二 〈幻〉の兆し(ⅱ)
「お前が警察に世話されてる間に、三百人くらい客が来た。仕事は無限にある、もう休む暇はないぞ。大体お前はサボり過ぎなんだ、この前だって二日も休んだだろ」
「休んだって、そりゃもう三か月前の話だし、俺はその更に三か月も前から休みをくれって頼んでただろ」
〈柏舟〉の内部では、就業時間への配慮が声高に叫ばれているらしいが、それに比べるとテトのアトリエの驚異的な黒さというものだ。テトには休日という概念なく、俺もそれに合わせなければならないから、こういうことになる。
バイクを停めると、テトは一刻も時間が惜しいとばかりに飛び降りて、廃れた家屋に入っていく。廃墟のようだが、きちんと買い上げた家だ。〈泥竜〉が他社との競合の折、〈歯抜けの街〉を拡張するにあたって地上げした村落にあったのを、そのまま流用したらしい。この辺りには、そういう家がいくつもあって、誰も住んでいないものは勝手に使っている。人口は中央区画である〈歯抜けの街〉に吸い込まれ、辺鄙な地域は過疎と滅亡に沈んでいた。
アトリエのドアの脇に、いくつもの伝言メモがピン留めされていた。テトは絶対に来客に応じないから、慣れた客人はこうして俺宛のメモを残していく。三百人来たというのは絶対に適当だろうが、それでも結構な来客があったらしい。幸い〈柏舟〉名義のものはなく、胸をなでおろしつつアトリエに入る。
そして、予想通りな部屋の様子に頭を押さえた。
大して広くないアトリエには、大小を問わず、無数の作品がずらりと並んでいた。地面からにょきにょきと無造作に生えてきたかのようで、その一つ一つがいちいちエッジが尖っていて素晴らしい。普通の感性の人間なら、一生かけて一作彫れるかどうかのものが、衝動買いした雑貨のように無造作に置かれている。
「発情期のネズミでも、こんなに産まないぞ」
「うるさいな。これは全部死骸だ。早急にどうにかしろ。これからかかる大仕事の邪魔になってる」
とりあえず、俺は家主不在の隣の廃屋に、有り余る傑作たちを移動していく。じっくり見れば見るほど、犀利な彫り込み、流麗な曲面に鳥肌が立つ。
三往復ほどしてアトリエに戻ると、テトは橙色の封筒から分厚い紙を取り出していた。例の「幻の作品」の図面だ。このご時世に時代遅れな羊皮紙というのは、何百年も先、記されたものを実現してくれる誰かを待ってのこと。その一念を思うと、涙が出そうになる。
俺の入室に気づいたテトは、演劇の独白のように口を開いた。
「愛すべき、キネルト。マージュ粒子に形を与えようとした変態……本当にやろうとしていたとはな。五十年前ですらこの出来栄え、死んで然るべきだ」
「それが原因で死んだわけじゃないだろ」
「ほぼ原因と言って差し支えないだろう。彫るために生まれてきたのなら、死因だって彫るためだ。生きる理由を死ぬ理由にするくらいじゃなければ、大きい仕事はできない」
テトは確信的に呟きながら、ナイフで図面を壁に固定して、俯瞰し始めた。俺もその脇に立って、野心そのもののような内容に感嘆する。
「彫刻というより工業製品だな」
「は? そこに違いはないぞ。大量生産の時代になって忘れがちだが、デザインされ、作られたものは例外なく全てが芸術品だ。そう考えなければ、この作品は創造不可能になる」
無論、俺もそんなことはわかっている。
マージュ粒子は「魔法」の源であり、現代のこの都市を支える燃料そのものである。それを使って実用からは程遠い芸術品を創るなど、倒錯も甚だしい、というのが今、流通している一般的な感性なのではないかと思う。この感性を批判するために、キネルトは構想し、挫折し、破棄したのではないか、という見方が主流だ。
テトは設計図を指で丹念になぞっていく。滑らかな曲線がそこには引かれていた。
