②アレの存在理由
「亜夜ちん、あたしは生きるのに疲れたよ」
パタン、と漫画雑誌が少女の手から離れ倒れた。
読者の名前は冬川亜夜。
そのきつく黒い性格のため話しかけた生徒は男女問わず返り討ちに会うのが通例だ。
クールビューティーという記号がぴったりな冬川だが、今はその影も形もないほど動揺していた。
そう。人とは自分の想像を越える状況に出会すと頭が空っぽになる生き物なのだ
「な、何を言ってるんですか夏樹さん。あなたは夏樹詩歌さんですよね? あの暴虐武人、唯我独尊、奇妙奇天烈が代名詞の夏樹詩歌さんじゃないんですか⁉」
「普段亜夜ちんがあたしをどう思ってるかよく分かったよ」
じと目でぼやく夏樹に冬川はせき払いをした。
「ほ、ほう。私の動揺を誘い本性を聞き出すとはやりますね夏樹さんの癖に」
「まぁ生きるのに疲れたのは本当で、それは思いもよらない副産物なんだけどね」
いつもならツッコみの一つや二つ入るところだが、出るのはため息ばかり。
さすがに心配になる冬川。
「……本当に不気味ですね。どうせ話したくて来たんでしょう? 何があったんで
「……そう、あれは一日中雨が降っていた日だったよ」
「まさか昨日ですか?」
「そうともいう」
めんどくさいなこの人、という言葉を飲み込んで、苦労少女冬川は耳を傾けることにした。
☆
せっかくの日曜日なのにその日は雨が降っていた。
鬱々として町内一周でもしたいところだが、さすがに雨の中走るほどの気力はない。いや、普段なら走ったかもしれないが、この雨があたしのやる気を洗い流したのかもしれない。
「あー、だるいー、鬱いー」
ごろごろと自室のベッド上で転がってみるものの、謎の倦怠感は拭えない。この全身を纏うぬかるみをどうしてくれようか。
「そうだ。お風呂に入ろう」
時間はお昼を過ぎた頃だったが思い立ったが吉日と、あたしはお風呂場へと直行する。
「ふふーん、ふっふふーん」
特に意味のない鼻歌を鳴らしながら廊下を進み目的地へ。
家族は居間で昼ドラを観ていたので、当然お風呂場には誰もいない。
「ほいほーい」
ぱぱっと服を脱ぎ捨て浴室へと侵入する。
我が家の浴室は三畳ほどで、一人で入るには十分な広さだ。
「まずはシャワーですねー、シャワー」
独り言が多いと思われるかもしれないけど、これが普通のJKです。(当社比)
まとわり付くなんだかよく分からないものを落とすため、熱いお湯を開放する。
「ふいー」
丁度いいお湯が頭の先から顔を伝い流れて行く。ついおっさんぽい声も出てしまうというものですよ。
お湯って不思議だ。ただ浴びてるだけなのになんでこんなに心地いいんだろう。命の洗濯とはよく言ったものだよ。
そう。
この時のあたしは無防備だった。
だって、ここはそういう場所だから。
安心していい場所だと信じていたから。
「っ⁉」
根拠はなかった。直感としかいえない力によって、あたしは奴の気配を察した。
「……」
どこだ。どこにいる。湯気でぼやける視界の中で、あたしは辺りを見渡した。
奴は小さい。しかし圧倒的な存在感は隠しようがない。いるのは分かっている。あとは居場所だけだ。それさえ分かれば。
「っ! 上か!」
髪に纏うお湯をまき散らしながら顔を上げる。
しかし、そこには白い天井しかない。
疑問が浮かぶ前に、答えは足元から来た。
「あ」
見たくなかった。
認識したくなかった。
でも駄目だった。
だってソレは確かにそこにいるから。
黒いソレがあたしの足の甲に這って登っててててててててててててててええええええええええええええ!
