三 首の交わる点(ⅰ)
俺は書店で新聞と雑誌を買って、細い路地を入ったところにあるいつもの喫茶店に入った。
情報網を覗けば、新聞の数倍もある情報がわんさか流れていく。マージュ媒体とざっくり総称されるそれと、紙媒体と、両方から俺はニュースを読み取る。これはもう、ほとんど趣味だ。仕事の役には立つが、知らなくてもいい情報の方が多い。有名作家の不倫とか。地区ごとの幸福度ランキングとか。
「どうも、お待たせしました……」
やがて、待っていた人物がやってきた。恐ろしく仕立ての良い正装をぴっちりと着込んだ、白皙の男だ。年齢は三十代半ばほどか。〈白虹の〉ノートンなる大仰な名前を持つこの男は、あの三大企業が一つ〈柏舟〉社長秘書の一人である。何人体制なのかは、どれだけ探っても知れなかった。
「いえ、とんでもない」
俺は立ち上がりながら彼に応じる。今来たところです、と言いかけたが、新聞、雑誌、情報網閲覧用の端末を机に散らかしておいて、それはないなと思って引っ込めた。
「驚きましたよ。……かの天才芸術家が、直接、自らの手で連絡を寄越して来たのですから」
席に着きながら、早速ノートンはぶち込んできた。〈柏舟〉と連絡を取る際の窓口はこいつだから、事の顛末は全て知られている。だから、メモを残す必要もなく、出所した俺がアトリエに戻るタイミングで連絡を寄越すことができたのだった。
「人間の言葉を話していましたか?」
「訥々と、といった感じですね。柔らかい木を打つようでした。まさか……女性だったとは。あの声の調子だと、年端もいっていないでしょう」
若干早口に、ノートンは言う。巨大企業に勤める重要人物でさえ、会話を交わせたというだけで興奮を覚える存在なのだ。
「くれぐれも口外しないで下さい。仮に、ゴシップの取材が来たら――」
「ええ、誰にも言いませんよ。そういう話が出たら、私が漏らしたと思ってもらって構いません。それで、〈土塊〉からは何を?」
ノートンには遠慮がない。自社への損害がなければ、どんな犯罪だって話の種でしかないのだろう。稼げれば相手の素性もどうでもよい、というこの企業の態度はこういう時に楽だ。
「……マージュ粒子技術に関する資料を」
「ふむ。それならさぞかしがっかりしたでしょう。オカルトめいたものばかりで」
「時間遡行とか、空間超越とか」
俺が実際に記憶にあるものを口にすると、ノートンは愉快そうに笑った。
「マージュ粒子ができるのは新規の空間を追加・削除することだけ。省略を構想すること自体、ナンセンスです」
「そうですね。なので、そんなこともわからない物好きに売りました」
本当は天に煙となって昇って行ったのだが。
俺の嘘に、ノートンはそうだろう、というように頷いて、
「〈泥竜〉は今回の件を受けて、セキュリティ意識を高めたようです。人員確保や予算の増加を考えると、どういうシワが末端へと寄るか見物です。あなたのちょっとした野心で、どれだけの人が更なる搾取に晒されることになるか……」
俺は黙る。ノートンは皮肉めかした笑みを浮かべている。
そこに店員がコーヒーを持ってきて、ノートンの前に出す。注文にない品物だが、ノートンは軽く頭を下げ、当然のようにそのカップに口をつけた。彼の胸元には、〈柏舟〉の上級社員であることを証する社章が誇らしげについている。
「いつも思うんですが、俺のもサービスになりませんかね」
「これはただの好意ですから」
嫌味でもなく、ノートンは言う。〈柏舟〉は三大企業の中でも、庶民の好感度が最も高い。主に物流や交通を担っており、大衆に身近な存在なのだ。汚職まみれの〈泥竜〉、台頭して日の浅い〈帳影〉と比べると、確かにどうしても親近感を抱く。
差別されているようだがもう慣れたし、店として〈柏舟〉社員をもてなしたい気持ちもわかるし、結局会計は俺の分まで経費で落とされるので文句はなかった。
「で、本題なんですが」
ノートンが左手首につけた、やたら高性能そうなバンドを操作すると、可逆圧縮パックがどこからともなく膨らむようにして現れる。その中から資料を出して、俺の方に開陳した。
「次は極東の農園経営者が相手です。現状、この都市では〈歯抜けの街〉への人口集中が深刻化していて、食糧生産者が大幅に減少しています。食糧供給が間に合わなくなるのは時間の問題、市政は何としても、外国からの大規模な食糧輸入を確立させたい」
「そこへ〈柏舟〉が、最も大きな首を献上したい、と」
「はい。極東へは最近、安定した航路が開拓されたばかりで取引も少ない。そこに掴んだ大きな取引です、我が社としては何としても首を縦に振らせたい」
