四章 僕とイチと冷やし中華
ズルズルと勢いよく麺を啜る音を、僕はあまり嫌いではない。
麺は啜ってなんぼの物だし、そうしなければ食べた気がしない。
イチはその音が好きじゃないらしい。
好きじゃないと言いつつもしっかり啜って麺を食べているから、少し呆れる。
「あんまり上品じゃないよね」
「そうかな」
「そうだって」
僕とイチは少し遠出をして、隣町までやってきていた。
僕の画材がなくなったのと、イチのトゥーシューズが壊れたとかで、お互い隣町まで行かなければならない用事ができたというのが大きい理由だ。
学校は夏休み期間に入ったばかりでまだ補習授業をやっていて、あの日、僕が怪我をした日をきっかけにサボりすぎた僕とイチは必ず出席するようにと言われてしまった。
ただ、先生たちにも僕の事情は知れ渡っているから、大したお咎めはなかった。
イチも何故だかはわからないけれど特になにも言われていなかったようだ。
補習の帰りにまた二人乗りをして隣町まで行って、お互い買い物を済ませると、イチがお腹がすきすぎて動けないと言い出したから近くにあったラーメン屋で冷やし中華を啜っている。
「冷やし中華にゴマだれは邪道でしょ」
イチは僕の"胡麻たっぷりダレ冷やし中華"を指して言う。
「そうかな」
「そうだって」
「でも何事にも挑戦したほうがいいってこないだ言ってたよね」
「それはそれ、これはこれだって」
梨味のアイスキャンデーを思い出しながら僕が言うとイチはあっけらかんとそんなことを返す。
「トゥーシューズ、買えたの」
「ああ、うん、まあね」
隣町は僕たちが住む街より大きくていろいろなものがある。画材屋さんもあればスポーツ用品店もあるし、でっかい本屋とかアミューズメントセンターなんてのもある。
「絵の具、買えたの」
「うん、まあね」
冷やし中華を食べ終えれば、僕たちがこの町にいる必要はなくなるのだが、イチは僕をアミューズメントセンターに引っ張っていった。
中に入るとものすごい喧騒に耳を塞ぎたくなったけれど、ガンガンにかけられた冷房が蒸された外に比べて心地よくて、思わずそのまま進んでしまった。
「ミノル」
イチが声を張り上げて僕を呼ぶ。
その方に行けば、透明な中にチョコレートの高く積まれた機械があった。確か、これはクレーンとかUFOキャッチャーとかいうやつだ。
「これ、やらない?」
「いいよ、イチがやりなよ」
僕は促すが、イチは機械の前でなにやら葛藤しているようだ。
「これが動いているところが見たいし、取れたら一個ぐらいチョコレート食べたいし、でも減量中だし」
こっそりそんな独り言が聞こえてきて、僕は笑った。さっきまで普通に冷やし中華を食べていたのに。
「いいよ、じゃあ僕がやってみる」
「マジで。やったね、さすがミノル君」
イチは手を叩いて喜んで、その勢いのまま僕の背中を叩いた。地味に痛い。
「まさかこんなに取れるとは。ミノル、本当に初めてなの」
「うん、そうなんだけど」
驚いた。
初めのお菓子クレーンは一回で重石を引き当てて、それに支えられたお菓子を全て取ることができた。
調子にのったイチが、あれもこれもと僕を引っ張って、僕たちは気付いたらぬいぐるみやらフィギュアやら使い道のわからない便利グッズやらでいっぱいになっていた。
「すごいなー才能あるよ君」
両手には抱えきれなくて困っているところを店員さんが見かねて袋を持ってきてくれた。
イチはさすがだ、とウンウン頷きながら、僕が仕分けをするのを見ている。
「イチ、お菓子いるの」
「うん、もちろん」
景品自体にはあまり興味がなかったらしいイチは、お菓子と小さめのぬいぐるみを選んでそれだけをカバンにしまった。