「あばるぶすこふぁんやなたなのゃわひなたてねやわたなほよやひよむえこよたねほやはさはり!?!?!?!?」
それから先はあまり覚えていない。
気づくとあたしは全裸で脱衣所の床に突っ伏していた。
家族が来て凄く哀れな生き物を見る目で介抱してくれたことを、あたしは一生忘れない。
こうして心に大きな傷を負ったあたしは生きる意味を見失ったのだった。
☆
「なんだ、そんなことですか」
すごくどうでもよさそうに、読書少女は漫画を開いた。
「ちょ、ちょっとちょっと亜夜ちん! さっきの興味はどこへいったのさ!」
「木星辺り?」
「雑っ! 例えが雑だよ! え? そんなにどうでもいいことかな今の話? あたし本気で落ち込んでるんだけど!」
そうは見えなくなったどころかいつも通りな振る舞い。人知れず安心した冬川である。
「はぁ、ようはゴキ」
「その名を呼んではならぬ!」
どこぞの長老のような警告を発し、迷惑少女が睨んでくる。
なんなんだもー、という感情をも飲み込んで、毛先を指に絡ませながら冬川は提案する。
「えぇ……、では、おじーちゃん、でどうでしょう?」
「っ!」
突然、夏樹の動きが止まった。時が止まったというよりはどこか別の世界へ魂が飛んだようだった。
冬川はその反応を見逃さなかったが先を促しはしなかった。
実際フリーズの時間は僅かで、瞬きの後には元の馬鹿がいて、
「許容します」
謎の上から目線でふんぞり返っていた。
思い当たる節はあるものの、冬川は口を出さず、くだらない会話を優先する。
「で、そのおじーちゃんが足の上にいて驚いたってことでしょう? ……自分で提案してなんですが、この呼び名は誤解を生みそうですね」
「ま、まぁあたし達以外人いないし、いいんじゃないかな」
誰に言い訳してるのか、当事者達もさっぱりだった。
「それより亜夜ちんは平気なのおじーちゃん! あ、あんな黒くてカサカサしてて人類に宿る嫌悪感を極限に刺激する存在が身体に触れたんだよ? あたしじゃなければショック死してたよ!」
「私だったら気絶もしてないでしょうね」
ようやくいつもの調子が出てきた冬川は、意識の九割を手元の漫画に注ぎつつ会話を続ける。
「ふ、ふーん。そこまで言うなら何か根拠があるんだろうね? おじーちゃんに襲われても平気だっていう根拠がさ!」
強がりが一周回ってアレの対策を聞きたがっているのが見え見えだった。
「……あまり胸を張って言えることではないのですが、慣れているんですよ」
「は?」
慣れる? アレに? リアリー?
顔面言語でそう尋ねる夏樹へ、冬川は居心地が悪そうに答える。
「私の家はなんというか、古い家でして、まぁその、月一の間隔で出るんですよ、おじーちゃん」
「ば、バカな、そんな環境で人が生きていけるの……?」
「失礼ですね。第一おじーちゃんは汚い所に限って生息してるわけではありません。基本は山中などです。私の家の裏には山があるので、そこから来てしまっているんでしょう」
黒いアレがゾロゾロと移動する様を想像してしまい魂がフライアウェイしそうになったが、親友(笑)の冬川亜夜ちゃんがショック療法で引き戻してくれた。
「な、成る程。でもさ、いくら月一エンカウントしたとしても慣れるの? あれに」
「確かに最初は恐怖感もありましたが、今ではただの廃除対象としか見ていません」
「そこまでおじーちゃんに対して冷静なれるなんて何か理由があるんじゃない? 教えて亜夜ちん!」
「理由というか、マニュアルがあるのでそれに従って廃除してますね。作るまでが大変でしたが」
「それだ! そのマニュアルとやらを頂けませんか!」
土下座も辞さない構えの夏樹に、女神のような笑顔で、
「ダメです」
「手厳しい!」
だがここで引き下がるわけにはいかない。
後がない少女は必死なのだ。
「い、いくら? 金なら、いくらでもは出せないから、何でもするから!」
「ほう。何でもですか」
完全に目がいっちゃってる夏樹に冬川は冗談めいた口調で提案する。
「ではこうしましょう。私を心の底から笑わせて下さい。そしたらお教えしますよ、おじーちゃん駆除マニュアル」
「一番、夏樹詩歌! 変顔をします!」
宣言と共に、夏樹は迷いなく白目になり、両手の親指を鼻の穴に突っ込む。
