幕間 僕と隆平くんと夏
僕と隆平くんの初めの出会いを遡れば、それは寒い冬の日ということになる。
その時、僕は隆平くんの名前さえ知らなかったのだけれど、なんとなく、頭に残った。
それはきっと同じバスに乗り合わせた人の顔をなんとなく覚えてしまうような感覚と同じだ。
それに、試験会場で、消しゴムを忘れたらしい隣の子に、自分の消しゴムをちぎって渡していたのを目にしたことも理由に含まれるかもしれない。
自分も一個しか持っていないのに、隣の子にそうして渡す姿は当時の僕にとって印象的だった。
僕は無事に合格して、けれど試験会場でのそんなやりとりは記憶の底の底の方に沈んでしまった。
それから隆平くんと次にあったのは、去年の初夏の頃だった。
学校中は定期試験に向けてピリピリとした雰囲気が漂っていて、それに合わせられなかった僕は、勉強を投げ出して、写生に出かけた。
写生といえば、河原や、ここら辺には海もあるのだからそういうところに行くのがいつものことだったが、この時だけは僕は何故か大通りに向かった。
駅前の、人のたくさんいる広場のベンチに僕は座った。
早足で通り過ぎるサラリーマン。ゴテゴテしてギラギラして重そうなケータイを弄っているギャル。いちゃつきながら通り過ぎるカップル。
風景とは違って人はどんどん動いて僕の前を通り過ぎていくから、少し変わった写生の仕方をした。一目で見たことをそのまま紙に写していくのだ。
これはとても集中力のいることだったけれど、時間を忘れて没頭できた。それぞれの人がみんな違う特徴を持っているというのが面白かった。
あの人は少し垂れ目、あの人は髪が長くて艶がある、あの人は少し足を引きずっていて、あの人はかなりの猫背だ。
いろんな人の特徴を描き出しながら、僕はふと気がついた。
今描いている彼をどこかでみなかっただろうか。
髪色は金髪で派手だが、それ以外の部分を見たことがあった気がする。
描き上がったその人の髪の毛を真っ黒に塗りつぶしてみる。
「あ」
そこでやっと思い出した。入試の時の人だ。
僕は急いで彼がいた方向をまた見たが、すでにいなかった。そりゃそうだろう、見た時から少し時間が経っている。僕はなんとなく残念に思って肩を落とした。
「おい」
驚いた。
肩を落としたところで、誰かに叩かれて声をかけられた。何かと思って振り返ると、そこにいたのはさっきまで描いていた彼だったのだ。
「お前、同じ学校だよな」
そのまま距離を縮めて僕の隣に無遠慮に腰掛けるので、少し気圧されたが、僕はしっかり頷いた。
よく見れば彼の首にあるネクタイは学校指定の僕の物と同じだった。
「お前も勉強タルくなった勢か」
そんな勢力があるのかどうか僕にはよくわからなかったが、また頷いた。
「あー、タリィよー、なんつーんだっけこういうの。やる気でなくてカッタルイのが続く病名」
「五月病かな」
「あそれそれ」
厳密に言えば五月病は病気ではないだろうが、彼は怠い怠いとひたすら繰り返し、僕の隣でだらけている。
「あの、なに」
僕は写生に戻りたくて用件を聞き出そうとした。
「いや、なんもねーよ」
彼はこちらを見ずに、呟く。
「じゃあ僕続けていいかな」
「おうやれやれ俺は見てる」
許しは出たが、見てると言われて少し居心地が悪い。実際に、描き始めると視線が横から浴びせられて、集中できない。僕は仕方なく足元に咲く小さな花を描くことにして、その日はそのままなんとなく別れた。
次の日も次の日も、勉強をする気が起きなかったから、僕は駅前のベンチに座った。
少しすれば彼が来て隣に座った。
大して話すこともしなかったけれど、その時間はまるで当たり前のように僕に訪れて、僕は絵を描く、彼は僕の絵を眺めるもしくは薄い文庫本を読む、そんな感じで過ぎていった。