「大きいの、どうするの」
「要らないや」
イチは一考もせずに答えて、僕は困る。
イチがやりたいって言ったんじゃないか。
けれどイチは一向に受け取る気配はなかったから、僕は仕方なく持って帰ることにした。
「あーあ、誰かさんのせいで部屋がぬいぐるみだらけになる」
「誰?」
とぼけたイチを置いて、僕は外に出た。
日が傾いていて、少しぬるくなったであろう気温も、冷房と比べれば憂鬱になる。
ガチャガチャと自転車を引っ張り出してきたイチは、なにも言わずに荷台に座った。サドルではなく。
僕は両手いっぱいの荷物をイチに押し付けて、仕方なくサドルにまたがった。
漕ぎ始めると、イチが、荷物が邪魔で風が当たらないと文句を言った。
僕はざまあみろと思って、こっそり笑った。
帰りはイチを家まで送った。
本当は大通りの所で別れようと思っていたのだけど、イチがわざとらしく、怖いなー暗いなーなどと大きい独り言を言ったので、僕は仕方なくイチの家まで行くことにした。
僕はその暗くて怖い中を一人で大きな荷物を抱えて歩いて帰らなければならないというのに。
「はーいじゃあここまで」
イチは家の手前の住宅街の入り口の所で自転車を止めさせて、荷台から下りた。
あっさりと、別れを告げて、自転車を引いて去っていこうとするので、僕は呼び止めた。
「イチ」
「なーに」
イチは振り返らなかった。
「明日ね」
僕の言葉にイチは手を振って、また歩き出し、行ってしまった。
右手に折れたときに、外灯に当たって少し見えたイチの表情は、心なしか強張っている気がした。
僕は荷物を抱えて、海に向かって歩いた。
少し潮風に当たろうと思った。
砂浜に座って、海からの風を受ける。
少しイチについて考えてみたくなった。
イチは僕に自分のことを全然話さないけれど、イチは学校の中でとても目立つ存在で、時々噂が耳に入ることがある。
それは、誰々くんがイチマツさんを好きらしいとか、告白したら酷く振られただとか、そういった類のものから、小テストで満点をとったらしいだとか、シャーペンより鉛筆派だとかいう事柄にまで及ぶ。
そういえば、去年の秋頃に広まった噂があった。
誰かが教員室で話しているのを聞いてしまったとか、本人から直接聞いた子がいるらしいとか、あくまでも噂らしく、出所不明の曖昧なものではあったけれど、妙に詳しかったので、思わず聞き耳を立ててしまったのだ。
それは、イチマツさんは高校卒業を機に念願のヨーロッパ留学を控えている、というものだった。
何でも5歳から続けているバレエの才能を有名なバレリーナに見出されたイチマツさんは、その人の紹介で有名なバレエ団に入団できることになった、らしい。
僕は、それをとても羨ましいと思った。
ただ、それに対して嫌悪とか嫉妬とか、そういう負の感情を持つ人も多からずいて、そういった人たちが、イチマツさんを呼び出した、とか、掃除を押し付けた、とか、大事ではないけれどもそれなりの嫌がらせをしたらしい、という噂も合わせて広まった。
しかも、その時期の噂によれば、イチマツさんはとても高飛車で他人を見下していて底意地の悪い性格であった、らしい。
正直、その噂を耳にしていた僕は、イチと初めて話したあの時すごく驚いたし、やっぱり噂は噂に過ぎないんだと言うことを実感したのだ。
本物のイチは、とても綺麗だ。
多少の我儘であれば、許してしまえるくらい、気持ちのいい性格をしている。
ただ、イチは何も言わない。
アイスキャンデーは梨味が好きだとか、冷やし中華は中華ダレ以外認めないとか、自転車の荷台で風にあたるのが好きだとか、色々な曲を知っているとか、そういう表層的なことは教えてくれるけれど、そこまででいつも口を閉ざす。