両親が見たら号泣するであろう顔面を披露しつつ、息を荒げる女子高生がいた。
「さっそく女の尊厳を捨ててきましたね。びっくりです」
「びっくりはしなくていいから笑ってよ」
「その顔のまま喋らないで下さい。恐いです」
あまりに必死で真顔(?)なのも恐怖のポイントだ。
「くっ、こうなったらコチョコチョじゃー!」
「諦めるの早くないですか⁉ って止めなさい!」
強行手段に出たものの、鋭いチョップで返り討ちに会い、机にキスをするはめになった。
「う、ううう、うううううううううううううううううう!!」
「え、え? そんなに痛かったですか……?」
予想外の号泣にやり過ぎたかと焦る冬川嬢だったが、
「マニュアルが、マニュアルが」
「悔し泣きですか紛らわしい!」
杞憂どころかノーダメージだった。
疲労度二割増しな冬川さんは大きくため息を吐く。
「いいですよ。その頑張りとマジ泣きに免じて教えてあげます」
「ありがとう! ありがとうございます亜夜様!」
調子のいい学友に対し、冬川女史は最早探究心すら沸いてきていた。
「では、我が家に伝わっていくであろう、対おじーちゃんマニュアルを伝授しましょう。心して聞いて下さい」
「ごくり」
放課後の教室で、二人の女子高生が見つめ合う。
そこだけ切り取るとなんともあれな状況だが、事実はアレの話である。
意味深に間をとったあと、冬川亜夜は口を開いた。
「おじーちゃんを発見したら、洗剤をかけて下さい」
そして、静寂。
珍しく真面目な顔で待機し続ける夏樹だったが、十秒ともたなかった。
「……それで?」
「それだけです」
唖然。
「それだけだと言ったんです」
「……亜夜ちんはあたしをバカにしてるの?」
期待を裏切られた短気少女。
対するのんびり少女はいつも通りだ。
「バカにしてないことの方が珍しいと思いますが、洗剤効果は本当ですよ?」
「聞き捨てならない発言があったけど今は置いておくよ」
明日絶対くすぐってやると心に誓う夏樹ちゃんだった。
「理由を聞かせてよ。なんで洗剤なの?」
問われたからには答えましょうと、冬川は解説モードに入る。
「まず第一に、おじーちゃんは素早いです。そのため新聞紙などで物理的に潰そうとしても気配を察知されて逃げられてしまいます」
「ふむふむ」
「そこで洗剤です。お風呂場用洗剤のような、泡をスプレー状に放つタイプであればおじーちゃんの動きを瞬時に止めることができます」
「おお!」
深夜の海外通販番組のようなリアクションである。
「さらにその泡はおじーちゃんの気門、いわゆる空気を取り込む穴を塞ぐため、窒息死させることができます。つまり、物理的に潰す必要がないため散らばりません」
「な、なんと!」
「以上が理由です。もっと詳しく知りたかったらググって下さい。責任は取りませんが」
「先生と呼ばせて下さい」
羨望のまなざしを向ける夏樹だったが冬川には逆効果のようで、
「気持ち悪いです。普通におかしくなって下さい」
「普通におかしいって矛盾してないかな⁉」
「いつもおかしいのだから矛盾してないですよ」
「うきー!」
落ちがいつも通りだが、だからこそ本格的にいつも通りに戻り一息。
ぐでっと頬杖をつく夏樹詩歌は雑談を続ける。
「それにしてもさー、なんでいるんだろうね。おじーちゃん」
「存在に疑問を持つほど嫌いですか」
「嫌いだよー、寧ろ嫌いだよー」
「感想は貧困ですが気持ちは伝わりました……ふぁあ」
あしらいながら漫画を読んでいた冬川が欠伸をした。
こうなるとこの放課後雑談もお開きだ。
名残惜しさが増し、夏樹は冬川の眠気を払うべく食いついていく。
「亜夜ちんは嫌いじゃないの? おじーちゃん」
「嫌いですがあなたのように喚き散らす程ではないですね」
「さすがマニュアルを独り占めしていた人は心に余裕があるね! ふんっ!」
「鬱になったりいじけたり忙しい人ですね」
半目でなじる冬川は教室の時計を見て、もう少しだけ付き合うことにする。
「確かに対処法を会得している、というのもありますが、個人的に思うところがあるんですよ」
「思うところー?」
「見つけ次第即滅している私が言うのもなんですが、おじーちゃんも生き物なんですよ」
