それが人生さ、なんて言わせない。
舞台の緞帳は上がり、決まりきった役を演じるだけの悪夢のような一日が始まろうとしていた。
僕のここでの役目は、殺し屋組織のトップである。我ながら似合わないことこの上ない。
鏡を見る。全身が映る縦長の鏡だ。スーツ姿の痩せた男が映っている。眼鏡の奥の瞳は濁り、目の下の隈は色濃い。
僕はすぐに目を逸らし、事務机の方に戻る。どこぞの社長のような、座り心地が無駄に良い椅子。崩れるようにもたれ掛かった時、ドアが乱暴にノックされた。
「ヤマダさァん、入りますよォ」
「ああ」
僕が返事をするより早く、ドアは開かれた。
「ちょっと耳に入れときたいことがあって。ヤマダさんのこと、探してる奴がいるらしいよ」
言いながら僕の事務机に近づいてきたのは、10代後半の少年・ヨウである。聡明そうな目が如何にも優等生風だが、学校にも行かず、こんな組織の幹部メンバーを張っている。
「おれを?」
一人称はおれ、二人称はお前。しっくりこないまま口にすること数年間。脳内での思考においては、一人称は中学生の頃と変わらず「僕」のままである。
「うん」
何とも情報量の少ない報告である。
「……話はそれだけか」
「今のところ、詳しい情報は掴めてないんすけど、大阪の方から来たって言ってたって話です」
「大阪、か」
僕が呟くと、ヨウは探るような目つきで尋ねてくる。
「ヤマダさん、大阪に住んでたことなんかなかったっすよね? 普通に標準語だし」
「ああ。大阪に個人的な縁はないが……φの大阪の連中がごたついていたからかもな」
堂々と嘘を吐く僕を疑うこともなく、ヨウは吐き捨てた。
「そんなん、何年も前からっしょ。そうだ、大阪って言ったら、イブキさん泳がしといて大丈夫なんすか?」
「大丈夫だろ」
「何を根拠に言ってるんですか」
訝しげに眉を寄せるヨウに、僕は告げた。
「あいつは自分で勝手に青写真を描いたりしない。正真正銘の“空っぽ”だからだ」
「頭が空っぽってことすか? 相変わらずきーびしいなあ、ヤマダさんは」
ってゆーか、そんなバカを野放しって、ヤバいっしょ、と明るい声で言う。
「脳みそはちゃんと詰まってるだろ。お前、話したことなかったか?」
「ないっすね。噂にはよく聴いてるけど」
「そうか……」
イブキ・ミヤ。当時――四年前になるが――φで一、二を争うほど「仕事」をこなしていた少女は、重傷を負って病院に運ばれ、治療の目途がつき次第警察の聴取を受けることになっていた。しかし彼女は逃亡し、今も警察には見つかっていない。
イブキ・ミヤは逃亡後すぐに組織のサイトに現れ、「仕事」を回すように要求した。通常、大阪の連中には近畿圏の「仕事」が宛がわれるのだが、彼女が大阪を離れたのか否か、どこに潜伏しているかはφのスパイ達にも掴めず、また彼女も語らなかった。そのため全国各地の仕事がイブキに回ったが、彼女は難なくこなし続け、今に至っている。
「でも結構みんなそうでしょ? 青写真描く方じゃなくて、手を下す方が楽しいってんでしょ?」
信じらんないよ、とヨウはのたまった。僕は肩を竦める。
「俺は違う。だからこんな位置におさまってる」
「羨ましい限りですよ、ほんと」
「不用意なことを口にするなよ。反乱分子扱いされるぞ」
「はいはい」
不意に、スマホがポーンと音を立てる。
普通の人間はSNSの着信にこういった音を使うのだろうが、僕が設定しているのは組織のサイトへの書き込みだけだ。スマホの画面を見るなり眉を顰めた僕に、ヨウは勢いこんで声をかける。
「何すか」
「……さっきお前が言っていた、おれを探してる奴かもしれんな」
僕は受信したメールフォームへの問い合わせを読み上げる。
「ヤマダに用がある。本日、2015年9月16日、20時に一人で赤レンガ庁舎の前に来い。お前には殺されそうになったからな。俺を忘れたとは言わせない」
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ヤマダさんに殺されそうにって、どういうことっすか? ヤマダさんが殺しそこなったってこと? いや、そんなわけないっしょ、伝説の殺し屋なのに」
ヨウが驚いていたので、直接手を下すのに失敗したことはない、だから殺し屋時代に関わった相手じゃないんだろう、と誤魔化した。
