一章 僕とイチと海
じっとりとした暑さの中、坂道を下っていく。
蝉の鳴き声とジリジリと照りつける太陽と青い空が全開に夏だと主張していて、気が滅入る。
梅雨が明けたと思ったらすぐこれだ。ジメジメとした日が続くのは嫌だったけれど、いきなりこんな暑さの中に放り出されたのではたまらない。
僕は立ち止まって太陽を睨みつけてみた。
だめだ、目が焼ける。
「ミノル」
ゆっくりと歩いていく僕に、後ろから声がかかった。かなり大きい。
振り向くと、自転車に乗った女の子が坂道を猛スピードで降りてくるところだった。
キキッと音を立てて、僕の横に自転車を止めると、イチはニカっと笑って言った。
「海、行こう」
「ちょっとちょっと、待って速い速い速い!」
唐突に海に誘われたと思ったら、すぐに自転車の荷台に跨らせられて、学校から続く長い下り坂を猛スピードで走っていた。怖い、でも風が気持ちいい。
少し余裕が出て周りを見れば脇道に茂る木々が次々と通り過ぎていく。楽しい。
坂道が終わると同時に自転車が止まった。
体重が前にかかって少し前のめりになると、イチの髪の毛の甘い匂いが強くなった。首筋に鼻が当たって少し痛い。こすっているとイチが振り向いた。
「はい、ここから海まで交代ね」
イチの笑顔が憎らしい。ここから続くのは平坦な道。そして海まで行くには一つ、緩やかだが、上り坂がある。
「やられた」
ふてくされながら呟くと、なにが?男女平等でしょと明るい笑顔。
強引なのに憎めないのは、何故だろう。
それがイチの魅力というやつなのかもしれない。
早く早く、と急かす声に小さくため息をついて、僕はイチの自転車にまたがる。イチはスカートを履いているのに跨っていて、そんなところはイチらしいなあと思った。
初めて話して1日も立っていないのだけど。
「全速力でいきます」
「がんばれ文化部」
まるで期待してなさそうなイチの声援に苦笑いしながらペダルに足をかける。
ぐっと力を入れると、思ったよりも軽くて拍子抜けした。二人乗りとは思えない。
そのまま漕いでいけば、緑は開けてすぐに大通りにでた。さっきほどではないが、それなりの速さで自転車をこぐと頰に風が触れる。
暑さを忘れるようで心地よかった。大通りを出て少し行くと海が見える。大きい場所ではないが砂浜が広がっていて、地元の人がよく遊んでいる。だが、今は平日の昼間だから、人はほとんどいないだろう。
後ろに座っているだけのイチは呑気なもので、鼻歌を歌い始めた。夏に似合わないしっとりとしたその歌はどこかで聞き覚えがある。
そうだ、父さんが昔よくレコードで流していたクラシックのはずだ。 僕が父さんに絵を見せに書斎へ行くといつも流れていたクラシックの曲のどれかだ。
受け取ってくれた父さんの笑顔と同時に、最近見た苦々しい表情が重なる。
あれ、父さん、どうやって笑ってたっけ。
「おーい、ミノル、ミノルくん」
いつの間にかイチは歌うのをやめていた。
後ろから聞こえる間の抜けた呼びかけになんだ、と思うと、漕いでいたはずの自転車もとまっている。
「しんどい?」
しんどいかって。そんな事聞くのか。そりゃ、
「しんどいよ」
出した声は震えていた。
しんどいよ。しんどくないわけないじゃないか。
「おーおーよしよし」
ポンポンと宥めるように背中を叩かれる。
迷いのないリズムと声に少し落ち着いた。
「僕、イチなら好きになれるかもしれない」
僕は聞こえるか聞こえないかの大きさで呟いた。イチはなにも言わなかった。
「ほれ、いくぞ」
代わりに肩を叩かれて、少し濡れた目元を拭うと今度は全力で漕いだ。
イチは立って僕の肩に手を置いて、さっきのクラシックとは別の、夏定番のポップスを歌った。ちょうど登り坂に差し掛かったところだったけれど、僕も少し口ずさんだ。
大通りを抜けると潮の香りが強くなった。
「うわお、いつみても海だなあ」
「なにそれ」