「うー、難しい話は嫌だよー」
「分かってますよ。あまり深くすると泥沼ですし、色んな考えの1つとして軽く聞き流して下さい」
因みに夏樹詩歌の学力は教師がチョークを放りなげるレベルである。
「結論を言うと、弱肉強食ですよ」
「え、おじーちゃんを食べるの……? テレビで観たことはあるけど、正気?」
「本の角の殺傷性を教えて差し上げましょう」
「イッタァー‼」
馬鹿の脳天に全国誌の角が突き刺さる。
「冗談もほどほどにしないと頭が凹みますよ。文字通り」
「い、いえす、まむ……」
涙目で頭を擦る同級生に呆れながらも、その実やりすぎてないか心配になる冬川であった。
「話を戻しますと、私がおじーちゃんを駆除するのは一種の生存競争なんです」
「亜夜ちん」
「はい、まだ難しいんですねごめんなさい。えぇっと、例えばおじーちゃんを駆除しなかったらどうなります?」
「うわあああああああああああああああ‼」
「あなたの想像力を甘く見ていました。どこまで想像したのかは知りたくもないですが落ち着いて下さい」
「はぁ、はぁ、危なかった……。あと少しで亜夜ちんが、おっとこれ以上は言えない」
だから余計なことを言わなければいいのにと再び武器を構えようとした冬川だが、これ以上馬鹿になられても困ると思い直し矛を収める。
「まぁ大体は夏樹さんのご想像通り、私達人類はおじーちゃんによって生活圏を奪われてしまうでしょう。だからそうなる前に、私はおじーちゃんを駆除するんです」
「んー、つまり、怖いから倒すんじゃないってこと?」
「その通りです。結局私達もおじーちゃんも同じ地球上の生き物。しかも向こうの方が遥かに先輩です。本来なら嫌うどころか敬うべきでしょう」
「無茶を仰る」
「そんな陶器みたいに冷めた顔で言わないで下さい。さっきも言いましたがあくまで考え方の1つです。これをどう捉えるかはあなた次第ですよ」
「デストローイ‼」
「はい分かりました。その道を突き進んで下さい」
結局冬川の思いは水泡に帰し、その日の雑談は終了した。
★
夏樹詩歌の自室は良くも悪くも女子高生然としてるというか、率直に言えば散らかっている。
小物があちらこちらに散乱し、服はのたうち回り、カバンは床に放り投げられている。
正味の居住空間はベッドの上という体たらくに両親は日々頭を痛めていることだろう。
そんな汚部屋の中、問題の主はというと、
「うみゃー、あ。もう十一時かー」
宵闇も更けに更け、自室のベッドの上で寝転がりながらスマホを弄っていた夏樹詩歌は奇妙な欠伸をした。
いつもなら十時頃には寝落ちしているのだが、今夜は何故か寝付けなかった。
心当たりはある。そう、おじーちゃんである。
冬川の「敬う」という意見がどうにも受け入れられない夏樹は未だにもやもやしていた。
夏樹にとっておじーちゃんはやはり敵であり、害虫であり、滅殺する対象でしかなかった。
「そんな日もあるよねー、うんうん」
いつもより独り言が多いのもそういった鬱憤をごまかすためだろう。
明日は絶対に亜夜ちんをくすぐって涙目にしてやるんだ、と落ちが見えている野心を抱きつつ、ふと天井の照明を見上げ、
いた。
「ーーーーーーーーーーーーーーひっ」
喉元まで来た悲鳴をなんとか圧し殺す。
悲鳴をあげたらお仕舞いだと、本能が告げていた。
(落ち着け、落ち着け、落ち着け)
浅い呼吸を深呼吸に無理矢理切り替え冷静な思考を確保する。恐怖にのまれないよう、アレから目を離さず思考を回せ。
(成る程ね、昨日の復讐と今日の復習をここでやれ、と。やってくれるね)
全身を流れる冷や汗も無視して、夏樹はいもしない首謀者を思い描きいつか倒すと心に誓った。
メンタルコントロールを終え、黒き禍々しい敵、コードネーム『おじーちゃん』を
改めて見据える。
おじーちゃんは、未だそこにいた。
不自然なまでに動こうとしないのは夏樹を馬鹿にしているからか、もしくは別の
思惑があるのか。
白い天井に浮かぶ黒点は、否が応にもその存在感を叩きつけてくる。
対する人間代表夏樹詩歌は行動を開始した。
今の彼女には昨日とは違い知識がある。
(あって欲しくはなかったけど、こんなこともあろうかと用意しておいて正解だったよ!)