イチについては結局、僕は大したことを知っているわけではないのだ。
噂と、イチと過ごした数日間で知った些細なこと。
壁がある、と思う。
僕はきっとそれを寂しいと思っているのだとも思う。
仰向けに寝転がる。
制服のシャツが砂まみれになってしまうな、と横になって気づく。
深い深い青の空にぽっかりと月が浮かぶ。半月から少し経った月。もうすぐ満月になりそうな月。
近くに外灯があるせいで、本当の色ではないのだろうし、月の模様もよく見えない。
本当の姿があるはずなのに、僕にはぼんやりとしかわからない。
僕は目をつむり、静かな波の音を聞く。
いったいイチは、何を考えて、何を思って、何を感じているのだろうか。
家に着くと、まだ家中の電気が付いていることがわかった。
砂浜で寝転がっていたら、そのまま寝てしまった僕は、肌寒さで目を覚まして、ぎょっとした。
慌てて外灯に近寄って腕時計を見れば、午後11時を回っている。
イチと別れたのが遅くとも午後7時だったからまるまる4時間は眠っていたことになる。
「どうしよう」
今までこんなに遅くまで外にいたことはなくて、思わず声が出た。
外泊の時も必ず事前に両親に伝えていて、帰宅時間云々で揉めたことはない。
だけど、そうだ。
ここ数週間両親との会話なんてないようなものだったし、もう彼らは僕のことなんて気にしていないだろう。
そう、思っていた。
「なんで」
戸口の前に立って、できるだけ静かに扉を開ける。
こっそりと靴を脱いで、玄関から一番近い自分の部屋に入り込んだ。
ここも静かに扉を閉めて、息を吐き出して座り込む。
なんでだ。 どうしてだ。
腕を固く握って肩で耳を塞ぐ。
また何かを言われるのか。それともあの目で見られるのか。
息が上がっているのを感じた。
まただ。
また、これは過呼吸だ。
頭は冷静に回っているようでぐちゃぐちゃだ。
なんで、息が、どうして、吸え、
目が、吸え、息が、顔が、聞こえる、
いやだ、吸え、いや、無理だ、袋、
苦しい、あ、声が、聞こえ、あ、
なんで、あった、
こないだイチの前で過呼吸になってしまった時に、イチに教えてもらった。
過呼吸は、袋を口に当てて自分が息を吐いたり吸ったりしているのを目で確認するのがなった時の対処法だ、と。
その時から、僕は癖になってしまったのか、少し嫌なことを考える度に軽い過呼吸になるようになってしまったから、部屋には紙袋を用意していた。
紙袋をガサガサ言わせながら膨らませたり萎ませたりしていると少し気分が落ち着いてきて、部屋の外からは声なんて聞こえてきていない、という事をやっと把握した。
声が聞こえるなんて思ってしまったのは、僕に後ろめたい事があるからで、僕がこんなんじゃなかったらそう思って、怯える必要なんてないのだ。
僕の両親は何も悪い事はしていないのだから。
コンコン、とノックの音が聞こえた。
僕は大量のおもちゃを袋から出して、とりあえずぬいぐるみをベッドの上に並べているところだった。
どうぞ、と言えば、少しドアが開いて母さんの声が聞こえた。
「ご飯、ラップして冷蔵庫に入っているから。必要だったらチンして食べなさい」
顔はのぞかせずに、母さんはそれだけを言うと、きっちり僕のドアを閉めて行ってしまった。
はあ、とため息をついて、初めて肩に力を入れてしまっていた事に気づいた。
また、何か言われるのか。最近の僕の頭はそればかりだ。
怖がって、怯えて、耳を塞いで、息ができなくなって。
自分がこんなに弱くなってしまうなんて思ったことすらなかった。
ベッドに倒れこんでぬいぐるみたちに埋もれると、僕は海辺であれだけ眠ったにもかかわらず、そのままぐっすりと眠ってしまったのだった。