左側を向いたイチがそんな当たり前のことをつぶやくものだから、僕は少し可笑しくなった。けど、イチに習って僕も左を向くと、思わず言ってしまった。
「海だなあ」
「はは、なにそれ」
だって海はやっぱり海だった。
僕の家は大通りの向こう側にあるし、この町が海沿いにあるとはいえ、なかなか来る機会は無かった気がする。
「イチはこっち側にすんでるの?」
「まあねえ」
イチは海をみるのに夢中なようで、返事がおざなりだ。
「あ、ちょっとそっちじゃなくてこっち」
そのまま海に向かう道を行こうとしたら、イチが右を指した。近道でもあるのかと思って僕は大人しくそれに従った。
右折すると、続くのは長い住宅街だ。思ったより閑散としていて静かだった。
「はい、ストップ」
イチが言ったので止まったが、まだ海にはついていない。不思議に思っていると、イチはすぐ先にある一軒家に入ろうとしている。
「え、なに、イチ、ここ」
「ミノルすごい挙動不審だけど大丈夫?」
いつもの調子で馬鹿にしてくるので、少し腹が立った。もうあまり気にならないけれど。
「ちょっと待っててね」
鍵を開けてすんなり入っていく限り、イチの住んでいる所なのだろう。
でも、表札は「市原」ではなかった。イチは自分の家だとは言わなかった。
「おっし、おまたせ」
照りつける暑さが気になってきたぐらいでイチは戻ってきた。
制服から襟ぐりの広いTシャツとホットパンツに着替えている。
「いくでー」
そのまままた荷台に座ったイチは自分がこぐわけでもないのにゴーサインを出す。
きっと制服に砂がつくのが嫌だとかそんな理由なんだろう。振り回されている。イチに出会ってからここんとこ完全にイチのペースにのまれている。
やれやれ、とまた元来た道を戻って、海沿いの通りに合流する。開けた海はやけに開放感があって、心が浮き立った。
イチが舞う。
白い肌と、白い砂浜。青い空と、青い海。
僕は思わずカバンからスケッチブックを取り出していた。鉛筆しかないのがもどかしい。
飛んで、跳ねて、回る。
くるくると動きを変えて、イチは踊る。
線が細い。体のラインが綺麗だ。
僕は背景とイチを描き留めるのを諦めて、イチの動きを紙に写していく。
バレエは芸術だ。イチの先生の言った意味がなんとなくわかった気がする。イチは美しかった。
イチは日が沈むまで踊り続け、僕も馬鹿みたいに描き続けた。波の音とたまに聞こえてきた豆腐屋のラッパ以外は、とても静かだった。
「海ってなんで青いんだってよくいうでしょ」
「うん」
水平線に沈んでいく太陽を見ながらイチは言った。僕も隣で見つめながら、イチの話を聞いた。
「海が青いのは、空が青いからだって。でもさ、そうだとして、空だって海の青さに頼ってる部分もあるとおもうんだよね、今となっては」
「そうかもしれない」
イチの感覚は僕とは少し離れているのだろう。
言っている意味がわかるようで、わからなかった。
「あとさ、さっきの話本気?」
「なに?」
太陽が落ちてもイチは前を向いていた。僕はイチの方をみて、聞いた。
「イチなら好きになれるかもって話」
「ああそれか」
どうやら聞こえていたらしかった。僕は正直に答えた。
「わからない」
「そっか」
イチは薄く笑った。
「好きになられたら困るなって思って」
本当に困ったような顔で言うから、僕は怖くなった。
けれどすぐに、イチは続けた。
「私、ミノルと友達になりたいんだよね」
照れたような顔でイチはこちらを向いた。
「ミノル、友達になろうよ」
僕は気がつけば一心に頷いていた。
「うん、うん」
なんでかわからないけど、胸がいっぱいになって、僕はまた泣いた。
「もう、泣き虫さんだなあ、ミノルは」
イチは僕が落ち着くまで背中をリズムよく叩いてくれて、子供扱いされているようでシャクだったけれど、素直にそれに甘えることにした。
イチの手は、手だけじゃなくて、イチ自身は、細くて、薄くて、小さい。
なのに僕の体全体を包んでくれているような、そんな気になった。