5月が終わって、定期試験も終わった。
勉強タルくなった勢として集まっていた僕たちは、試験が終われば会うこともなくなるのだろうか、と僕は少し寂しく思った。
だから、暇があれば駅前のベンチに向かうようになった。
どうやら彼も同じことを思ってくれたらしく、僕たちはしばしばそのベンチで会った。
そうして何回目が経ったところで、彼が僕の名前を聞いてきた。
そうか、僕は彼がSF小説が好きで、歴史小説は読まない、とかそういうことは知っていたけれど、そういえば僕たちはお互いの名前を知らなかった。
「須藤 実」
「スドウか、俺はゴウダ リュウヘイ」
彼は、質実健剛の剛に、田んぼの田、生きるの入った隆に、平和の平、と丁寧に教えてくれた。
僕もお返しに、須らくの須に、島崎藤村の藤、現実の実だと教えてあげた。
彼は目を丸くして笑った。
まだ、島崎藤村は読んだことがないと言った。
僕も頷いて、読んだことないと言うと彼は、剛田くんはまた笑った。
「じゃあ藤原家の藤、とかでいいじゃんかよ」
「歴史小説、嫌いなんじゃなかったっけ」
剛田くんはまたまた笑った。
そこからはトントン拍子だった。
僕と剛田くんが仲良くなって、学校では、大人しい僕と染髪のせいでよく生活指導を受ける剛田くんが一緒に居るのは物珍しげに見られて、僕が隆平くん、と呼ぶようになり、隆平くんが僕を親しげに実、と呼ぶようになった。
そして、僕は隆平くんに淡い恋情のようなものを抱くようになった。
もともと、そういうのに興味のある方ではなかったし、今思えば、きっとあれは憧れとかの方が近かった。というのも僕は友達があまりいなかったし、剛田くんは高校で初めての友達だった。
でも、隆平くんを想うことではっきりとしたのは、僕の性趣向はおかしい、ということだった。
夏休みに入ると、隆平くんに遊びに誘われた。
制服とは違う、ラフな格好の隆平には少なからず心拍が上がり、僕は夏の暑さも相まって混乱した。
祭りに行けば、屋台にいるガタイのいいお兄さんに目がいくし、着流しを着こなす細身の大学生は鎖骨がとても扇情的だったし、海に行けば、チラホラといるサーファーのおじさんたちを見つめてしまって、隆平くんにはサーフィンに興味があるのだと勘違いされて、危うく初サーフィンしてしまう所だった。
僕はその夏、ひたすら悩んだ。
隆平くんと遊ばない日はひたすらに頭を抱えていた。
僕は普通の人とは違うのか。
違うとどうなるんだ。
ダメなのか。
駄目だったらどうすればいいんだ。
夏の思い出、という作文を書けと言われたら、僕は迷わず、隆平くんと遊んだ事と、悩みまくった日々を書いただろう。
折り合いが付いたのは、隆平くんに遊びに誘われて、隆平くんの家に行った時だ。
平屋の隆平くんの家には縁側があって、そこに二人で座ってスイカを食べた。
隆平くんは塩をかけて食べていて、僕も勧められたけれど丁重にお断りした。
風鈴がそばでチリンとなって、太陽が眩しくて、隣では隆平くんが静かにスイカを頬張っていて、僕は思った。
まあいいか。
テレビを見る限り一定数は存在するみたいだし、僕にとって空は周りの人と同じく青いし、太陽は白いし、スイカはちゃんと美味しいし。
まあいいか。
隆平くんは僕が悩んでいた事に薄々気が付いていたらしく、僕がスイカを食べながら、下手くそな鼻歌を歌いだすと、驚いてこっちを見た。
そして少し笑って、僕の頭を小突いて、下手くそ、と言った。
僕と隆平くんの夏はそんな感じで過ぎていって、あとは縁側で寝てしまって僕は肌を真っ赤に、隆平くんは真っ黒にした事や、最終日に宿題を溜めていた隆平くんに連行されて、すし詰め状態に付き合った事があったが、どれも僕には忘れがたい夏の思い出となった。