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傷痕  作者: ジュン
1/1

⑥⑦

〔6〕 十二月二十一日


 三岸電機株式会社大阪製造所。

 漆黒の太陽光パネルが設えられた白色の長方形の建物。何十枚もの窓ガラスは規則正しく配列し、鏡の様に周りの夜の街並みを映し出している。

 製造所の向かい側の公道。物影に潜む一人の男は夜の暗がりに潜みながら辺りをキョロキョロと見回していた。緑色の作業着を着た福沢秀雄は静かに瞼を閉じ忌わしい記憶の糸を辿った。

着古した作業着の饐えた臭いが、鼻腔内を侵食していく。

 秀雄は目を開ける。

 生気を喪失した虚ろな目で、製造所の入口付近を見据えた。入口から出てくる鬼が一匹――自分と同じ作業着を着た鬼――相変わらず勤務を終える時間は、昔のままであった。

 秀雄は、力いっぱいに拳を握りしめ口元を一文字に結んだ。

 あの鬼が疎ましい。

 自分を絶望へと突き落したあの男――上代(かみしろ)(こう)(ぞう)を、どのようにしてこらしめてやろうものか。秀雄は憎悪の念に囚われ、完全に理性を失っていた。作業着のポケットに忍ばせていたダガーナイフを徐に取り出し、殺傷能力に優れた神々しいほどの両刃に恍惚とする。

 ずっと夢見ていた。

 上代興三を亡き者にする日を。

 上代がふいに口にした一言のせいで、自分は会社を解雇され、人宝教に縋り、家の財産までも喰いものにされ、そして残ったのは、絶望的な現実だけだった。

 全ては仕組まれた事だったのだ。

 あの日。福沢家に保城光が訪れた。

 光は、全ての真相を秀雄に打ち明けたのである。秀雄は震撼し、衝撃の事実を知り、ついに眼が醒めたのである。上代は光と組んでいたのだ。

 上代は、人宝教の幹部だった。

 表では三岸電機株式会社大阪製造所の工場長という顔を持っていたが、裏では、人宝教の幹部として保城家を代代支えて続けてきたのである。

 上代は歳終えた福沢秀雄を解雇し、光に彼の戸籍を暴露したのである。秀雄は彼らの謀略に嵌り、終には家族の信頼でさえもなくした。

 しかし何故、光が自分に上代との企みを話したのか、彼には未だに理解する事は出来ない。いや、それ以前に、憎悪と復讐の念が彼の頭蓋内を占拠していた為に秀雄は理性すら失っていたのだ。


 上代が何食わぬ顔で、こちらに向って歩いている。秀雄は歩道を低姿勢で駆け抜け、製造所の近くにある自動販売機の裏に身を潜めた。

 あの猿の様な面。禿げあがった頭。機嫌の良さそうな表情――何もかもが気にくわなかった。自分を団体に入れ、莫大な財産を奪っておいて上代は現在をのうのうと生きている。その事実が秀雄にとってはたまらないほどに憎ましかった。

 殺してやる。

 秀雄は、草食動物に狙いを定めるライオンの様に身を屈め、上代の背後から一歩、また一歩と彼との距離を縮めていく。秀雄は、ダガーナイフの柄を力一杯握りしめ、上代の背中に狙いを定めた。銀色の刃が光る。街角のカーブミラーだけが、殺人事件の現場を無情に映し出していた。

 秀雄が今まで抑圧された感情を剥き出しにした。憎悪の解放。

 秀雄が叫ぶ。叫ぶ。叫ぶ。上代が振り向く。上代の背中に銀色の牙が突き刺さろうとしたその刹那、何者かが、秀雄の躰に体当たりした。吹き飛ぶ秀雄。上代が、般若の如き形相で尻もちをついた。秀雄が地面に倒れ込むと同時にダガーナイフがけたたましい金属音を奏でながら、アスファルトに叩きつけられた。