目線はそのままに、夏樹は枕元に忍ばせていた最終兵器カ○キラーを手繰り寄せる。
(師匠、使わせて頂きます!)
心の中で冬川師匠にお礼を言い、怨敵に銃口を向ける。舌なめずりをし、笑みまでこぼれたところで、気付いた。
(こ、この位置から射つと、私の顔面におじーちゃんwithカ○キラーが落ちてくる⁉)
そう。
おじーちゃんは丁度夏樹の真上の天井に張り付いており、落ちてくれば以下略。
危うく手痛いカウンターをくらうところだったが、気付けば問題ない。標的が動かない今のうちに移動し、落下予想位置に新聞紙を敷けばいいだけである。新聞紙はおじーちゃんを包む用に既に準備済みだ。
夏樹はテストの時以上に脳髄を回転させ、ベッドから下りる。
「あ」
と、何かを踏んだ。
帰ってから放り投げたカバンだった。
踏んだことについては問題ない。
中身は空同然だし、それで転けるほど愚かでもない。
ただ、視線をカバンへ向けてしまったことだけが問題だった。
「しまっ」
そして、アレはその大きな隙を見逃すほど甘くなかった。
直ぐ様視線を戻したが、あれだけ異質だった存在感は消え去っている。
治まっていた冷汗が湧き出し自己嫌悪の海に溺れそうになる。
油断? 侮り? どちらにせよアレはもういない。
焦りが再来する。
(待て、落ち着け。目を離したといっても一秒もなかったはず。いくらおじーちゃんでもそう遠くへは行けない。きっと照明の裏にでも隠れて)
カサッ。
「⁉⁉⁉⁉」
心臓がこれでもかというほど鳴り響いているにも関わらず、夏樹は確かにその音を聞いた。
しかも、全く予想外の方角。部屋の入口近くの壁。夏樹がいる場所とは対角に位置する。
いつの間に、どうやって? 疑問という名の恐怖が押し寄せてくるが歯を食いしばって耐える。今はとにかくアレを倒すんだと、再度自分に言い聞かせる。
(いや、これは、天井より狙いやすくなったと思えばチャンスだよ!)
