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二章 僕とイチと雨



昨日の快晴が嘘みたいに、空はどんよりとしていた。

梅雨が明けたと思ったらどうやら今度は台風が来るらしい。


一人で食卓についてご飯を食べる。


母さんは僕に朝ごはんを用意したら自分の部屋に篭ってしまったし、父さんは僕が起きる前に出かけたみたいだった。


今からひと月くらい前はこんな静かな朝なんて過ごしたことがなくて、仲の良い両親と一人っ子の僕はBSで早い時間の朝ドラを笑いながら観るのが朝の習慣だった。


「行ってきます」


返ってくる言葉がないことには、もう慣れた。

僕は歩いて学校へ向かう。


通学路だからもちろん他に学校へ向かう生徒もいて、学校に近づくにつれて徐々に増えていく。

この地域では一番の進学校で、歩きながら単語帳を開いている生徒も多い。


そんな勉強以上に、他人にあまり関心の持たない生徒達でも、どうやら僕のことが気になる人は多いようだった。チラチラとこちらをみる視線を感じるし、コソコソと噂し合う声も聞こえる。これにも慣れたとはいえ、気分は重い。


「ミノル」


イチの声に安心した自分が少し可笑しかった。


「イチ」


自転車から降りて僕の隣に並んだイチと坂道を登る。


「おはよう」

「おっは」


呼びかけに返事があるのが嬉しかった。


「なににやけてんの、キモいよ」

「イチは酷いなあ」


相変わらずの毒舌にももう慣れて、にやけた顔のまま返せば、怪訝な顔をされた。そのままダラダラとどうでもいい話をイチは続ける。


けれど、門をくぐればヒソヒソ声は強まって、僕は体が強張っていくのを感じた。

イチは、それに気付いているようだったけれど、なにも言わなかった。ただそのままどうでもいい話を続けた。


僕とイチはクラスが違うから、いつまでもイチに頼ってばかりではいられない。そもそも、イチと会ったのは昨日のことだ。それまでは一人でどうにかうまくやり過ごしていたのだ。


大丈夫。うまくやれるはずだ。



イチはあっさりと僕と別れて自分のクラスへ入っていった。僕はイチが入るのを見届けてから、ひとつ、息をして扉を開けた。途端に教室が静まり返るのがわかった。


なんでだろう。僕のことなんか無視してくれよ。


そのまま真っ直ぐに席に向かうと、僕の席には誰かが座っていた。いや、誰かなんてわかりきっている。こんな派手な髪色をしているのは、僕らの学校には一人しかいないからだ。


「剛田くん」


僕は話しかけた。とにかく何事もなく、ただ席につきたかった。静かに座って、トイレ以外は席を立たない。そうして回りをシャットダウンして昨日も一昨日もその前も乗り切っていたのだ。


「よぉ、須藤」


顔だけこちらを向いた剛田くんは、僕を見て薄く笑った。嫌な感じだ。イチも僕を馬鹿にしてそんな風に笑うことがあるけど、こんな嫌な感じはない。


「剛田くん、ここ僕の席だよ」


静まり返った教室に、僕のやっと出した小さい声はよく通る。


「んなのわかってるっーの」


剛田くんの凄みのある声が、背筋に響く。指先が震えるのを握りしめることで抑えて、僕は俯いた。


「お前、昨日も今日もよ、アイツといたって本当か」


先程とは反対に静かな声で、俯いた僕の顔を覗き込む。僕は目を合わせないように、剛田くんの顔を見てしまわないように逸らして、頷いた。


きっとアイツ、というのはイチのことで、イチはこの学校では有名人で、何より剛田くんはイチのことが好きだった。


「っ、ふざけてんのか、お前」


剛田くんは僕のシャツの襟をつかんで持ち上げた。必然的に上がった顔は剛田くんの表情を捉えてしまって、怒りの中に悲しみの滲む表情を見てしまって、僕は黙って目を閉じた。


ガシャン。


体が宙に浮かんだと思ったらすぐ後ろの机に叩きつけられていた。肩を机の角にぶつけてしまった。その席の主がまだ来ていなかったことにホッとして、僕はまたくるであろう痛みに堪えようと構えた。