「なっ、なんだ」

 上代が錯乱状態のまま訊ねた。

 無言で膝まづく二人を見下ろす男。

 仲尾である。

「まさか、本当に貴方がこの人を殺すなんて思いませんでしたよ。福沢秀雄さん」

 仲尾が背中を震わせる秀雄に言った。

 上代は地面に転がったナイフを見て、作業着の股部に染みを作った。ようやく状況を呑み込んだ様である。

「お、お前ぇ、わしを、このわしを殺そうとしたのか?」

 上代が、醜く叫んでいる。

 秀雄は赤ん坊のように地面を這いつくばり、そして――再びナイフを握ろうとした。が、素早く、ナイフを蹴り飛ばす仲尾によって、最悪の事態は回避される。

「おっと、いけませんよ。せっかくの証人を殺されるなんて事になったら、僕の出世に響きますからね」

 上代は、顔面蒼白なまま安堵の息を吐いた。額に夥しい量の汗をかいている。

「証人だと? 一体何の話だ」

 仲尾は、地面でゴキブリの如く這いつくばっている秀雄に憐れむような目を向けながら、こう言った。

「上代興三さん、――貴方は新興宗教団体人宝教と繋がっていますね。貴方の経歴を詳しく調べさせて貰いました。貴方は人宝教の幹部としての顔を持っている。自ら抱える社員の人たちに不条理な解雇通知を与え、団体に入れるという一連の流れを辿っているのは、ここにいる秀雄さんだけではありませんね?」

 上代の顔面が歪む。

「馬鹿な。そんなデマどこで訊いた。私がこの男を解雇したのには真っとうな理由がある。この男の能力は、年々に堕ちていく一方だった。その反面彼の給料は若い社員たちの倍はある。この男が反感を買うのも無理はないだろう」

「――そして、貴方は金蔓をまた一人、絶望へと突き落したわけだ」

 仲尾は、何もかもお見通しのようである。

「ふざけるな。あっ――そうだ。証拠だ。証拠はあるのか」

「――それは、この人が知っています」

 仲尾は、秀雄の背中に目をやる。「話してくれますね。――いや、貴方はもう犯罪者だ。殺人未遂を起こしてしまったのだから。貴方は、何もかも話さなくてはいけない」 念を押すように言うと、秀雄は、訥々と言葉を吐き出し始めた。

「上代と光様がグルだったと知ったのは、光様本人がおっしゃったことです」

「なっ」

 上代の顔が氷結する。

 裏切られたのだ。

「――上代さん。貴方ももう恐らく人宝教に必要ない存在だったのではないでしょうか。だから、保城光は、秀雄さんを使って貴方を殺させようとした。まぁ僕の活躍で見事にそれは阻止されたのですが」

 上代はすっかり生気を失い、地面に顔を埋めた。

 弛緩した上代の緑色の背中は、何とも哀れである。

「馬鹿な――あの男が、わしを裏切るだと。馬鹿な、そんな事は有り得ない。わしは、実朝様の代から、ずっとあの一家を支えてきたんだぞ」

「上代さん残念ですが、これが現実です。僕が秀雄さんを止めなければ、貴方はもうすでにこの世にいない」

 上代はアスファルトを叩く。叩く。鈍い音が響いた。

「嘘だ――嘘だ。嘘だ」

 上代は、聴くにも堪えない醜い声音で泣いていた。

 

 仲尾は、転がる無機質なナイフを拾い上げる。死んだように俯く二人の男の背中は余りにも暗く寂しいものであった。仲尾はおもむろに空を見上げる。

「黒宮白陽――本当に彼女は神なのかもしれない」

 仲尾は夜空で輝く満月を見ながら、そう呟いた。

 仲尾は黒宮があの日、自分の耳元に囁きかけた言葉を思い出していた。


――福沢秀雄が務めていた会社を調べなさい。美奈子の父親は人を殺すわ――





〔7〕 一二月二四日


――全てを終わらせましょう。


聖夜(クリスマス・イヴ)が神戸の街を活気だたせる頃、黒宮白陽から招集命令が下った。私達は、人宝教本部に集められたのである。

一般の信者に目につかぬように、私達は講堂内でも普段はほとんど使われることのない予備室に集められた。八畳ほどの部屋で、大きなテーブルが一つ中央に置かれている。

午後六時。

 部屋の中にいるのは保城雪子、仲尾刑事、福沢美奈子、佐伯月乃、そして私の四人だけであった。仲尾刑事から秀雄の一件を聞いた美奈子は、複雑そうな表情である。父親が見つかったはいいが、犯罪者として警察に補導されたのだから無理もない。

 結局、私は美奈子の力になってやることは出来なかった。

 その時である。

 予備室の扉が開いた。

 エリザベート嬢の登場である。

「あら、一人足りていないようね。困ったわ」

「先生、雪子さんも、光さんの居場所は分からないそうだ」

「そうなの。――まぁいいわ」

 黒宮はそう言って、仲尾刑事の元へ歩み寄る。彼女は、再び彼の耳元に囁きかけている。黒宮の甘い香水の香りを直に嗅いだ仲尾刑事は、恍惚とした顔で、「はい! 分かりました」 と言って予備室から出ていった。黒宮の言った事など予想出来る。大かた彼女は光の居所を掴んでいるのであろう。

