三 首の交わる点(ⅱ)
バイクを飛ばしてアトリエに戻ってくると、扉に粘着している小柄なガキがいた。バーダンだ。脱色したぼさぼさの髪の毛に、やけにダボダボな服。あれでファッションというわけだから、鏡に姿が映らない種族らしい。
「おーい、テト! 開けてくれよー」
バーダンは不満そうに甲高い声を上げているが、黙って歩み寄る俺に気がつくと、その並びの悪い歯を見せて、
「お、コース兄貴! テトが入れてくんねぇんだよ」
「テトに絡むなって言わなかったか」
「言ったか? まあ、どうでもいいよ、それよりさ、中にも像、まだあるんだろ? 持ってかせてくれよ」
バーダン用に用意しておいた失敗作群は、それだけで手荷物いっぱいになるだけの量だったはずだ。その辺りの判断もできないほど、脳が劣化したかと思ったが、アトリエの裏手に停められたそれを見て俺は納得した。
「あんなもん買ったのか……」
普通の車の二倍の大きさはある、運搬用の大型車だった。主に〈柏舟〉の傘下企業が運用するようなものだ。後部に荷物をたらふく積めるような荷台があり、そこに俺が用意した作品たちが無造作に載せられていた。
「買うわけないだろ。盗んできたんだよ」
驚く俺を見て、バーダンは面白そうに言った。俺を出し抜けたようで嬉しいんだろう。
そのへらへらした面と、積まれた荷物の乱雑さに、俺の怒りはどうしようもなく膨れる。
「このクズめ……盗むのなんてせいぜいバイクだろうが、こんな高価なもん、そのうちアシがつくぞ」
「クズって酷いな! 車パクるくらいみんなやってるじゃん」
「それに、指定してない作品まで積みやがって……お前用の品にはバカでもわかるように、印をつけておいただろうが」
「あんなガラクタやだよ! オレはもっといいやつを卸したいんだ」
荷台を平手でパシパシ叩きながら、当然の権利のようにバーダンは言った。個人が所有するには高価すぎるものを手に入れて、完全に調子に乗っている。
俺は最後の警告のつもりで語気を強め、
「黙れ。下ろして、俺の指定したものだけを持っていけ」
「えぇ、良いだろうこのくらい、オレ、ついに車を持ったんだぜ――」
俺はバーダンの顔面を、思い切り殴りつけた。小さい身体がぐらりと揺れて、地面に倒れる。情けない嗚咽を漏らし、切ったらしい口元を血で濡らしながら、怯えた目つきで俺を見上げてくる。
「な、なに、すんだよ……女の子を殴るなんて……」
「今更女アピールすんな、下ろせと言ってるんだ。俺の指定したものだけ、指定した金を置いて、持って行くんだ。それ以上のことを考えるな」
「わ、わかったよぉ……こ、こええ顔すんなよ、コース兄貴ィ……」
たった一発張っただけで、バーダンのエリート気分はへし折れたらしく、半泣きで積んである作品を下ろし始める。
バーダンは、二〇分ほどの積み下ろし作業の間、見捨てないでくれとか、もう二度としないからとか、三下な台詞を言い続けていた。荷台の中身が、まばらに置かれた失敗作群だけになったのを確認してから、俺はバーダンの髪を引っ張ってこちらを向かせると、
「いいか、俺が連絡するまでテトに関わってくるなよ。絶対にだぞ」
「わ、わかったって……な、殴らないで……」
放してやると、バーダンは怯え切った様子で車に乗り込み、逃げるように去っていた。
「……クソガキめ」
どうせ次に会った時は、けろりとして同じことを要求してくるだろう。そう考えるだけでも忌々しい。
俺は憤然とアトリエのドアをノックした。
「テト。俺だ。バカは帰った」
「騒音バカが帰って、暴力バカが帰ってきたというわけか」
鍵を開けたテトは、すっかり悪くなった目つきで俺を見上げる。
「塊は?」
「まだだ」
「しょうがない奴だ。豚のようだ」
一日に一〇〇回は繰り返すやり取りをしながら、俺は後ろ手で戸を閉める。
湿っぽいアトリエの中は、一流のゴミで溢れていた。木やら粘土やら石膏やらで、幻の作品の模倣品を山のように造っているのだ。銅像を鋳造するための砂型まである。どれもこれも超高性能の立体印刷で出力したように、全く同じ形姿にしか見えないが、当然のように一つ一つが手彫りだ。
生憎と、俺たちにとってこれらは贋作でしかない。売り物にする気は起こらなかった。アトリエを圧迫しないために、いずれ処分しなくてはならないから、一流のゴミ。
「毎度言ってることだが、いい加減あいつとの関わりを切れ。邪魔にしかならないだろう」
俺は贋作たちを外に掘った穴へ埋める作業の合間に、強い口調で言った。テトは木片で新たな贋作を、芋の皮でも剥くように彫りながら、
「バーダンのことか?」
「そうだ。あいつはお前のことを金のなる木としか思っていない」
「だからといって、切る理由にはならない。そう思わせておけばいい」
「歩く侮辱製造機だ」
「それはお前が勝手に作り上げた侮辱だろう。想像上の侮辱だ。お前の不機嫌の理由に、僕の人格を勝手にしつらえるな。迷惑だ」
