三章 僕とイチとアイスキャンデー
綺麗な台風一過だった。
僕はイチと初めて会った場所に座りこんで、イチと一緒にアイスキャンデーをなめていた。
辺りは静かで、まるで学校に僕たちしかいないみたいだった。
「ミノル、ひとくち」
イチは僕のソーダ味を指差していった。差し出すと、真っ白い歯でガシリと噛んで、目を細めた。
「キーンってする」
イチは、自分の梨味を差し出してきたけど、僕は遠慮した。美味しくなさそうだったからだ。
「ミノルってそういうとこあるよね」
イチは唇を尖らせた。
「変に頑固っていうか。もっと柔軟にさ、いろんなこと経験してみたほうがいいと思うんだよね。梨味に挑戦してみる、とかさ」
きっとイチはいろんなことをやってみるタイプなのだろう。気になったことはとりあえずやってみる。興味のあることは調べてみる。わからないことは聞いてみる。
だからきっと僕に話しかけたんだと思う。わからないから、聞いてみようとしたんだと思う。
「考えてみるよ」
僕は言った。
イチは笑った。
「君はそういって受け流すタイプと見た」
僕は図星を突かれて、曖昧に笑い返した。
唇の端の切れたところと、頰にできた痣が、少し痛んだ。
ーーミノル、こっちよ。
声がして、その方向を向くと母さんがいた。
笑顔だったから、僕はこれは夢だ、とすぐにわかった。
ーーおお、ミノルは絵が上手いなぁ。将来はピカソか?フェルメールか?楽しみだなぁ。
書斎の大きい椅子に座った父さんがこっちを優しい顔で見つめていた。視線が低い。きっと昔の記憶だ。レコードから流れるクラシックが微かに聞こえる。
ーーミノル、食いな。
ああ、この低い声は、隆平くんだ。タンクトップとハーフパンツを着ている。去年の夏だ。風鈴の音と、スイカの甘い味が僕を満たす。
ーーおい、あの子だよ、可愛いだろ。
隆平くんが黒髪の女の子を指差して、照れ臭そうに笑った。可愛いかな。そうなのかな。隆平くんはそう思うのか。僕の心の中にはモヤモヤしたものが広がった。
ーーお前、何言ってんの。
モヤモヤしたものがはっきりと黒ずんでいって、明るかった視界は暗転した。ああ、まただ、と僕は思う。
またこの夢だ。
ーーキモい。気持ち悪い。騙すなんて。近寄るな。人間かよ。触るな。二度と顔を見せるな。
たくさんの隆平くんが僕を詰る。責めて、怒鳴って、凄む。僕は耳を塞ごうとした。けれど、左右を見渡しても僕の腕はなかった。足もない。体もない。鼻もない、目もない。ただ耳だけが隆平くんの声を拾う。
いやだ、いやだ。聞きたくない。
なんで、どうして。僕は何がいけないの。何がダメだったの。隆平くんの隣にいちゃダメだったのかな。
サッと白い光が遠くに射した。僕はそれを追いかけた。待って、行かないで、僕を置いていかないで、
ーーーイチ!!!