だけど、いつまでたってもそんな痛みは来なくて、恐る恐る目を開けると、俯いた剛田くんが立っていた。


「嫌がらせか。そうなんだろ。お前、俺のこと嫌いだもんな」


小さく呟いた剛田くんはそのまま僕を睨みつけて、教室から出て行ってしまった。


違う。僕が剛田くんのことを嫌いなんじゃない。剛田くんが僕のことを嫌いなんだ。僕が剛田くんの信用をないがしろにしてしまったから。


剛田くんが行ってしまっても教室は静かなままで、僕は乱れてしまった机の配置を直して、そのまま席に着いた。

担任が出欠を取りにやってくるまで教室は静かで、その間に雨が降り始めた音が聞こえた。




「ミノル、傘忘れた」


放課後、昨日イチに連れられていった場所の前まで行くと、イチが座っていた。なぜかビショビショに濡れていて、シャツから透けて下着がみえる。


「寒くないの」


僕はカバンから、絵具を磨こうと思って持ってきていたタオルを取り出してイチにかけた。


「くさい」


洗濯したとはいえ、油絵の具はなかなか落ちなくて、ところどころ色がついている。

臭いももちろん落ちてはいなくて、むしろ間違っていれた柔軟剤と相まってなかなかの異臭を発している。


イチは臭い臭いと言いながらも、どうやら自分でも透けた状態ではどうかと思ったらしく軽くシャツの水分を取ると肩にかけた。


「なにしてたの」

「踊ってた」


雨の中、外に出たのだろうか。イチの思考はなかなか読みにくい。


「あと、今日はミノルの部活の様子を見ようと思ってさ、待ってた」


イチはニカっと笑って立つと、僕の手を引いて、歩き出した。僕はいそいでカバンをかかえ直して、イチについていく。

途中で、ふと、イチが立ち止まってこちらを見た。


「あー…っと、美術部の部室ってどこ?」


頰をかきながらそんなことを言うので、僕は思わず吹き出して、今度は僕がイチの手を引いて歩いた。


イチは大人しくついてきて、また鼻歌を歌っている。

今日の曲は知らなくて、僕がなにそれ、と聞くと、雨の日の長崎の歌と返ってきた。

なかなかに耳馴染みのいい曲だった。





美術室に着くと、イチは僕より先にドアを開けた。


「なーんだ、美術部の部室って美術室なのね」


なんて感心しながら。もちろん中には他の美術部員もいて、イチの登場に驚いていた。僕はすぐに部長のところまで行った。


「彼女が僕のモデルをやってくれるっていうので連れてきました」


少し気の弱い部長は、口の中でそうなんだ、なんて言って準備室に引っ込んでしまった。

僕は他の人の絵に関心を示すイチの手を引っ張って、僕のキャンバスの前に座らせた。


「えー、私ここにいなきゃだめなの?見て回っちゃだめなの?」

「だめ、だいたいイチは美術部員じゃないでしょ、しかも急だし。他の部員みんなコンクール迫ってて集中したいの、だから大人しくそこで僕のモデルをしてください」

「えー」


静かに諭すと、イチは唇を尖らせながらも渋々椅子に座った。


僕は昨日描いた空色のキャンバスに座って、昨日のイチを思い出そうとしていた。

空とイチ。空と海と砂浜とイチ。

目を瞑れば波の音まで聞こえてくるようで、眼前に記憶が広がった。


スケッチブックを取り出して、イチを描いたクロッキーを眺める。どのイチがいいだろうか。

キャンバスに描いては塗りつぶし、描いては塗りつぶしを繰り返すが、なかなか思い通りにかけない。



「イチ、ちょっとここで飛んでくれないかな」



僕はつまらなそうに座っているイチに声をかけた。

イチはキョトンとしたあとに、なにも聞かずに頷いた。立って姿勢を整えると、イチは爪先を立てて、一気に飛んだ。



真っ直ぐに、高く、イチは飛んだ。



スローモーションのように、僕の目には映った。

足が地面を蹴る、ふくらはぎが締まる、足が前後に開く、爪先が伸びる、体が浮く、背筋が反る、顔が上がる、腕が広がる。


イチが一番上まで行ったところでものすごい光が走った。時間差でバリバリと音がなる。雷だ。