ノートンの提示した資料には、貿易の具体的な計画が数字と共にはっきりと示されている。まぁ、ふっかけている。〈柏舟〉ほどスマートな顔をして金にがめつい企業はなく、まさに老獪という表現がぴったりだと思う。
そんな実現が何年先のことになるか知れぬ企業秘密を、俺に見せびらかす理由は一つ、こんな不利な取引を相手に押し付けるために有効なアイテムを、俺が提供し得るからである。
俺は内心で嘆息した。心付け、というわけである。テトの作品は、こういうことに使われているのが現状だ。芸術品に心酔した事業主も、不利を被った分を下々の労働者から吸い取れば良い。一応、視界に入る限りでは、誰も損をすることはない。
内心の黒い気持ちを見せないように、俺は飄々とした態度を保つ。
「毎度のことですが、保証はしませんよ。テトは誰の言うことも聞きません」
「と、言いながら、毎回素晴らしいものを下さる。普通の人間なら一生、お目にかかれないようなものを」
テトの創る会心の作品は、誰の目をも、麻薬にでも打たれたような陶酔をもたらす。一部の人間からは見る麻薬と呼ばれるが、これを商売の場で出すのははっきり言って卑怯だと思う。
「まあ、伝えるだけ伝えますが。急ぎなんですか?」
俺は一応、訊く。テトの仕事に締切を設けることは愚の骨頂だが、ノートンは毎回仮初の期日を要求してくる。
「明日できるなら、明日にでも。他社に先を越されてはたまりませんから」
だが、ノートンはただ急かすようなことしか言わなかった。テトのそれは日常茶飯事だが、ノートンからそういうことを聞いたのは初めてだった。
これは心行くまで作ってくれ、というような甘い話ではない。毎日にでも進捗を訊きにいくからな……という示威だった。
すこぶるタイミングが悪いな、と思いながら、俺は契約書にサインをする。
テトは今、〈幻〉のことで頭が一杯だ。俺もそうだが、恐らく俺の数億倍も酷い。濃度が。毎日、眼球がカラカラになるくらいの勢いで、図面を凝視している。そんな心境で、〈柏舟〉向けの作品を創れる余裕があろうはずもない。
まさかあの〈幻〉を、拝金主義の連中に便利グッズとして差し出すわけにはいかない。
しかし――相手は権力を顕現したような手合いだ。こちらの企てを知られれば、どんな行動を起こすかわかったものではない。ここで妙な素振りを見せて不審に思われるよりも、テトの調子を盾にうやむやにし続ける方が良策な気がした。実際、これまでも待たせてばかりだったから、その例からはみ出なければ怪しまれることはないはずだ。
「そういえば、〈帳影〉の立体印刷機が好調ですね。自動で立体を組み立ててくれる。早くも、建材などを造り始めていて〈泥竜〉は仕事を奪われかけています」
俺の筆跡からなるテトの名前が乾くまでの間、ノートンは世間話を始めた。
「そうですね」
「もしかしたら、将来、テトさんの仕事はそれに取って代わられるかも知れないですね。実際に造るよりも、その形状を機械に説明する技術の方が重要になるかも。必ず、時代遅れになる時がくる」
「かつての魔法が、科学に席を譲ったように?」
俺の返しに、ノートンは意外そうに眉を上げる。
「そうですね。覚悟なさってるんですね」
「覚悟もなにも。俺は、テトを時代遅れになりようもない人物なのではないか、と考えてますから」
「……羨ましいことですね」
ノートンが諦念の混じったような、暗い声音でそう言った時、俺の持つ端末が震えた。ディスプレイを見ると、テトのアトリエからだった。失礼、と伝わるかわからないほど早口に断ってから、俺は席を立ち、店の外に出てその通話に出る。
『おい、お前、僕をおいてどこにいるんだ!』
瞬間、テトの怒声が飛び出てくる。
「〈柏舟〉のお偉方と打合せって言っただろ」
『バーダンが来てるんだ! アトリエの周りをうろうろしてる』
「は? あのバカ……」
『バカは肝心な時にいないお前だ。早く帰って来い。僕と他人を会わせるな』
偉そうな口ぶりだが、実際、テトは大ピンチだ。何せ、俺に電話をかけてくるくらいである。テトほど電話を毛嫌いする人間はいない。最近はやむを得ずにかけることが多くて、寿命も大分縮んでいるだろう。
俺は店内に戻って、折り目正しく待っていたノートンに、テトからの急な呼び出しがあったことを詫びた。
「構いませんよ。――それでは、件のもの、お待ちしてます」
念を押すように、そう言ったノートンの眼差しは凄みを帯びていた。俺に言われてもな、と内心困りながら「はい」と明るい返事をしておく。食糧難すら、ビジネスのチャンス。強かな連中だ。