はじまり 02
「……駄目よ」
──声がして、音がした。
前者は澄んだ鈴の音のような、少女のもの。後者は、バチン、と何かが爆発するような、鈍いそれ。
風が巻き、部屋の中。そこに残る事実だけを端的に語るのならば、少年は未だ生きていた。
過程はわからない。解からないのだ。なにが起こったのか、何故少年が生きているのか、解からない。計り知れない。
なにせ、状況はほとんど変わっていないのだ。
『板』と少年は変わらず対峙し、その間合いも、立ち位置も変わっていない。
変化は、一つだけ。
少年の直ぐ傍、『板』との間に、一人の少女が立ちはだかっていた、ということ。
いや、少女というよりは幼女、いや童女と言うべきだろうか。紅をさしたように赤い頬。紬につつまれ、洗練されつつも丸くぷにぷにとした印象の抜けない矮躯。年月を示すように艶やかに長く伸びた黒い髪。その全てが子供を示しながらも、内側に大人を内包し始めている、そんな年頃に見える。
ともかく。
そんなあどけなさの残る容姿の、少女と幼女の中間のような女の子が、手のひらを『板』に向けて突き出して、立っていた。立ちはだかっていた。
現象としては、それだけなのだ。
ただそれだけで、否応なく訪れるはずだった少年の死の運命は回避された。
少女がいた。少年は生きていた。
本来ならばそれらの要因と結果に因果関係は見受けられない、はずだ。少女ごと吹き飛ばされてぐちゃぐちゃにひき潰される。それが正しく辿るべき少年たちの運命だろう。少なくとも、常識の範疇では。
しかし、事実はそれを認めさせてはくれない。例えそれが真実ではなかったとして、起こった現象そのものを否定することは誰にも出来ない。
現象と結果、そしてそれらを繋ぐ過程と因果を至極単純に言い表すならば、こうだ。
少女が少年の前に立ち、『板』から放たれた正体不明の攻撃を防ぎきった。故に、少年は無傷である。
それは、結果にして、揺るぎのない大前提。
たとえ、そこにいかなる不可思議か絡んでいようとも、事実は事実なのだ。いかに不可能に見えようと、どれほどの謎が残っていようと、起こってしまったことか揺るがない。
その謎を紐解く鍵、古来より語られてきたルールが一つ。現象として存在する人知を超えた何かすら縛り付ける、強固な制約がある。
曰く──不可思議は不可思議に。奇跡は奇跡によってのみ打倒される。
そう。つまりは、不可視の暴力を不可思議な手段で防ぎ切ったこの無表情な少女は、いかに人間に見えようと、おおよそヒトに分類されるものではない。それがやはり事実であり、真実であると、結果はそう告げていた。
「……今、俺危なかったか?」
砲撃が止み、数瞬の空白の後。少年は、今さらながらに冷や汗を額に滲ませ、しかし、実に軽いトーンで問う。
「…………」
返事はない。少女は無言で無表情のままだ。
ただ、つうと向けられた視線だけが言いようのない圧力を放っていた。当然でしょう、とでも言うように。
「なぜ、なぜ死なない、小僧ぉ!」
声に反応し、少女がジロリ、と視線を向けたその瞬間、再びの爆裂音。けれど、その見えない攻撃は、またしても少女の目の前で、軽い破裂音を残してその威圧を失う。
「無駄だって──」
「くそっ、くそっ、くそっ、畜生があ!」
「──言ってんのが、解らんのかね」
悪態と共に放たれる無数の悪意は、しかし、ため息をつく少年はおろか、少女にさえ届くことは無かった。
少女が突き出した小さな掌の手前で、悉く音を立てて弾けて消える。まるで、そこに見ることの叶わない壁でもあるかのように。
不可視の攻撃は、不可視の防壁によって阻まれる。
バチンバチンバチン──数えきれない破裂音がしばらく連続し、それから、不意に止んだ。
少年は、靄ががった視界の向こう、『板』へと視線を向けて、それを見た。
「はっ、はあ、ふひ、はあ」
『板』が肩で息をしていた。息切れていた。
おかしな表現かも知れないが、それがこの状況を何よりも正確に表していると言えるだろう。
「……そろそろ諦めろよ。俺たちはそれを『どうにかする』ために来たんだ」
その姿に少年は言う。『板』にむかって語りかける。まるで、人に向かってそうするように。
「別に、アンタを捕って食おうってわけじゃないし、それに」ぴしり、と指をさし「なによりソイツは、アンタの手に余るだろう」
「わ、ワシはこれを失う訳にはいかんのだ。こいつは奇跡だ! 冴えないワシの人生を一変させた奇跡だ! 手放せん! 絶対に。絶対に絶対に絶対に!」
『板』がようやく人らしい長い言葉を発した。野太い声、その上どこか壁に遮られているような、くぐもった声であることが、今さらながらに解る。
「こいつは、この石はワシの希望なんだ。力をくれた、虐げられていたワシへ、神様の贈り物だ」
「……アンタはさ、その神様の力を得て、何のために、何をした?」
少年の声が、わずかに曇る。何かを必死で押しとどめようとしているようだった。
「理想の世界だ! ワシとワシを信じるものだけで構成される希望の世界。ワシはそのために、この石の力を使ってきた。皆を救うために!」
「……そんな風に簡単に言えちまうもんは、真実じゃない」ため息が混じる「いいか、一つだけ教えてやろう。俺は、アンタがしたことを、解かってる」
「っつ!」
『板』が、息をのむ。動揺と共に表面の模様がざわついた。
「全部知ってる。知ってるんだ。いいか、その上でもう一度問うぞ。──アンタは、その力で何のために、何をした?」
「それは──」
明らかに言葉に詰まる。もし、この『板』に目があったのならば、間違いなく盛大に泳いでいただろう。それほどの狼狽が、滲み出ていた。そして、ぶつぶつと声が響く。
石、死、勝手に、邪魔、救うために、世界、使命、意思、石──断片的な独り言、出来損ないの自問自答の末に、そして『板』は、
「──そ、そうだ」
何かすがるものを見つけたかのように早口に、そして妙に明るい語調で言葉を繋げる。
「こ、この石だ! この石がワシにああさせたんだ! そうだ! ワシの所為じゃない! ワシはただ──」
「──違うっ!」
怒号が飛んだ。
ひい、と『板』から発せられる男の声が、ひるみ、その雄弁を途中で止める。
「違うさ。奇跡に悪意はない。奇跡に善意はない。奇跡は──ただ、そこにあるだけだ」
少年は一転し激昂を飲み込み、今度は淡々と、語り始めた。
彼が知り得る一つの真実を。
奇跡にまつわる、謎解きを。
「『限りある奇跡』の在り様は、それを扱う人間によって左右される。なぜなら、人間だけが、どうにもならない現実に対して、奇跡を欲し、希うから」
「う、ああ、う、うあ……」
うろたえ、最早意味をなさない音だけを上げる『板』に対し、少年の言葉はどこまでも冷静で、しかし、静かな熱に満ちていた。
「奇跡の善悪の天秤は、持ち主の心の偏りに。問題はさ、アンタがそれを何のための何に使ったか、だよ」
そうして、もう一度『板』を指さし、少年は、青い焔を封じた氷の声で、問う。
「さて、そうなるとさ──この奇跡は、一体どちらに傾くんだろうな?」