「頭がおかしい。マージュ粒子でこんな稜線を形作ろうなんて、発想がそもそも出てこない」
〈柏舟〉の社長すら顧客に抱えるテトが、そう唸るのも無理はない。
マージュ粒子は極限まで砕いていくと辺の長さの等しい正三角錐になるが、それ以下は変形しようがなくなる。この形状がネックとなって、曲線を作ることが困難なのだ。ここで要求されるのは、一b単位で調整し、曲面に最も近い形状に仕立てる技術。機械が機械を作る工業製品ならいざ知らず、形を表現しようとして彫るには、そのスケールの小ささは人間の手に余る。
「マージュ粒子は存在のはっきりとした、美しい物体だ。この稜線ができたら、他の物体の曲線など見てられないくらい、美しいに違いない」
しかし、テトはその実現を疑っていない。夢見る少女のようにそう呟く。夢ばかり見てはいられないから、現実とのすり合わせをしてもらうべく、俺は口を開いた。
「……素材を調達するのも、俺の仕事か」
「当然だ。四〇|kb〈キロビット〉のマージュ塊。可及的速やかに用意しろ」
「え? 四〇……そんなにいらないだろ」
俺が愕然として言うと、テトはこちらを切り裂かんばかりの鋭い視線を向けてきた。
「天然の四〇だ。後で人工的に再構築したものは認めない」
のっけからそんな非現実に直面するとは思わなかった。あまりにも恐ろしいその台詞に、俺は驚いた勢いのまま声を張り上げる。
「天然だと! 天然で採掘されたものは全て一kbにカットされて流通に乗るんだぞ。この世にそんなバカでかい天然ものは存在しない。別に、人工でも構わないはずだろ」
「うるさいな。必ずどこかには存在する。真理と同じだ」
「俺に採掘夫になれと」
「知るかよ。とにかく用意するんだ。一秒後にな」
テトは面倒臭そうに俺の反駁を切り捨てる。
無茶苦茶すぎる。四〇kbともなると、立った俺の肩ほどの高さになるし、運搬にも一苦労するほどの重量になるだろう。別に後で1bずつ吹き付けることで任意の大きさに加工可能だが、天然と釘を刺されてしまっている。つまり、つぎはぎのない、綺麗な素材というわけだ。金で換算した額など、考えたくもない。テトが興に乗れば、後はどうにでもなると考えていた自分が恨めしい。
「どうした、もうとっくに一分経ったぞ……いつまで僕を待たせるつもりだ」
テトは俺を煽る。意地悪を言っているのではなく、素で言っている。本当に一分後に、俺が自分の身体よりもでかい鉱物を持ってくることを期待していた。こいつは本当に馬鹿だ。
「……いくらでも待たせることができる。それぐらいの無茶を君は言ってるんだぞ」
「そういう陳腐な口上すら邪魔だ。僕は単純にこれが必要なんだと言っている。わかれよ。時間が経って僕の寿命が縮むごとに、人類への『偉大な贈り物』をするチャンスがそれだけ減るんだ。無駄な時間を取らせるな」
それを言われると――俺にはどうしようもない。
別に、テトは余命を宣告されているわけでも、死ぬ日付を決めているわけでもない。ただ、明日死ぬかも知れないという可能性をそう表現しているだけである。
それまでに『偉大な贈り物』をすること。その欲求がテトを駆動する。その贈り物とやらが、このマージュ彫刻なのかも知れず、そうでないかもしれない。それが何なのかもわからない。名前があるだけで、あるやらないやら知れないものに向って、果てしのない道程を往く、それが、テトの世界観だった。
そして、俺は――テトからの贈り物を受け取りたい。ただ、それだけが生きがいだ。
俺は宜うしかなかった。毒づきながら。
「クソっ。性急さは怠惰と一緒なんだぞ。とにかく、君は待って、小品を作れ。この制作はとにかく、金と時間がかかる」
「小遣い稼ぎのためには、僕は彫らないぞ」