「あの、何をしようというのですか?」 雪子が問うた。

 雪子には、黒宮がこれからすることを伝えていない。いや、私ですら何が起こるか予想しきれないのだから伝える事が出来なかったのだ。

 酷く居た堪れない心境だった。

 凛とした蒼い眼が、雪子を捉えている。

「神退治――とでも言うのかしら」

 黒宮が物騒な事を口にしたものだから、部屋の中は一瞬にして静まり返ってしまった。つくづく無礼な女である。だが、その無礼者に縋るしか道の遺されていなかった私にとっては、彼女が神の様にも映った。私の神と、雪子の神が衝突する――予感がした。

「優秀な小説家と刑事のおかげで、団体の事は大かた分かったわ。六十年以上も前に保城時宗によって設立された宗教団体――人宝教。しかし、その神の社は愚かな子孫達によって壊されてしまった。原型をとどめぬほどにね」

 黒宮は怒っているのだろうか。

 静謐な語りとは裏腹に彼女の眼は見た事もないほどに鋭かった。

「何を言うのです? 一体、貴女はどなたですか。いきなりこんなところに連れて来て、私達の事を罵声するなんて失礼とは思わないのですか?」

 雪子も、黒宮の直接的な言動に些か苛立っている。淑女を演じている余裕も無いようであった。

「思いません。事実ですから」

 黒宮は、そう言うと雪子の躰が一瞬硬直したように見えた。

「――貴女は一体……」

 私は、

「占い師ですよ」 と言った。

「占い師?」

「ただし、本物だ」

 私が念を押すように言うと、雪子はいつものように冷静さを取り戻し、黒宮の話に耳を貸した。まるでどこかの名探偵の様な語り口の占術師は、見ているとどこか滑稽であった。

 あぁ――

 終わるのだ。

 全てが。

 直観だった。

「保城雪子さん、貴女の経歴を詳しく調べさせて貰ったの。さっきここから出ていった男は刑事よ。彼は優秀で、私が調査して欲しい事をほぼ完璧に調べ上げてくれたわ。おかげで、貴方の息子さんの謀略も阻止された」

「謀略ですって? 貴女は何を言うのです?」

 雪子は狼狽した。

「さぁて、どこから話せばいいのかしらね。――雪子さん貴女は十年前、神戸の病院に勤めていたわね。確かそう、名前は海聖病院。貴女は看護士だった」

 雪子は表情を強張らせ、

「はい。確かに私は、そこに十八の頃から務めておりました」 と言った。

「――偶然なのかしらね。貴女が務めていた病院に、人宝教先代教主保城実朝、道子夫妻も運ばれた。そして、二人とも入院して間もなく亡くなった――この事実に嘘はないわね」

「私が二人をその病院に預けようとしたのです。勤めていた病院ですから、医師達の技術を信頼しておりましたし彼らなら、二人を救ってくれると信じて疑わなかった」

「本当にそうなの?」

 黒宮が問いかけると、雪子の顔が蔭ったように見えた。

「先生、いい加減な事を言っているんじゃないだろうな?――だとすればいくら僕でも貴女を許さない」

「黙りなさい。貴方に付け込まれる隙など私には無い」

 私は、ぐっと低い声を洩らした。

 ただならぬ雰囲気に圧倒されたのだ。

「嘘ではありません。事実です。アメリカの医師との合同研修も月一で行われ、癌や白血病などの難病に関する知識も豊富な病院でした。――だから、私は」

 雪子の必死な訴えを、一刀両断するかのように、黒宮は、

「実朝と、道子の死因が本当に病死だったならね」

 と、言った。

「な、何を言うのです?」

「確かにその時の医師の診断書には、二人の死因は病死と記載されていた。だけど、それは、貴女が仕組んだ事じゃなくって? いや、貴女達と言った方がいいのかしら」

 何を言っているのだ。この女は。

 置いていかれている。

 この二人に。

 雪子は、黒宮の余りの剣幕に圧倒され押し黙ってしまっていた。

 すると、また予備室の扉が開いた。

 仲尾刑事が、保城光を連れてきたのである。

「ようやく、全員揃ったわね」

 黒宮が、柔和な笑みを浮かべた。

「先生、どうして彼の居所が分かったんだ」

「ふふふ、そこにいる女と、光が繋がっていると知っていたからよ。吉秋くん。貴方はこの女の言葉を鵜呑みにして、光が本部に居ないと思い込んでいた。しかし、それは嘘なのよ。彼はずっとこの講堂の隣にある雪子さんが根城としている家に住み続けてきた。ずっと、ずっとね。二人の仲が悪いなんていうのは、信者達が勝手に思い込んでいるデマに過ぎないの」

