セレンティアの紅茶
僕がひとりで外に出て井戸から水を組めるまでに体力が回復したのは翌日の昼頃だった。
「歩けるほどには回復したみたいだね。よかったよかった」
井戸のロープをたぐっている間に、背中に聞き覚えのある声がした。
恩人であるその男はヴァレリー・ギゴフと名乗っていた。
そして、たいまし。大? いや、退魔師……で、合っているのか。聞き覚えの無い職業だった。
「いざ前に立ってみると、背が高いねえ。なはは」
僕と彼は身長差がたしかにあった。
僕の頭二つ分は離れている。平均的な身長からすれば僕は大柄だが、このヴァレリーという男も平均からみれば低い方だった。
見下ろす僕の頭の高さにヴァレリーはステッキをひょいひょいと伸ばしている。
「昨日はありがとうございました」
なんにせよ、お礼が先だった。
ヴァレリーは「なはは」と笑い、彼の頭上に伸ばしているステッキを定位置の横に戻した。
「なーに、……まあ、入ろうか。パンを買ってきたんだ。まずは腹ごしらえだ。
フィリップ君もお腹がすいてるだろう」
そういって、体をひねっては背負っている膨れた革袋を僕に見せた。
まさか、それ全部パンなのか。
その予想は部屋の中で当たっていたと知るのだったが。
パンの山を見た途端に僕の腹から地響きのごとく鳴り響くのを聞いて。
「ひょっとしたら、これじゃ足らないのかもしれんねえ」
などとヴァレリーに余計な心配されてしまった。
足りる、と、思う。たぶん。
「さ、食べようか、私はこれとこれを貰うよ」
沢山あったパンのうち、ヴァレリーは2個を食べ、他は全て僕が平らげた。
正確な数は覚えていないが、10個前後だったと思う。
実に2日ぶりの食事だった。
完食し、一息つく。
外から日差しが強く差し込み、窓から床にかけて光の柱が出来ている。
柱を形作るそのわずかに見ることができる埃を眺めていると、時間がとまってるような感覚になった。
外にあるかまど場へ行き、前もって煮立たせていた釜からお湯を汲んできたヴァレリーが戻った。
「紳士ならば、紅茶を飲まねばならんのだよ。この茶葉は我が愛しの生まれ故郷セレンティア共和国の全国民がこよなく愛している茶葉でね。これが無ければ私の午後は始まらんのだ。食後のこのひと時こそ、生きているとこの上なく実感できるひと時なのだよ。もっとも今日は休業なのだがね。あー、砂糖はいるかい? いるよね。遠慮は要らない。ちょっと多めに入れておくよ」
僕は甘いものがそこまで好きな訳ではないが、僕を気遣っての言葉だと理解出来ていたので甘んじた。
生きている、か。
ヴァレリーは紅茶の入ったティーカップを渡された。ヴァレリー自身の手にも同じカップがある。いつも二つ持ち歩いているのだろうか。
テーブルを挟んで座り、二人静かに紅茶をすすった。
「ふむ、ところでキミは魔術師ではないのか?」
ヴァレリーは少しばかり身を乗り出した。
魔術師な訳が無いと言った筈だ。いや、言ってはいないのか。
ただの兵士だ。魔術師はもとより、魔法がどうやって発動するものなのかもわからない。
「僕は、魔法なんてなにも使えない」
「魔法……ね。魔術の知識も?」
「ああ何も、たしか、矢や投石を防ぐ……障壁、か。それを貼ったり。火を出して撹乱させたり——、剣を強くしたり——」
ヴァレリーはふむふむと頷く。
「——なるほど、戦争で使われる魔術くらいしか見た事が無い。というわけだね」
少し考えた後、僕は頷いた。
ヴァレリーは一度紅茶を口にした後、カップを置いて話しだした
「そうだね。前期の魔王が死んで20年が経つ。いわゆる人類が優勢な時代に僕たちは生きているわけだ。
魔物なんてものは滅多に見ることがない。居るところには今なおも居るし、未だ踏み込めば帰って来れないような危険な土地だってあるが。そんな例外を除けば魔物達がすすんで人類を襲うことなど無い、平和な時代だね。向こう数十年は次の魔王は現れる事が無いと言われているが、同時にこの世界に生まれる魔力の総量が減る時期にある。魔力衰退期って単語は聞いた事くらいはあるはずだよ」
そういえば、そんな言葉を聞いた事があったような。
