう連中のお陰で目的を果たすことができるのはわかった。
「そんなに珍しい取引じゃないってわけか」
「うーん、天然で三〇kb、なんて条件つけたのは史上初なんじゃないかしら」
「俺も画期的だと思う……ところで、天然かどうかの判別はどうつけるんだ?」
「ドブ川と清流の違いがわかるなら、一目見ればわかるそうよ。めちゃくちゃに綺麗なんですって」
一応、芸術家として美を追求しているらしいテトが、天然のものを要求したのは当然のことだったらしい。決して健常な判断ではないが。
俺とエマンは連れ立って、ビルに入る。埃とアルコールの絡まった匂いが、もったりと鼻をつく。一七九bのマージュ片を駆動する古典的なマージュ灯に明かされた室内はがらんどうで、テトと初めてあのアトリエに入った時の寂れた光景を思い出した。
そんな室内に、二人の男がいた。つばの広い帽子をかぶった壮年の男と、太った男がスツールに腰掛けている。その傍らには、厚手の布に包まれた大きな物体。
二つの顔がこちらを向く。その口が開く前に、エマンが言った。
「エマンです。こちらがコース。天泣のテトの仲介人」
「おお、これは」
帽子の男が、立ち上がりながら俺に握手を求めてくる。俺はそれに応じて、
「初めまして」
「どうも……こちらの身分はどうしても明かせないが、天泣作品の蒐集が趣味の者とだけ言っておきましょう」
身なりの良さからして、この男には表の顔があるようだった。三大企業のどれかに所属していると言ったところか。
「キネルトの幻の作品を……というのは本当ですか?」
握手を終えて、帽子の男は窺うように訊いてきた。思わず俺がエマンの方を見ると、彼女は申し訳なさそうな顔をする。
「言った方が話が早いと思って」
まぁ、元が無茶な話だけに、目的の方から明かして売り手を見つける方が楽なのは尤もだ。マージュ粒子を彫るといっても、別に法を犯しているわけではない。
とはいえ、キネルトの幻は、美術品界隈では有名な都市伝説だ。下手に権力を持った人間に好奇心を持たれて、しつこく言い寄られても困る。完成品を権威の道具として扱われるのだけは、何としてでも避けたく、なるべく知られないに越したことはなかった。
「このことはくれぐれも内密に……」
俺が声音を低くして言うと、相手は鷹揚に頷いた。
「もちろん、そんな無粋なマネはしませんよ。ちなみに、実際にこのマージュ塊を所有しているのはこちらの彼です」
太った男は話を振られ、首をおどけたように竦めてみせる。
「オレは金さえもらえれば何でも」
帽子の男を介して、太った男の在庫を引っ張り出したということか。知り合いの知り合いの知り合いまで辿れば、誰でも都市長に繋がることができると言われる。情報網発展以降の、文字通りの人脈ということだ。
「金はこちらに」
俺はハードケースを太った男に手渡した。男はそれを床に置き、中身を確かめ始める。希望額通りだったことがわかると、傍らのマージュ塊をこちらに渡してきた。板に載った立体が、川を流れるように滑ってくる。マージュ粒子の反重力反応を利用したフローティング装置が、板の裏側についているらしい。
俺は片手で品物を受け止め、布をはいで中身を見る。表面には透明な虹色が光り、内部では橙がかった靄のような模様が渦巻いていた。隣のエマンが息を呑む音が聞こえる。評判通り、美麗な物質だった。指の上に載るくらいのサイズなら、子どもの頃によく遊んでいたので見慣れていたが、ここまで大きなものとなると、まるきり別の物質のようだった。
「素晴らしい」
塊を布で包み直しながら、俺は褒めた。帽子の男は俺を真っすぐに見据えると、
「本当にそれが……幻の作品になるのですか? あのキネルトが断念したという……」
「なりますよ」
俺は告げた。単なる事実だった。
「テトは彫ります」
「……なんと頼もしいことか」
返事を聞くや、帽子の男は声を震わせ目頭を押さえた。
「生きている間に見ることはないのだろうと、すっかり諦めていたが……まだ、望みは、あるのですね」
「あります。望みしかありません」
「そこまで確信的に言えるとは、本当なのでしょう。私はあなた方を、応援しています。ぜひ……幻を現に」