 全身に戦慄が走った。

「馬鹿な。そんな事、調べればすぐに分かる事じゃないか!」

「確かに調べればね。だけど、貴方は雪子さんと光の関係を一度たりとも探ろうとしたのかしら?」

 私は絶句した。

 私は、冒頭に秀雄から聞いた、雪子と光の不仲説をすっかり信じ切っていたのである。だから、雪子を罵倒するばかりの光を忌わしく思い、子供だと軽蔑していたのだ。

「保城雪子。貴女は最初から光さんと繋がる為に団体に入った。そうね?」

 雪子は黙っている。

 ここで、さきほどまで黙っていた光が漸く言葉を発する。

「止めろ」

 と淡白な一言を言った後、光は話を続ける。

「何を掴んだか知らないが、いい迷惑だ。僕達は神の末裔、何人たりとも我々の神域を犯すことは許されない」

 黒宮はそんな正義を冷たい目で睨みつけた。

「仲尾刑事。当時、実朝と道子の担当医師は何と言ってたの?」

「はい。実は中々連絡がつかなくて苦労しましてね。海聖病院のあらゆる医師に訊き回ってようやく居所を掴めましたよ。二人の担当医だった男は、今は灘区の住宅街でひっそりと暮らしていました。――嘘の供述をすれば公務執行妨害で逮捕するぞ!っておどしてやったら、すぐに白状しましたよ。――黒宮先生、実朝と道子の死因は病気ではありません」

 空気が凍った。

 黒宮が口元に弧を描く。

「よくやったわ」

「いえ」

「――では一体、先代夫妻の死因は何だったのか? それがこの事件のキーワードなの」

 黒宮はまるで幼児に語りかける母親のような物言いである。

 奇怪な占術師に皆の視線が一斉に集中した。

「仲尾刑事。話してあげて」

 仲尾刑事は胸元に忍ばせておいた黒革の手帳を取り出し、メモを見ながら流暢に語る。

「えぇ、まず二人の死因についてなのですが。担当した医師が言うには、二人の体内からはコルヒチン、グリコアルカロイド、アルカロイドという毒素が検出されたそうです。この中でもコルヒチンという毒素は猛毒の類に属するらしく、二グラムも摂取すれば死ぬ。怖ろしい毒なのです」

「毒だと――先生まさか」 嫌な予感がした。

「仲尾刑事。続けて」

 仲尾刑事の更なる語りは続く。

「はい、しかし、どこからその毒素を口にしたのか二人の治療を行った医師も分からなかったそうです。困り果てた医師の男は警察に事情を話してみてはと、実朝さんの息子、光さん。君に勧めたそうですね」

 仲尾刑事は、光に視線を投げた。光は黙り耽っている。

「――そして君はその勧めを拒絶したんだ」 仲尾刑事はきっぱりと言い切ったのである。

「何故だ! 彼は、その人は母親を愛していたんじゃないのか? 道子さんの死を嘆いていたんじゃないのか。彼にとっての唯一無二の母親は道子さんじゃなかったのか?」

 私は気が動転してしまい、自分でも驚くほどの大声を出していた。

「違うのよ。吉秋くん」 黒宮は慰めるように言った。

 私は弛緩しその場に膝をついた。

「早く結末を話せよ。先生、でないと僕は狂しくなってしまいそうだ」 私は、悄然とした声を吐き出す。

 黒宮は、居竦めるような眼を、保城雪子、光に向ける。

「そう、貴方達は、先代教主夫妻を毒殺し、あろう事がその担当医だった男に賄賂まで流し、偽りの診断書を書かせたのよ。白血病と癌といういわれのない病気を偽り、二人を抹殺した。道子を殺したのは、光。そして、道子の後を追うように死んだと見せかけて毒殺したのは、後に実朝と再婚した雪子さん。そうね? ――貴女は、母親の強い信心や病院での過度のストレスから、とうとう仕事が出来ないほどに体調を崩してしまった。そして、母親の強い勧めを拒みきれずに貴女は人宝教に入ることになる。その時の貴女には目的があった。母親が団体に貢いできた金を取り返してやるとそんな背徳的な念で団体に入った。――貴女はすでに光の事を母親から聞いて知っていたの。実朝が教主を務めていた時は、息子の光が幹部を務めていたらしいじゃない。貴女の家にも光は何度か来た事がある。そうね?」

