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僕とイチと蝉



ミンミンと蝉の音がうるさい。


イチは目をつぶり、上を向いて、体全てをベンチに預けるように、だらりと座っている。

夏になってだいぶ経つというのに、イチはまだ白い肌のままだ。僕はイチの鼻の頭に浮かぶ汗を見ながら、隣に膝を抱えて座っていた。


まだまだ補習は続いている。時たま僕とイチしかでない授業があったりして、完全にVIP待遇だ。


今は、補習を終えた後、大通りの奥まったところにある噴水のある広めの公園で、時間が過ぎるのを待っている。

イチは何を思ってここにいるのかはわからないけれど、僕は最近家に居るのが嫌で、こうしてのろのろとイチの隣で、時間を潰すようになった。


おそらく罪悪感からくるのであろう胸騒ぎで、最近はスケッチブックを抱えたまま、写生もままならない。


家に遅く帰ったあの日、僕は母さんのことを無視して、結局用意してあったらしいご飯も食べなかった。


それから、朝、誰もいないダイニングに置いてある朝食も、そこに並んでいるお弁当も、夕飯も全てを食べずに今日に至る。


妙な反抗心だな、とは思う。

だったらあの日、最初からそうすればよかったのに、とも。


そもそも、こんなことが反抗になっているとも思えない。翌日になると何事もなかったように新しいご飯とお弁当が置いてあるから、母さんにとっては痛くもかゆくもないことなのだろう。


理解できない息子が、反抗的な態度をとる。そっちの方が、今までの従順な行動より圧倒的に有りがちで、理にかなっていて、とてもわかりやすいことだ。




「ミノル、うち来る?」


イチが目をつむったままそう言った。

僕の手が全く動かないのをみて、暑い公園にこのままいることもない、と思ったのだろうか。


「行こうかな」


僕は、手も全く動かないし、暑い公園にこのままいることもない、と思って、イチの案に賛成した。


僕のその言葉と同時に、イチは丸い目をパチリと開けて、立ち上がった。

もはやお決まりになった、自分の自転車の荷台に乗って、イチは僕を待っている。


初めの方こそ交代で漕いでいたものの、イチの細い体に頼ることになるのが心許なくて、最近は専ら僕が漕ぐことになっている。


自転車に跨ってペダルに力を入れると、スッと動く。

いつもこうだ。

まるで一人分の体重しかかかっていないかのように、ペダルは素直に言うことを聞く。


イチの体重が軽いせいだ。

そういうこともだんだんわかってきた。


イチは、同学年の女の子たちの中でも、抜群に細い。

夏服のカッターシャツから覗く女の子の腕は、肉っぽくて、触ったらとても柔らかそうなのに対して、イチの腕は、骨と皮と筋肉でとても柔らかそうには見えない。長袖を肘下まで捲ったところから見える部分だけでもそうなのに、きっと二の腕はもっと固くて、筋肉なんかも見えるに違いない。