「じゃあ、いつか来る時のための練習だと思ってくれ。俺が必要とする奴に流す」
本当にこのガキは、芸術のことしか頭にない。芸術万能だと素で思い込んでいるし、そのために必要な他の万物が都合よく用意されていると信じている。だから、俺はテトの背負うべき分の「社会」まで抱き込んで、このアトリエの外を奔走しなくてはならない。
俺は外に出て通信端末を取り出すと、伝言メモの主たちに片っ端から電話をかける。
大衆受けはあっても、万人受けというものは存在せず、何でもかんでもが誰にでも売れるわけではない。歯抜け街区中央にある画廊へは、頭の中からイメージだけ抽出したような抽象的な銅像を、郊外に近い方の美術館にはやたらキレのある美人木彫り像を――といった具合で、客先に合わせて卸していく。もちろん、実物を見てもらわなければ売約にはならないから、五分に一つのペースでアポを取っていく。
不在の詫びをいちいち入れつつ、一時間ほどでメモを捌き切って、さっき多量の傑作を運び込んだ廃墟に戻り、売却の目処の経ったものとそうでないものを分けて印をつけてから、最後にあまりかけたくない相手へ電話をかける。
「もしもし? コース兄貴じゃーん」
通話口から、脳みそを介していないだろうアホ丸出しなガキの声が聞こえてきた。
その高周波に俺の気分は瞬時にささくれ立つ。
「いいか、聞けよ、バカ」
「なんだバカって、ウケるな、バーダンだっつの」
「間違えたわけじゃない。時間がもったいないんだ、聞け、今、作品のストックがいくらかあるから、後で取りに来い。俺がいなかったら、隣の廃墟で待ってろ」
「りょ! テトは?」
「不機嫌だ。絶対近寄んなよ」
俺は返事を聞かずに電話を切る。バーダンというガキは俗物中の俗物で、テトを金のなる木だと思いなしている手合いだ。俺としてはは、一秒後にでも取引を打ち切りたい相手なのだが、テトの最古参の取引相手というので特別に情をかけ、テトが失敗作と言って破壊したようなゴミを引き取ってもらっている。天泣のテトの作品という証付けをしておけば、見栄っ張りな中流階級が買うんだそうだ。ふざけている。
俺は深呼吸して急上昇した怒りを沈めてから、今度は別口に電話をかけた。十六回目の呼び出し音がなってから、ようやく艶のある女の声がする。
「もしもし?」
「俺だ。いつものことだが、もっと早く出ろよ」
「あら、〈土塊〉の件であれだけサポートしてあげたのに、文句言うの? あなたが逮捕されたことをテトさんに伝えたのも私なのよ?」
電話口のエマンは優位に立ったものの口ぶりで言う。彼女はもともと軍事に関わるブツに強い取次なのだが、彫刻だとか稀覯本などといった抽象的な品の仲介もしている。テト作品を売っていく上で、外せないパイプの一つだ。
〈土塊〉襲撃の日に使い捨てた高級な品々は、ほとんどエマンに頼んで流してもらったものである。用途を聞かれたので、決別覚悟で目的で話したところ、驚くほど快く用意してくれた。俺が最も信頼している商売人だ。
「今回の件については感謝している。礼も弾む……だけど、今は次の話させてくれ。今までにないとんでもない仕事ができやがった。君にしか頼れないんだ。冗談抜きで」
「……ふぅん。何?」
エマンはその一瞬で、声音の低い商談モードになる。切り替えが早くて助かる。
「でかい天然のマージュ塊が至急、必要になったんだが」
「大きい天然の? 五〇〇bまでなら、すぐ流してもらえるアテはあるけど」
「四〇kbなんだが」
「四〇b?」
「キロビットだ」
言い直すと、エマンは押し黙る。それから、戸口からそっと顔を覗かせるように、
「……ちょっとノイズが酷くて、キロビットって聞こえたけど」
「言ったんだよ。四〇kbのマージュ塊にテトは恋焦がれてる」
「はぁ?」