「なに」
目を開くとイチがアイスキャンデーの棒を咥えながらこちらを覗き込んでいた。
僕は何でもない、と首を振った。
「そう」
イチはあっさりしている。何かを無理に聞き出すことはないし、イチ自身も自分のことをあまり話さない。現に、今もこうして顔中傷だらけの僕を見ても何も言わない。
僕はそのあっさり加減を気に入っていたはずなのに、夢のせいか、今はなんだか寂しくて、思わずこぼしてしまった。
「しんどいよ」
イチはなにも言わなかった。でも、僕の話を聞こうとしてくれている、というのがなんとなくわかった。
だから僕は話すことにした。今までのこと、全て。
イチに知ってもらいたいと思った。
剛田くんに殴られた。
今日あった出来事を大まかに言えばそうなる。
もっと詳しく言えば、僕が剛田くんを怒らせてしまって、結果として殴られた。
昨日のことがあったからか、僕が登校して席に着くと、剛田くんは僕の元までやってきた。
「昨日は、」
「うん、ごめんね、昨日。僕の所為で」
あの出来事の所為だろう、人に何かを言われるのがとても怖くなった。だから僕は、ついつい被せ気味に剛田くんに謝った。
「…ちげーよ、俺は、」
「剛田くんは悪くないよ。元の原因は僕なんだから」
出来るだけ剛田くんを刺激しないように、もうこれ以上嫌われることはないだろうけれど、それでも、もう嫌われたくないから。
僕は出来るだけ表情を和らげて言った。
だけど、それを見たはずの剛田くんはよりしかめっ面になって、僕をにらんだ。僕はどうしていいかわからずに彼から目をそらした。
「おい」
「ごめんね、僕の所為で、」
「こっちこい」
剛田くんは僕の腕を乱暴に掴んで引っ張った。
もちろん力の差は歴然で、僕は剛田くんに腕を引かれて教室を出るしかなかった。
握られた腕がすごく痛かった。
きっと剛田くんの怒りが全部そこに向かっているのだろうと思って、僕は仕方がない、と何も言わなかった。
校舎裏に連れて行かれた。
もうそろそろホームルームが始まるからか、外にはまばらに人がいるだけで、もちろん校舎裏に生徒はいなかった。
剛田くんは僕の腕を握りしめたまましばらく立っていた。
そろそろ腕の感覚がなくなりかけたところで、剛田くんは腕からそっと手を離してこちらを向いた。腕に血が通ってだんだんと痺れてくる。
「あの、剛田くん、」
「…俺の話を聞いてくれよ」
剛田くんは何故かすごく寂しげな傷ついた顔をしていて、僕は焦った。
他人のそんな顔なんてほとんど見たことが無かったし、それにそんな顔を僕がさせてしまったという事実が僕を落ち着かなくさせた。
そして、そんな顔で話される内容なんて真実に近いものに違いなくて、僕はそれを聞きたくなかった。
「嫌だ」
焦燥感はそのまま外に出てしまって、思ったよりはっきりとした声が響いた。
その直後、耳に肉と肉がぶつかる鈍い音が聞こえて、視界が揺れた。
殴られたのだ、と気付いたのは頬が痛み始めてからで、僕は呆然と、倒れた僕の上に馬乗りになった剛田くんを見つめた。
「ふざけんじゃねえよ。お前結局自分の事ばっかじゃねえかよ。俺に謝って、それで全部済むと思ってんのか。しかも、剛田くんって、どういうことだよ」
どんどん尻すぼみになっていく剛田くんの言葉は感情が露わで、僕は聞きたく無かった。
そうなのだ。
結局僕は僕のために他人と距離を置いて、耳を塞いで、家族にさえ近寄らず、僕は、
「お前さ、もう隆平くんって呼ばないのな。アイツとは仲良くしてるくせして、俺は遠ざけるのな、おかしいんじゃねえの」
剛田くんの最後の静かな声が頭に残った。
僕は校舎裏に取り残されて、蹲っていて、そうしたらイチがやってきた。どうやら上から見えたらしかった。
「ミノル、コンビニのお誘い」
「え、抜け出すの」
「抜け道あるからさ」
イチは血の付いた僕の顔を気にもせず腕を引いた。
そこは、ちょうどさっき剛田くんが力強く掴んでいたところだった。
僕は泣きたくなった。どうせもうイチの中で僕は泣き虫に違いないのだから泣いていいのかもしれなかった。
けれどきっと残っているであろう剛田くんの指の痕を考えると、絶対に泣いてはいけなかった。
僕は、僕を許してはいけなかった。
イチは、空を見上げながらアイスキャンデーの棒をかじる。
ミシミシという音がして、イチは棒を折るとコンビニの袋に入れて口を縛った。
それを制服のスカートのポケットに入れて、立ち上がった。
「ミノル、見てて」
イチは舞った。
空を飛んだ。空を駆けた。
僕はその姿を見ていた。
イチはとてもしなやかに踊るけれど、それがとても筋力のいるものだということを僕は昨日知った。
些細な、例えば雷に驚くくらいで、壊れてしまう、そんな繊細なものを維持するにはとてつもない力が必要なのだ。
澄ました顔の裏にはきっと苦痛に滲む顔が隠れていて、着地した爪先は、気を抜けば今にも悲鳴をあげるに違いない。
きっと苦しいのだ。踊るということは苦しいことなのだ。
息苦しい、と思った。喉に空気が詰まる。
なんとかして息を吸おうとしていたら、その音がヒュッヒュッと高いものに変わった。
やばい、過呼吸だ。
そう思いながら、僕は視界が白んでいくのを感じた。目の端では、イチが苦しそうに踊っていた。