移動距離は多少伸びるが問題ない。今度こそ止めを刺す。
緊張していた。焦りもあった。だが再び油断するほど愚かではなかった。
油断は、していなかった。
「え」
始めは、アレが身動ぎしたように見えた。
逃げる気か。
そう思ったのも仕方ない。
知識を手に入れ。
武器を手に入れ。
一度は己を狩る側の生き物だと勘違いしたが反省もした。
ただ、忘れていた。
おじーちゃんには、羽があることを。
悲鳴はなかった。
汗もひいていた。
真っすぐこっちへ飛翔してくるおじーちゃんをただただ見つめることしかできなかった。
だがそれは恐怖のせいではない。
ましてや嫌悪感が頂点に達したわけでもない。
それは敬意に近かった。
人間が用意した武器、策略を潜り抜け、最後に逆転の強襲に打って出る。
知力など人間の何%もないだろうに、とれる選択肢などいくつもないだろうに。
それでもアレは、いや彼は見せつけてくれた。証明してみせた。
虫けら一匹でも、人間を欺けることを。戦えるということを。
そして人間は、夏樹詩歌は過去の自分を恥じた。
これほどまでに高潔で勇敢な彼を、ただ感情のみで排除しようとし嫌悪したことを深く恥じた。
だから、これはせめてもの罰。
敗者の責務。
「……ははっ、敵わないなぁ」
漆黒の弾丸が少女の眉間に飛来する。
意識が遠のく中、それでも人間は笑っていた。
親友が言っていたことが分かった気がした。
彼らの存在理由が分かった気がした。
驕り、高ぶり、いい気になった人類に対し、今一度謙虚さというものを教えてくれる。
例え同族が何匹殺されようと、何度でも正しに来てくれる。
道を間違えそうになった我々を、いつまでも変わらない形で制してくれる。
やり方は違っているが、そんなお節介者を夏樹詩歌は一人だけ知っている。
いつも眠たそうにしながらも大切なことをはっきりと言ってくれる人。
暴力を振るっても、そこに温かさを込めてくれる人。
過去、どうしようもなく終わり沈んでいた自分を、その手が汚れるのも構わず引き上げてくれた人。
だから少女は最後に呟いた。
彼に届くはずもない言葉。
種の壁は絶対で、永遠に伝わらない思い。
分かっていても言いたかった。
言わなければ、ならなかった。
「ありがとう」
届かない感謝はどこへ行くのか。
誰にも届かず消える運命なのか。
その答えは誰にも分らないまま、一人の人間は眠りについた。
その頬に一粒の雫を零して。
☆彡
翌日の放課後。
「亜夜ちん、あたし分かったことがあるんだ」
「なんですが藪から棒に」
「アレ……いや、おじーちゃん……いや、彼の存在理由さ」
「まだ引きずってるんですか。いい加減慣れましょうよ」
「……そうだね。ちょっと馴れ馴れしいかもしれないけど、あたしはこの気持ちに嘘は吐けないよ」
「ちょっと何言ってるのか本気で分らないんですが」
「そう、思えば答えはすぐ目の前にあったんだ。何で分からなかったんだろうね」
「あれですか。また落ちてるモノでも食べたんですか。3日ルールなんてやめなさいって言ったでしょう」
「でも、言わせてほしい。今更でバカみたいだけど、滑稽だけど、これだけは」
「あなた私と会話してるようでしてないことに気付いてますか? もしもーし」
「……やっぱり恥ずかしいね。顔が熱くなってきちゃったよ」
「うーわー。私告白でもされるんでしょうかー。想像しただけで吐きそうなのでとっととして下さい」
「冬川亜夜は、いつまでも、あたしにとってのゴ○ブ○だよ」
上等ですよーーーー‼ と、ヤクザも泣き出しそうなドスの効いた怒鳴り声が校
に響く。
今日も今日とて脳天にダメージを蓄積しながらも、友情を再確認した二人だった
「いい感じで終わらそうしてんじゃねーですよーー‼!」
「亜夜ちん口調口調! そんで何に言ってるの⁉ どこへ言ってるの⁉」
たぶん。
★
おじーちゃん。
冗談で出てきた言葉だけど、実は結構心が揺れた。亜夜ちんには見抜かれてたみたいだし、会話の道筋がない雑談ってのはこういう時恐いね。
その単語を聞くと、あの日々を思い出しそうになる。
いや、正確に言うと浸りそうになる。
でもそれはしないと誓った。
あの人達と、自分自身に誓ったんだ。
でも、もし。
もしもだ。
本当のお祖父ちゃんに会えたら、と考えてしまう。
今のあたしを見せたい、元気に生きてますと、
友達ができたよと伝えたい。
過去は振り返らないと決めたけど。
過去を忘れたつもりはないから。