けれどその細さが、イチの綺麗さを保っているのだ、ということもわかってきた。


手足が細く、長く、左右のバランスの良い体つき。そこにイチの整った顔が乗っかって、丹念に作り上げられた人形のような美しさ。


そのため挙動は優雅になって、時に妖艶さも纏う。

それに誰もが夢中になって、イチの、綺麗はさらに輝く。





「ついたよ」


いつもと違って静かに座っていたイチに声をかけて自転車から降りさせ、なぜかなかなか歩こうとしない背中を押す。


イチの家なのだから、イチが開けなくては僕は入れない。

とりあえず自転車を門の中に入れて、鍵をかけた。そして家のドアの前でボウっと立っているイチの肩を軽く叩くとイチはこちらを向いて力なく笑って、


「え」


そのままその場に崩れ落ちた。


イチは、プッツリと身体を操っていた糸が切れたみたいに、その場で丸く倒れたのだ。

イチが僕を家に誘ったのはイチなりのSOSだったのかもしれない。


「イチ、ねえ、イチ」


とにかく意識を確認しようと、イチのこけた頬を強めに2、3度叩くと、イチはうっすらと目を開けて、またかすかに口角を上げた。


頭はしっかりしているようだということがわかって、僕は遠慮なくイチのカバンを開けて、その中から家の鍵らしきものを取り出した。


イチに肩を貸すように持ち上げて、玄関を開けると、電気も何も付いていない薄暗い空間が広がっていた。


イチの家族構成は知らなかったけれど、僕の家には基本母さんがいて、帰ると明るい玄関に迎えられるから、なんとなく違和感を覚えた。


一足もない沓脱ぎに僕のローファーとイチのローファーを並べて、そのままズルズルと、イチをリビングと思しき場所まで引っ張っていった。


そのまま、そこに置いてあった大き目のソファにイチを寝かせて、キッチンはどこだろうかと、僕は部屋の中をぐるりと見渡してみた。


生活感のない部屋だった。


いや、新聞ラックとか、大き目のテレビとか、その下に敷いているファンシーな布とか、それなりの生活感を感じさせるものはあった。


ただ、しばらく使った形跡がないような、この部屋で誰も生活していなかったような気がするのだ。例えば、旅行にいって帰ったその日の家のような、そんな空気感がある。




リビングダイニングの奥にあったキッチンに向かって、何か水分を飲ませようと、また、遠慮なく冷蔵庫を開けた。


扉の部分には2ℓのスポーツ飲料が冷やされていて、僕は迷いなくそれをとって、水場の横にあった水切りラックに一つコップがあるのを見つけて、それと一緒に持っていった。


だらりと寝転んでいたはずのイチは、なんとか体を起こしたらしく、ボーッと前を向いてソファにもたれかかっていた。


「とりあえず飲んで」


僕はイチの前にコップを差し出した。けれど、イチはふるふると首を横に振った。

熱でもあるのかと思い、額に手を当ててみたが、特にそういう感じではない。


「飲んで」


僕はもう一度強く言うと、イチは渋々コップを持ったものの、僕がそこにスポーツ飲料を注いでも全く口に運ぼうとしなかった。


悪い予感が頭によぎり、僕は無理やりイチの色味をなくした唇にコップを押し付け、傾けた。

けれど、イチは口を開けようとはせずに、液体はそのまま服を伝ってソファにこぼれていく。


「なんで飲まないの」


僕が言っても、イチは首を振るだけだ。


僕はなんだか悲しくなって、イチからコップを取り上げると、それを口に含んだ。

悲しくなって、それと同時にどこからか苛立ちのようなものも感じて、僕は気づけばイチの唇に自分の口を押し付けて、イチの顎を無理やり押さえ込んでスポーツ飲料を注ぎ込んでいた。


イチはぐったりしながらも目をうっすらと開けて、僕の方を目をそらすことなく見ていた。


吐き出さないように口を手で塞いで、喉が上下に動くのを確認すると、僕はもう一度、それを口に含んだ。



何回かその動作を繰り返し、さすがにイチも抵抗なく飲み込むようになったところで、僕は少し離れて、イチを見た。


「情熱的だね」


イチは少し力を取り戻したのか、いつものように憎まれ口を叩く。ただ、体はソファに預け切ったままだ。




「まっさか、ミノルにちゅーされるなん」

「何も食べてないの」


軽口を吐き始めるイチを遮って、僕は問い詰めた。


「いつから、何も食べてないの」


イチは黙ってこちらを見ている。どちらかといえば睨んでいる、といった方が近い。


「いつから、何も飲んでないの」


負けじと僕もキツく見据えて、問う。



「水は飲んでた」


先に折れたのはイチだった。僕から目をそらし、それでも頑なに、全てを話そうとはしない。


「冷蔵庫、何も入ってなかったんだけど」

「スポドリは入ってたじゃん」

「そういうことじゃないのわかってるよね」


大方、予想はついている。

イチの細すぎる体とか、さっき持ち上げた時の軽すぎる体重とか。


それでも、イチの口から聞きたかった。


早く僕とイチの間にある壁を、イチがどうしても越えて来ようとしない壁を、越えて欲しい。壊さずとも、一度だけでもいいから、越えてきて欲しかった。


けれど、イチは何も言わなかった。ただ黙って僕から目をそらして、何もない空を見つめるだけだった。





僕は仕方なく、海のそばに新しくできたコンビニに立ち寄っている。

イチの家を何も言わずに出て、その足でコンビニにきた。イチが再び家の扉を開けてくれるかはわからない。けれど、イチのために、胃に優しいような、カロリーのないようなものを買って、そこを出た。