確かに、この男は美術を愛しているようだった。そうでなければ、俺の考えなしにも聞こえかねない言葉を、真っ向から受け止めないだろう。
「はい……必ず」
俺は丁重に礼を告げると、エマンと一緒に塊を運んで、その場を去った。
「……あなたがそんな顔をするなんてね」
建物から出た途端に、エマンがそんなことを言ってくる。意味がよくわからない。。
「そんな顔って何だ」
「あのおじさんの応援に、感極まってるように見えたけど?」
「……そうか」
表情の指摘をされたことなど一度もなかったので、反応に困る。
「俺は間違っていないんだと、思うことができた。不安だったんだ」
「犯罪まで犯したのだから、不安に思ってもらわなくちゃ困るわ。でも、間違いとか正解とかあるの? 芸術の話なのに」
「正解はないが、間違いはある」
エマンは呆れた風に目を細めた。
「どうしてあなたって、そんなに芸術家気質なわけ。どう考えてもこちら側の人間なのに」
「こちらってのが、商業界隈ってことなら誤解だ。俺がテトのために駆けずり回ったのは、俺の表現に過ぎない。人が筆を動かし、ノミを振るい、喉を震わして歌うのと、同じく」
「それだと、あなたが天泣のテトを使って創造をしていることになるけど?」
俺は思わず足を止めかけ、足取りが半歩遅れる。
「……不遜を承知で言えばそうなるな」
「認めるのね、正直な人だこと。傲慢なんだか謙虚なんだか」
「どちらでもある必要がある」
「そんな態度でよくテトさんはあなたを信頼するわね。どんな運命的な出会いをしたの?」
車に辿り着き、俺はマージュ塊を載せた板の端を踏む。フローティング装置の出力が最大化され、軋むような音と共に荷物が上昇した。そのまま荷台に押し込む。疑似的な無重力状態を生み出しているのだ、と言えば大仰に響くが、この装置に限らず、マージュ粒子を利用した機械の馬力はとにかく小さく、荷物を運ぶ程度にしか使えない。
「テトとの出会いだって?」
俺は訊き返しながら、運転席に腰を下ろす。運転は交代制という暗黙のルール。
「ええ。忘れるわけないわよね」
エマンは言いながら、助手席に乗り込んでくる。
「正確に言えば忘れたな。俺とあいつは、はとこにあたる。昔から顔だけは知っていた」
「親戚だったの?」
あぁ、と頷きながら、俺はアクセルを踏んで車をスタートさせた。バイクのエンジンとは明らかに格の違う、折り目正しい震えがやってくる。
「はっきりと今みたいな関係になったのは、俺の母親が殺されてからだ」
はぐらかしても良かったが、エマンとの繋がりはある意味、慰めでもある。どうせ長い道程、俺は喋ってみることにした。
「……そうだったの」
エマンは気まずそうに言う。これ以上、深掘りするような問いはしにくいだろうと、俺はこの先、滾々と語っていくことに決めた。
「犯人は部下の男だった。どこの下請けだったか忘れたが、母親はマンション建設の現場監督で、人間を人間と見なさない過激な上司だった。法外な労働時間に、ギリギリまで詰めた仕事工程だ。仕事のスピードは街区一だったが、死亡事故の数は都市一、殺される前に殺してやるってことで、部下の作業員が家にやってきて、めった刺しにした」
そして、その凶刃となった男を、俺は殺した。
衝動があっただけで、大した理由はない。俺は俺という存在を生んだ母親を憎んでいたが、それでも曲がりなりにも親である。木の股から生まれる人間はいない。文字通りの俺の始原を殺されると言うのは、精神にとって深刻な事件であるらしかった。
当然の権利のように、俺はその凶刃の男の脳天に椅子を叩きつけた。その素晴らしい一撃に、哀れな労働者は頭をぱっくりと割って死んでしまった。殺される前に殺してやったら殺されてしまったというわけだ。
俺は市民の義務として、警察に連絡をした。記録を出力するように、かくかくしかじか、起こったことを語ったところ、俺の行為は当然の帰結として正当防衛に落ち着いた。その判決を、俺は何かの間違いなんじゃないかと思いながら聞いていた。母親の罪も、凶刃となった男の罪も、俺の罪も――椅子を一振りしただけで帳消しになってしまったのだ。
もちろん、そういう法のロジックは理解している。けれども、それに感覚が追いつくかどうかは別の話だ。宙づりになっていた俺の精神は、ついに宙に浮いた。