せっかくこしらえたお出かけ用の態度が、その出番も少なく吹っ飛んでしまった。
「まさかマージュ塊彫るつもり? それってまるで都市伝説の――」
「キネルトの〈幻〉だよ」
深い嘆息が耳元で鳴った。
「ホラ話だと思ってたわ。それを盗るために〈土塊〉に入ったわけ?」
「そんなところだ」
「金稼ぎのためって言ってたけど、嘘吐いたわけ?」
エマンは何故か詰問するように訊ねる。金と聞いて、あの泡沫の間の仲間たちへの報酬を用意しなければならないことを思い出し、気持ちが暗くなった。
「……まぁ、目的の半分ってところだ。嘘ではない」
「もう半分はテトさんのためってわけ?」
不機嫌になり始めて、俺は焦る。エマンがノーと言ったら、俺はツテも何もなく街を駆け回るハメになるだろう。下手すれば、非合法な組織と手を結ばなくてはならなくなるかも知れない。例えば、貧しい集落の子どもを攫って、北の氷床の炭鉱夫として売り飛ばすような奴らと――。
「テトは関係ない……ことはないが、俺のためだ。作品を見て、満足したい一心でやった」
「……でしょうね。あなたはそういう人よ」
見透かすようにエマンが言ったので、俺は苦笑する。
「そういう人、ね」
「自分を満足させるためだけに、生きてる感じ……じゃなくて、何て言うのかしらね」
「いや、逆だ。自分を満足させるのは、生きるための手段だ。少なくとも、俺はテトの幻を見るまで死ぬことはできない」
「あぁ、それ、そういうことを言う感じ」
エマンはくすくすと笑う。それから気を取り直したように、
「それにしたって、四〇kbは欲張りすぎよ。値段だけでも、この都市の一級地に家が買えるわ。存在しないことはないだろうけど……この街で見つけようとしたら無理」
俺とテトを折衷したようなことを言うが、それが最も現実的な意見だった。
「別に四〇きっかり必要というわけじゃない。三〇くらいでも有り余るくらいだろう」
「じゃあ、あなたの芸術家さんにそう提案したら?」
「言って気が変わるなら、いくらでも言ってる。それより、誤魔化した方が早い。この世に一kbのマージュ塊を見たことがある奴だってそういないのに、いわんや四〇だ。ほら用意したぞ、って差し出せば、二〇でも三〇でもわからんさ」
不誠実のようだが、これが現実的な妥協点だった。というか、これで通ってくれないと困る。三〇でも十分なところを、四〇と要求するのは意味が分からない。テトの方がよっぽど不誠実だ。
エマンは勘定をしているのか、少し沈黙した後、確かめるように言った。
「……それでも高くとるわよ」
「構わない。テトの財布を管理してるのは俺だ」
「わかった。ほとんど期待できないと思うけど、あなたには恩もある、あたれるだけあたってみるわ。三日ちょうだい」
「あぁ。何かあったら連絡してくれ」
俺はひとまず安心しながら、通話を切る。一秒ごとに、俺に対するテトの評価は下がっていくようだが、三日というのは真面目に取り合ってもらっているのか疑うほどの短期間だ。エマンでなければ、こちらから断っている。俺は最善最速の手を打ったのだ。
そう思いなしながら、俺は廃墟に入る。例の、ストレージ襲撃仲間たちに教えた住所。エマンとの会話で思い出してから、ずっとここを目指して歩いていたのだった。
郵便受けを覗くと、雑多に無数の書類が詰め込まれていた。この中から、ピンポイントで例の図面を見つけ、取っていくとは、テトの「作品」を判別する超人的な嗅覚には舌を巻く。本来は俺がこの束を持ち帰るタイミングで、テトに発見させるはずだったのに。
送り主の名前を控えると、俺はその書類の束を全て焼き払った。
外国に売れば確かに金にはなるし、まあ、歴史も変わるだろうが、そんな単調な革命には用はない。俺はただ見てみたかった。奴の夢を。