海辺なのに、ミンミンと蝉の声がするのは、海が山に囲まれたようになっているからだろうか。それとも、もともと海辺に蝉はいるものなのだろうか。



ピンポンとインターフォンを押した。

誰も出てくる気配はなかったから、扉に手をかけると、すんなりと開いた。

イチが開けるまでもなく、扉は開いたままだった。


僕は口を固く結んで、そのままイチのいるリビングに戻って、キッチンのカウンターにコンビニ袋を置いた。


イチは僕が戻ってきたことに気づいたのか、気づいていないのか、何も反応しなかった。





僕は買ってきたゼロカロリーゼリーと、電子レンジで温めた白粥をイチの前のテーブルに置いた。


イチはそれをちらりと見たけれど、口をつけようとはしなかった。

僕は堪えて、そのままイチに向かい合って正座をしていた。


「ミノルが食べなよ」


しばらくして、口を開いたと思ったら、イチはそんなことを言った。


「ミノルだって最近あまり食べてないでしょ」


いつの間に見ていたのか。

確かに、母さんの作った弁当を持って学校に行くことは最近なかった。

だからと言って、その埋め合わせとなるほどのご飯を買うほどのお金はなくて、僕の近頃口にしたものといえば、三食ともおにぎり1個のみだった。


「僕は食べてる」


僕は言い張った。


「最近は夏バテで食欲がないだけだ」


僕は嘘をついた。


「じゃあ、私もそれ」


イチは僕の嘘を見透かしたように言った。


「私も夏バテ気味なの」


譲る気はないようだった。

僕が用意したお粥とゼリーにも決して手をつけようとしない。


イチは明らかに、弱っている。

それなのに、食事をとることを拒む。


僕はまた、悲しくなった。スポーツ飲料を飲んだだけましだとはいえ、こうしてイチのために用意したものさえ手にとってくれないなんて、僕とイチの間の壁が、更に高くなったような気がして、悲しくなった。




「僕、帰るね」


温めた白粥が冷めた頃になって、僕は言った。このまま睨み合っていても、嫌な気分になるだけだし、今のイチの隣は、僕の居場所じゃない。


暑い中、公園のベンチに並んで座っていた方がずっとよかった。そこなら居場所だと思えていた。


「ご飯食べなよ」


イチは、立ち上がった僕の目をじっと見つめて言った。


「ミノルのお母さんの作ってくれるご飯、ちゃんと食べなよ」


丸裸にされた気がした。

なんで知っているんだろう。イチは、いつも僕をじっと見て、僕の逃げ場を塞いで、僕が泣き出すのを待つ。僕はいつも、いつの間にかイチの手の上で転がされているのだ。


「イチは、イチはいつもそうだね」


僕は、また泣いた。悔しくて、悔しくて、涙が出た。いつも僕を泣かせるイチは、最終的には、僕を明るい場所へ連れて行ってくれる。


「いつも、イチは僕のことばかりだ」


「友達だもん」


しゃくりあげながら話す僕に、イチはいつものような明るさで笑った。


「ミノルと私は友達でしょ」


うん、そうだ。

そうなのだ。でも、だけど。

イチが僕のことを考えてくれているのなら、少なくともそれと同じ分だけは、僕はイチのことを考えているのだ。いつもいつも届かない高い壁を見上げて、どうにか登れるところを探しているのだ。


「僕も」

「なあに」


相変わらず息を詰まらせながら、僕は必死に言葉を紡ぐ。イチは先程より幾分優しい目線で僕を見ているのがわかる。


「僕も、イチのことばかり考えているよ。イチが、なんでご飯食べないのか、わかってるよ。僕だって、イチの友達なんだ。わかってるんだ」


少し落ち着いてきて、つっかえながらも話す。

イチにどうにか伝わりますように。

イチが、一度でもいいから壁を越えてきてくれますように。

イチがいつもくれる居場所を、僕もあげることができますように。


「僕も、イチの力になりたいよ」


僕は、いつもイチが僕を見つめる力強さを真似て、イチを見つめた。


イチは、やっぱり何も言わなかった。

人形のように固まって、僕の方を見たまま、動かなかった。


「じゃあ、行くね。母さんのご飯、ちゃんと食べるようにするよ」


僕は固まっているイチを置いて、外に出た。


きっとイチはあの粥には口をつけないだろう。せめてゼロカロリーゼリーだけは食べてくれるといい。



僕は家に帰ると、まっすぐにリビングへ行った。


母さんはソファにニュース番組を見ながら座っていた。ダイニングテーブルには、皿に盛られた食事と、タッパーが乗っていた。


「母さん」


僕は久々に母さんに話しかけた。

僕が話しかけたことに驚いたのか、母さんは一瞬びくりと肩をはねさせて、こちらを見た。

そして、慎重に歩いてくると、言った。


「実、ご飯食べるの」


僕がうん、と頷くと、暗かった表情は少し安心したものに変わったようで、軽く息を吐くと、肩の力を抜いて、言った。


「じゃあ、食べましょうね」



母さんは、どうやら僕が自分の部屋で食べれるように、晩御飯をタッパーに詰めてくれたらしかった。皿に盛られたご飯を僕の前に持ってきて、自分はタッパーを開けてそれを食べた。


前のような会話は全くなかったけれど、おいしいね、とかこれはちょっと濃かったわね、とかそういうことを合間合間に言い合って、僕と母さんは食事をした。


「食べてもらうのって嬉しいことね」


母さんはその合間にポツリとそう言って、僕も小さくうなづいた。



自分の用意したものを食べてもらうことは、とても嬉しい。だから、自分の用意したものを食べてもらえないのは、とても悲しいのだ、と気づいた。


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