「魔術師<ウィザード>のような純粋なスペルキャスト、ええとキミの想像しやすい魔法使いっていうのが弱体化、つまり今現在は役立たずになる時期というわけさ。弱いとはいえ実戦で使える程度に能力が残る天才級は稀にいるし、条件がそろえば魔王がいる時代と変わらない威力を発現させることも可能だ。環境が整えさえすればその発展の呪術<ネクロ>が使える。なにより、この時期に魔術師に替わる、魔力衰退期における魔術分野の主役、魔方陣を扱う付与師<エンチャンター>が活躍するのさ」
頷かない。僕は話の途中あたりからわからなくなっていた。
どうやら魔法使い。魔法という単語はあまり使われてないようだと言うのがなんとなくわかる。
「なるほど、なるほどなるほど。一般的に知られる程度にはわかると踏んでいたが、私の予想していた以上に詳しくないようだね」
遠回しに無知と言われているが、おそらくヴァレリーに悪意は無い。
淡々と事実を述べている。それが質が悪いと言えば悪いのだが。
驚くべきは、自分が話している間、僕の挙動、きっと目の動きや手の仕草あたりを観察してどこまで知っているかを見抜いてしまったところだ。
いや、どこまで見抜いたかなんてこちらが察することは出来ないが、それでもこの男にはあらゆることを見透かされてしまいそうな圧倒的な何かを感じる。
「知識は無い、か。ふむ。では、フィリップ君これが見えるか?」
そういって、ポケットから何か取り出して、テーブルに置いた。
ただの石か。なにかキラキラしているものが埋まっている。宝石、の原石だろうか。
「鉱物、なんの鉱石かはわからない」
「……目を凝らしてよく見て見なさい」
石については魔法、いいや、魔術以上に知識がない。
じっくり見たとてわかるとは思えない。
それでも僕は言われた通り顔をテーブルの置かれた鉱石に近づけてじっくり観察する。
「…………それからでる怨霊は見えないかね?」
予想外な解に僕はすかさず顔を引き、背ものけぞらせた。
引きつった顔のまま僕はヴァレリーを見る。
なんていう物をっ……。
僕は額から鼻柱をなでて、何か付いてないか確かめる。
「なはは。くっつきはしないよ。しかし、見えないか。細長い単葉植物のような白い顔——」
「——見えない。下げてくれヴァレリー」
残念そうな顔で石を自分のポケットにしまうヴァレリー。
僕は姿勢をなおした。
「害はないんだがね。昨日捕まえてきた霊魂だ。正確には魔力と合わさって魂と呼ばれるものとはまた別の物になってしまっている状態なのだがね。心配ない、その石に入った者達は暫く経てば霞と消えるさ。しかし元々人であったものに違いは無い。悲しいものだよ」
これまでに無い悲しそうな顔をして話すヴァレリーを僕は頷きもせず聞き続けた。
たしか、退魔師と言っていた。呪術とも。
「魔術の話はしたね。その魔術の分野をさらに細かく分けた一つに呪術と言うものがある。
言葉の通り、呪いを術としたあまり表に出せるようなものでないジャンルなのさ」
生き物の魂や肉体を媒体とする魔術で、主に怨恨や悲哀など制御しやすい負の感情を魔力に変換する応用魔術。
そう、ヴァレリーは説明をした。
「元々は魔物が扱う術であったのらしいのだけど——」
「いまは人間が?」
「ああ、きょうび呪術なんてものは人間が人間を使って人間に対してつかうことがほとんどさ」
ばかばかしい。そうヴァレリーがボソリと付け足した。
少しの間静寂がこの部屋を支配した。
パン!
ヴァレリーが手を叩いて、静寂を打ち消した。
「ふふん、柄でもないね。失礼したよ。さ、気を取り直して約束通り、キミの身の上話を聞かせてもらおうかな」
結局さっきまでの話や鉱石を見せた意味はわからぬまま本題に入った。
主導権は僕に無い。話す他ない。
もっとも「気を取り直す」に値する楽しい話などではない。
僕は深い息をつく。
「わかった。話そう」
「うむ、頼むよ。あ、待ってくれ。お湯を新しくしてこよう。キミも飲むだろう、フィリップ君」
「この紅茶は、おいしい」
「なはは、だろう?」
外へ出て行く彼の足取りがしっかりとしていないようだが、気のせいだろうか。
まあいい、今は僕は僕のことを考えるべきだ。
包み隠さず話そう。
僕のこれまでの話を。