テトは淡々と言いながら、出来立ての作品をアトリエの床に放り投げる。いつものにべもない態度に、俺の苛立ちは募ってくる。
「何故、そこまであいつを庇うんだ? 俺よりも付き合いが長いっていうだけの理由で、だらだら関係を続けてるから、あいつは認められたと思い込んで増長してるんだぞ」
俺がまくしたてると、手持ち無沙汰になったテトは、指の腹を執拗にこすりながら俺を見据え、答えた。
「あいつは僕の価値を本当に知っているからだ。もしかしたら、お前よりも」
「な――」
あまりの信じられなさに身体が強張り、持っていた贋物を取り落とす。もはやデタラメなまでのその発言に、俺は果てしなく絶句した。憤りというか呆れというか、理解不能過ぎて、感情というものが立ち上がってこなかった。
「ど、どういうことだよ」
俺がテトを最も理解しているなど、気持ち悪いことなど思いたくもなかったが、それでもあのガキに劣ると判断する理路が知りたかった。
知らぬ間に震える俺の声に対し、テトはつまらなそうに、
「お前は僕の作品にしか興味がないだろ」
「それは違う」
「ふん。なら、僕という機械といったところか。『完璧』を造る、生産機械としての僕だ」
俺は押し黙る。図星は図星だが、こいつを機械と捉えることを、決して冷淡だとは思わない。むしろ、妥当と言える。彫刻の才能のないテトなど、無意味な偏屈の塊でしかない。
「バーダンは僕が仮に腕を失ったとしても、絡むことを止めないだろう。あの信奉を捨てるわけにはいかない」
「なら姿くらい見せてやれよ」
俺が正論を言ってやると、テトはきっとこちらを睨み、
「それとこれとは、話が別だ。全く別だ。混同するな。僕は今、君とすら、同じ空間に在り、会話していることが苦痛なんだ。これ以上、余計なリソースを割くわけにはいかない。僕が作品を創るための、そういうマネジメントなんだ」
「そうかい……だが、あいつの強欲は君をいつか滅ぼすぞ」
「僕が滅んだところで世界は困らない」
自嘲に満ちた台詞に、キッと頭が熱くなった。俺は声を荒げた。
「困るんだよ! 君がいるのといないのとでは、世界の有り方は全然変わってくる!」
「うるさいんだよ、がなるな。どっちにしたって、僕は僕の滅んだ後の世界に興味はない。どうでもいい。僕はただ、真理を象ってみたいだけだ」
「神秘主義めいたことを。俺のサポートがなければ、君はすぐにでも滅ぶ。そうしたら作品も満足に創れないだろう」
「ふん、現実主義者め。その『現実』を、一体誰に養ってもらっているのかは知らないが、そんなつまらないことを普段から思っているなら、同じことがお前にも言える。コース……僕の作品がなければ、お前は満足に生きていけないだろうが」
それは――真実だった。
テトが自分の運命に対する興味を捨ててまで創造に打ち込む不合理と、俺が破滅的に無頼なテトに付き合ってまでその作品に執着する不合理が、奇跡的に噛み合ってこのアトリエがある。その危うさを今更掘り返したところで、意味はない。
そのことを徹底的に自覚している俺が、繋ぐことのできる二の句はなかった。
テトは視線を落とし、自分の五本の指を馴らすように動かす。
「妄想的な現実などはどうでもいい。だが、この『存在』というもの。これは紛れもなく真理だ。なのに、何億回と見た自分のこの右手ですら、僕は満足に描くことはできない。見たままに描くというのは、恐ろしい試みだ。神への挑戦でしかない……神の設計したこの輪郭を、神の被造物でしかない僕たちが、トレースしようというのは」
真理はいつも目に見える形で無限に存在するのに、と、テトは、憂鬱な嘆息を漏らす。
いつもの口上だった。
「僕だってこんな仕事、しなくていいならしたくはない。お前の言う通り、僕は怠惰だからな。天が死ねという日を、今か今かと待ち望んでいるきらいはある。だが、やらないで済ますわけにはいかないじゃないか。誰かは最初にやらなくてはいけないから――クソ、話が逸れたし、長くなり過ぎた。僕は……ビビっているようだな」
テトは壁に貼り付けた図面に目を向ける。マージュ粒子を象るという、もう一つの極北。木や土や銅では捉えられない物の有り方を目指す、野心そのものだ。テトにとっては、巨匠を超えるという意味をも孕む、二重の意味での挑戦になる。
「……他人の考えたものを再現するのは、君の思想と相容れないんじゃないのか」
俺はこんな問いなど無用と知りながら、訊ねた。テトは笑うように息を吐くと、
「わからない。だが、僕はこいつを造らなければならないと思っている。不幸なことに、思ってしまった。だとすれば、これは芸術に違いない。完成のためには、全てが必要だ。魔法の塊も、バーダンも、世界も、全て」
ままならないな、と憎悪を込めて、テトは呟く。
全てはこの手中にあるのに、不完全なものに頼らなくてはならない、と。