イチはそれに驚いた。まっすぐ伸びた足は不安定に揺れて、爪先も、腕も、背筋も、全てが崩れた。僕はそれをじっと見ていた。綺麗だと思った。


「びっくりした」


イチは体勢を崩しながらもなんとか着地し、僕の方へやってきた。僕はといえば、さっき見たイチをどうにか描こうと新しいキャンバスを用意したところだった。

イチは僕のそんな様子を見て、また静かに椅子に座った。



「描けた」


顔をあげれば、外はすっかり真っ暗になっていて、部員はみんな帰ったみたいだった。イチは前の椅子に座ったまま眠っていた。


「イチ」


呼んで肩を叩いた。軽く、触れる程度に、だ。なのに、イチはパッと目を覚ましかと思うと僕の手から飛び退いた。危うく椅子から転げ落ちそうになるところだった。

イチの顔は凄く青ざめていて、僕はなにを言ったらいいのかわからなかった。


「あ、ミノルか、ごめん」


イチはすぐに青い顔のまま謝ってきて、僕はただうん、と頷いた。


「お、かけてるじゃん」

無理して出した明るい声で、イチは僕のキャンバスを覗き込んだ。


「飛ぶ少女」

「絵のタイトル?」

「うん」

「いいじゃん、芸術だ」


イチは青い顔のまま笑った。

僕も笑い返した。なんとなく、イチには心から笑って欲しいと思ったからだ。


「ミノルが笑ったとこ初めてみた」


イチは目を丸めて驚いた。そして嬉しそうに笑った。もう顔は青くなかった。


「そうだっけ」


そういえば、最近はあまり笑っていなかった気がする。僕としては今まで通り過ごしてきたつもりだったけれど、感情というのは思ったより外に出てしまうみたいだ。




雨は小雨になっていた。台風は陸に上がると速いらしいから、もう過ぎて行ってしまったのかもしれない。明日は台風一過だろうか。

自転車置き場に寄るというイチを校舎の軒下で待っていた。暗くなったとはいえ、夏の時期はどこも遅くまで部活をやっていて、遠くで体育館の明かりが見える。


「おい須藤」


聞き慣れた声が聞こえた。前まではこんなに怒りは滲んでいなかったけれど。


「剛田くん」

僕は彼の方を見た。


「お前、もう」

剛田くんはそこで口を閉じてしまった。目も逸らして、でも、動かない。


「あの」

「おーい、ミノル」


僕の貸したタオルを頭にかけて小走りでやってきたイチの方を見て、次に僕の方を見て、剛田くんはぎゅっと拳を握った。


「なんなんだよ、お前。そうやって楽しいか。俺が、お前にしたことの仕返しでもしようと思っているのか」


剛田くんは顔を上げて、僕の目を見て、凄んだ。胸倉を掴んで、壁に押し付けてくる。


「あんた、ミノルになにしてんの」


僕らの様子がおかしいと気付いたイチは、自転車を止めてこちらを伺っていたようだった。


「違うよ、イチ、なんでもないんだ」


イチが来ても剛田くんは動かなかった。むしろよりキツく僕の胸倉を掴んだ。

僕はイチに剛田くんを嫌って欲しくなくて、状況の弁解をした。


「ただね、ちょっとした言い合いっていうか、……もともと僕が悪いんだ」


ギリギリとシャツの襟が僕の首を絞める。剛田くんの方を見れば、より一層凄味が増して、眼光鋭く睨んでくる。


「僕が悪いって、お前はいつもそういうんだ。そういうやつなんだ、お前は。俺は知ってたんだそれを。なのに」


息苦しい。意識が飛びそうだ。

やめてくれ、お願いだ。ここで僕が気を失えば、剛田くんはイチに嫌われてしまう。


「やめて、隆平くん」


出たのはかすかすの声だった。けれど剛田くんはそれで我に返ったかのように、僕のシャツを握った手を離した。

剛田くんは、そのまま舌打ちを一つして小雨の中を走って行ってしまった。


僕は急に入ってきた酸素が苦しくて、ゲホゲホと咳き込んだ。イチはなにも言わずに側にきて、小さくて、細くて、薄い手で僕の背中をさすってくれた。




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