「違います。違います……」

「違わないわ。光と貴女は、会費の徴収という口実の元で、幾度となく密会を重ねて愛を紡ぐ事になった。――そして光は、貧困に苦しむ信者、雪子を見て 『神』 を信じなくなったの。光は苦しんだ。苦しめば苦しむほど、雪子がいとおしくて、救いたくなった。愛に狂った光は、ついに母と父の抹殺を決意するの」

 ここで、光の我慢は限界に至ったのか、突然、喝破したのである。

「止めろ。何なんだ! 何なんだよあなた達は! さっきから黙って聞いていれば詭弁ばかり言って、これ以上、父や母の理想を汚すのは止めろ」

 黒宮に光の想いが届く事は無かった。

「――二人の理想を汚したのは貴方でしょう」

 光は、ゆっくりと床に膝を付いた。


?


「貴方は愛する雪子を苦しめる父が疎ましかったのでしょう。そして、雪子を身内に迎える事でそれを回避しようとした。貴方は実朝が雪子を気に入っていたのはよく知っていたし、雪子を救う為にも保城家が貯め込んだ財産の必需性もよく理解していたから、まずは雪子を実朝の妻に迎える事で彼女に遺産を分け与えようとしたの。まず母親を毒殺し雪子の病院に預け、賄路を流し、診断書の虚述をさせる。続いて雪子を実朝の妻にし、実朝を毒殺。同じ手口で、完全犯罪を目論んだ。金が人を壊してしまう事は、貴方達は身を持って知っているから。どうしても早く目ざわりな両親に消えて欲しかったのね。でないと、貴方達の理想郷を築く事が出来なかったから」

「――この二人が築きたい理想郷?」

 月乃が、意味が分からないと言った面持ちで問いかけた。

「まさか」

 美奈子が絶句した。

「――それは、誰にも邪魔されない世界で、いつまでも一緒に暮らす事。邪魔ものが居ない理想の世界を作るには雪子と光の不仲説を、信者達の間に浸透させねばならなかったの。そうしないと、もし二人が恋仲という事が知れれば、雪子や自分に疑いの目が掛かる。もしかすると実朝を病気に追い込んだのは雪子だと、信者達から罵倒される日がやってくるかもしれない。光は愛する雪子を守りたかったの。光は雪子を実朝が残した鳥籠に閉じ込めた。そして時たま信者達の前で、雪子を罵倒する度に、彼は純粋な心を痛めていたの。吉秋くん。貴方も知っているでしょう?」

 私は思い出した。

 私はあの時、二人が口喧嘩を交わしている場面に遭遇してしまっていたのだ。

 あれは演技だったのか。

 何とも屈折した恋愛である。私は頭が痛かった。

「先生、しかし、理想郷を創る為には、実朝と道子の殺害だけで十分だった筈だ。何故わざわざ秀雄さんを使って人宝教幹部、上代興三を殺さなければならない?」

「その件については、仲尾刑事の方が詳しいのかもね」

「はい。取り調べを行っている際、上代は白状していましたよ。保城光さん、貴方は上代と以前から色々と揉めていたそうですね。何でも上代が信者から徴収してくる上納金が少ないとかなんとかで――貴方は上代が金を横領していると睨んだわけだ。そして、上代を他の幹部を使って探らせた結果、黒だと分かった。――それで、貴方は人宝教に洗脳された秀雄さんを使って上代を殺させようとした」

 裏切ったのは上代の方だったのか。

「素直に二人が結婚する道は無かったのか」

 私が訊ねると、黒宮は、「無理よ」と冷たく言った。

「先代は、人宝教に入った雪子を一目見て、酷く気に掛けていたの。勿論、道子を愛する感情とは別だったと思うけど、当時まだ若かった光はその背徳的な事実を黙って見ている事しか出来なかった。その間にも、雪子が必死に働いて稼いだ金は、雪子の母親に馬鹿げた信心によってどんどん団体に流されていく。貧困に苦しむ雪子をこれ以上見ていられなかった光は、とうとう父親の微かな恋心を利用して計画を実行したの」

