序章 僕とイチ
序章 僕とイチ
長い髪の毛が風でなびく。
真っ青に晴れた空は雲ひとつなくて、どこまでも高い。そこに手脚をまっすぐに伸ばして舞う姿が映って、思わず見惚れる。
ジリジリとした暑さをわすれて、筆を握っていた手がいつの間にか止まり、青一色の背景でくるくると飛び回るその様子に僕は魅入ってしまっていた。
「描けた?」
影がさしたと思ったら、キャンバスを覗き込まれていた。白地を一面に空と同じ色で塗りつぶし、そこに足を前後に広げて飛ぶ制服姿の女の子を描こうとしていたところだった。
「なんだ、まだ全然じゃん。空しか描けてないし」
唇を尖らして言う彼女は、もちろん制服姿で、今時らしく長袖のシャツの袖を肘下まで捲り、スカートは膝よりはるかに短かった。
僕と同じ色の赤いネクタイが、白いシャツによく映える。
「油絵は乾くのに時間がかかるんだよ」
魅入っていたことがばれないように、彼女から顔を逸らして呟いた。
「嘘でしょ。私の事熱い目でみてたくせに」
カッと顔に血が上って、思わず彼女の顔をみると無邪気な笑顔があった。
「というより、見惚れてもらわなきゃいけないんだ。バレエは芸術ってよく先生に言われてる」
無邪気な笑顔は急に真剣さを帯びた。まるで自分に言い聞かせているようで、僕は彼女が危うい場所、崖の淵にでも立っているような気になった。
手を伸ばしても、彼女はそれを振り払ってその反動で落ちてしまうような、そんな際の際。
「まあ、楽しいからいいんだけど」
ふふ、とまた笑った彼女は、そういえば、と僕の方を見た。
「君、名前は?」
「……、は?」
一拍おいて彼女の言っている事を理解した僕は、間抜けな顔をしていたんだろう。彼女は声を立てて笑った。
「本当に素直だなあ、君は。知らないわけないじゃん、須藤 実、くん。」
知らないわけない、そう、知らないわけがないのだ。彼女からその言葉を聞いて僕は少し暗い気持ちになった。
「ミノルは私の事知ってる?」
早速下の名前で呼び出した彼女に多少面食らいながら、僕は目の前の女の子をみた。
胸元まであるまっすぐで真っ黒な長い髪。前髪は眉上で揃えられていて、白い肌とのコントラストがまるで人形のようだ。
「イチマツさん、でしょ」
僕の一言に彼女は大きな目をより大きく開いた。そして肩を落として言った。
「浸透しちゃってるかぁ」
満足げな表情が見られると思っていた僕は少し焦った。何かまずい事でも言っただろうか。
「いや別にそれでもいいんだけどさぁ」
もごもごと言葉を濁して言う姿は今日初めて話したばかりの関係とは言え、彼女らしくないように思った。
「ごめん、間違えた?」
「いや、間違ってはないよ。実際そう呼ばれてるからさ。まあ、自己紹介しとくと、私、市原 松子、苗字と名前の上をとってイチマツ、あとこの長い髪のせいでさ」
ああ、と僕は納得した。
確かにさっき髪の長い日本人形が頭をよぎった。
でも。
「どちらかといえばフランス人形ぽいけどな」
大きな目と白い肌、確かに黒髪はそぐわないが、愛らしさとしてはこじんまりとした日本人形よりも、派手で煌びやかなフランス人形の方が合っている。
僕の呟きは彼女の何かに触れるのだろうか。
今度はこちらを凝視したまま固まり、動かなくなってしまった。
「いや、あの、さっき踊ってるところも見たし、ええと着物よりドレスが似合いそうっていうかなんというか」
弁解しようとしたものの言葉が思いつかず尻すぼみになってしまった僕に、彼女は小さく言った。
「君も、そう思うのかあ」
それから、すぐに前の調子を取り戻して、彼女は僕に言った。
「まあ、私の事は好きなように呼んでよ。君、またここに来るでしょ」
断定的な言い方に僕はホッとしてしまった。
ここはなんとなく彼女のための場所な気がして、もう来れないのは残念だと思っていた。
「うん、またくるよ、イチ」
下の名前で呼ぶのは気恥ずかしくて、逆に周りと同じようにイチマツさん、と呼ぶのは彼女が悲しむ気がして、僕はそう呼んでみた。
思った通り、少しキョトンとした彼女は、すぐあとに満面の笑みを浮かべて、声を立ててくすぐったそうに笑った。
これから始まるのは、僕とイチのひと夏の物語である。