実は、僕には殺し屋時代なんてないが、φの設立当初から、僕には伝説の元殺し屋だとかいう噂が付いて回っている。殺し屋組織のトップ以上に馴染まない肩書きである。
本当の僕は、殺人未遂を一件やらかした、ただの中学生だった。
ヨウは他のメンバーに知らせると息巻いて出て行った。
「山崎君……だよな」
僕は独りごちる。
山崎君は、当時の僕にとって、ある種の憧れを抱かせる存在だった。彼はとても自由に見えた。
そんな彼がやくざの下っ端としてこき使われているところを目撃してしまった。僕は耐え切れずに、彼を刺した。殺そうとした。
殺意は明確にあった。その時の僕が熱に浮かされていたんだと、後で信じ込もうとしたが、できなかった。
「自分の理想と程遠い彼に失望して、命を奪おうとした、身勝手すぎる僕」は確かにいたのだ。
殺人未遂容疑で逮捕された僕は自分の行いを反省しようとした。彼の命を絶とうとしたことを。彼を解放しようとしたことを。
彼のためという大義名分を作り出し、その実、身勝手だった僕。しかしそれだけ、僕の中で彼の存在は大きかったのだ。そうだとしても、何を言っても、赦される行為にはなりえないが。
山崎君とはそれっきり会うこともなく、前科者として戻って来た僕は家族と別れて住むことにした。犯罪者の家族がどんな扱いを受けるか想像に難くなかった。
僕は、そう、一度空っぽになりたかったんだ。
自分以外のもの――大切な家族や、憧れた級友――そんなものを自分の中から消し去って生きたかった。
空集合の中で、僕だけは、ずっと空っぽになれないでいるのかもしれない。
僕は、懐かしい山崎君に、会いたいと思った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
部屋を出て、φの殺し屋共に見つかる前に、と素早く外へ出た。あいつらに気づかれれば、間違いなく止められるだろう。まあ、僕がいないことに気づいたら、すぐに赤レンガ庁舎前を目指すことは明白なのだが。
赤レンガ庁舎は、ここから歩いていける距離にはなかった。φの本部事務所は、札幌の中心部からは幾分離れたところにある。赤レンガ庁舎へは、札幌駅まで電車で出るしかない。
電車内で、受信した問い合わせをもう一度確認し、消去した。
メールフォームは巧妙に隠されているはずなのだが、山崎君はどうやって見つけたのだろう。φのメンバーが山崎君の名を騙っている可能性は勿論大いにあったが、それでも僕は指定場所に向かう足を止められない。馬鹿だと思われるだろうけど、彼が僕を動かすのだ。
札幌駅からは徒歩五分だ。腕時計を見ると、指定された時間より三十分は早く到着してしまう計算になる。
日の落ちた後の赤レンガ庁舎前は人気もなく、木の陰など、隠れられそうな箇所はいくつもあった。
が、その男は隠れもせず突っ立って、煙草を吸っていた。
「山崎君……か?」
「ああ」
僕が声をかけると、低い声で男は応えた。
中学以来の再会だ。正確には高校に上がってから一度会ってはいるが、あの時は話していない。
暗がりで、帽子を目深に被った彼が本当にあの「山崎君」か確信が持てなかったが、声を聴いて本物だと判った。
「久しぶり」
僕はゆっくりと、彼に近づいた。お互いに、命を奪える距離まで来たところで、彼は
「俺は山崎隼人や」
と告げた。
「え」
思わず顔を上げる。隼人、だと? でも、この声は。
「朝戸ゆりか。俺には、あいつが死んだ理由がわからん。俺は、空っぽちゃうからな」
アサド。大阪で死んだ殺し屋だ。イブキとは親しかったらしいと聞いている。
「お前がφを創らなければ、生きてたかもしれん」
山崎隼人なる男は言い募った。
「それは、わからないだろう」
彼らは皆、空っぽだ。道に迷い、φに辿り着いた者達だ。
φに出会っていなければ、もっと早くに人生を辞めていただろう、と言った者もいた。反対に、φに出会い、殺しに手を染めたことで自分を責め、人生を辞めた者もいた。
アサドはそのどちらでもなかった、はずだ。
「朝戸が宮脇康太を殺したことで、俺は殺しに手を染めんですんだ」
山崎隼人はそう言った。
「自分でも信じられへんけど、俺はその人生を一回経験してる」
「何を言ってる」
不可解な言動に僕は動揺した。
人殺しになる人生を経験している、だと?
「朝戸は暴発するように細工された拳銃を手に取って死んだ。後からやって来たマスクの男は生きて、俺に殺しを押し付けた。俺は朝戸の代わりに仕事をしたんや。それが一回目のシナリオやった」
「馬鹿な」
「二回目は」
と山崎隼人は声のボリュームを一段上げた。
「拳銃が暴発した後、朝戸はやって来た宮脇を撃った。二人は死んだ」
山崎隼人が黒光りするものを取り出し、こちらに向けた。
「朝戸のおかげで殺し屋にならんですんだけど、俺はお前を許されへん」
「おれを、殺すのか」
声が掠れた。
「だったら、山崎君――山崎、悠人君に伝えてほしい」
僕は君のせいで、空っぽになれなかったよと。
山崎隼人の目が見開かれる。
「隼人」
暗闇から、山崎隼人にそっくりな声がかかる。心臓がびくりと跳ねる。
「兄貴……まだ20時にはなってへんで」
「おう、そうやな」
兄貴、と呼ばれた彼が、僕の横に並んだ。向けられた銃口から目を離せないため、彼の表情はわからない。でも、彼の声音はどことなく明るい響きを持っている。
ああ、そうだった。彼の声は昔からそうだった。悲しむ時も、楽しげな時も。
「銃を下ろせ」
「何で兄貴がそいつを庇うねん!」
「俺を刺したのはやくざやって言うたやろ……」
彼が声を低める。
「嘘吐きなや、こいつに殺されかけたってメールで言うてたやないか」
弟は苛立ちを露わにした。
彼は何も言わない。弟は僕を睨んでいる。
「あのメールを読んで初めて知ったんちゃう、俺はずっと……朝戸がおらんようになってからずっと、調べてた――」
「山田、伏せろ!」
僕がその声に反応して伏せる前に、銃弾が僕の肩口にめり込んでいた。
「ヤマダって、本名だったんすか? っていうか、いたんじゃないすか、大阪のお友達」
拳銃を弄びながら、少年が近づいてくる。
「ヨウ……」
忠告はしたはずだが、随分強硬な手段に出たものだ。この分だと他のメンバーには情報は伝わっていないのかもしれない。
ヨウが口を開きかけた瞬間、パンと銃声が再び響いた。ヨウがゆっくりと前のめりに倒れる。彼が立っていた場所の背後から女が現れた。
「あれ、ヤマさんやん。何で北海道おるん?」
「伊吹さん、久しぶり。元気だった?」
傷口から血が噴き出して止まらない。手のひらで押さえてはいるが、全く効果がないらしい。だんだん意識が薄れてくるほどだ。
「そんなことより、ヤマダを助けたってぇや」
「わかってる。大丈夫だよ、ああ、知らないだろうけど、僕、医者になったんだよね」
彼の声が聴こえる。とても、近くで。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
――俺を忘れたとは言わせない。
パソコン画面に日時指定の送信メールが残されていた。
誰もいなくなった部屋で、グラスがカラン、と小さく鳴いた。