 納得できない。

 そんな下らない理由で、人が人を殺すというのか。

 詭弁(きべん)である。


 美しい淑女はここで漸く弁解の余地を見せた。

「――証拠はあるのですか? 確かに貴女が言った事には筋があります。しかし、それはあくまでも貴女の憶測であって、証拠らしい証拠は無いじゃないですか」

「海聖病院の医師が偽りの診断書を貴女達に書かされたと言っているのに、まだ証拠が欲しいというの? あきれたわね」

 黒宮は捲くし立てた。

「そ、それは……」

 私は、この魔性の女に絶対恐怖する。

「仲尾刑事。残り一つ――調べて欲しい事があると言ったわよね」

「あ?――あぁ、あれですか。確か、地方講堂の花壇に植えられている花の種類でしたよね」

 仲尾刑事が確認すると、この場にいる誰もが一斉に不思議そうな顔をしている。

 黒宮が頷くと、仲尾刑事は、手帳をペラペラと捲りはじめる。

「えぇっと――あっ。そうです。不思議な事なんですがね、日本列島どこの地方講堂も全て花壇の花の種類は統一されているみたいなんですよ。冬にしか花を咲かせないヒイラギと水仙、この二種類だけしか、どこの講堂にも植えられていませんでした」

「二種類……」

 私の頭蓋内で何かが引っ掛かった。

「やっぱりそうだったのね」

 黒宮ただ一人だけが納得しているようである。

「先生、何が言いたいんです?」

「吉秋くん。貴方も知っているでしょう。仲尾刑事はどの地方講堂にも二種類の花しか植えられていないと言ったのよ。――けど、ここ。本部だけは、あともう一種類の花が植えられている」

 私は、はっとした。

 先ほど感じた違和感はこれだったのである。

「そうだ! あの何も植えられていない花壇! 白い花で一杯なのに、あの花壇だけ不自然に何も咲いていなかった」

「そう。その花壇にこそあなた達二人が、実朝と道子を殺害したという証拠なのよ」

「止めろ。これ以上、神を、神を冒涜するのはよせ」

 光が生気のない声音で呟いた。

「――行きましょう」

 黒宮が言った。

 予備室を黙然と出ていく彼女の後を追って、私達は、講堂の周りを取り囲んでいる花壇に足を運んだ。夜の静けさの中で白い花達がゆらゆらと靡いている。ポツリと地面が剥き出しになった花壇の前で私達は佇んだ。

「吉秋くん。この花壇にはね、何も植えられていないわけじゃないの。正確には植えられていた。と考えた方がいい」

「植えられていた?――一体何がだ?」

「イヌサフランよ」

 皆が一斉に声を上げる。

 最初に口火を切ったのは月乃であった。

「イヌサフラン――ってあの猛毒性の植物の事かしら」

「ご名答。月乃さんは花に詳しいのかしら?」

「えぇ、少しだけ」

「彼女が言った通り、イヌサフランは猛毒性の植物。秋になると山の麓や牧草地などで見られる紫色の美しい花なの。美しい花には棘があるとはよく言ったもので、イヌサフランもその類の花。特に実の毒素は強く二グラムを食せば、死に到る。野良犬が間違ってイヌサフランを食べて死んだという例も報告されているとても危険な植物なの。コルヒチンといわれる毒素には堕胎作用もある。中毒症状は主に呼吸困難に嘔吐、胃痛、血圧低下、不整脈、筋肉の緊張――無論食する量によって症状に変化はあるだろうけど、人が食せばただでは済まないわね。今では観賞用として品種改良されている場合もあるけど、毒素だけは消すことは出来ずに球根には未だに強い毒がある。勿論、使い方さえ間違わなければ、美しい花には変わりないから、現在でも多くの人たちがガーデニングの為に購入したりして楽しんでいるわ。――丁度、海聖病院は六甲山の麓に位置している為に毎年秋になると誤って天然のイヌサフランの葉を食し、中毒症状を起こす患者がよく海星病院に運ばれてくるそうね。恐らく雪子さんは看護師だった時代にそれを知ったのよ」

「――この花壇に、それが植えられていると言うのですか?」 仲尾刑事が訊いた。

「今は、植えられていない。きっと遠い昔に処分されて、そのまま放置されているのでしょうね。だけどこの前にここに来た時に、土の中から腐った球根を見つけたわ。調べて貰えばすぐに毒物反応が出ると思う」

 黒宮は、胸元からビニール袋の中に入った黒い塊のような球根を取り出して見せた。それをポンっと仲尾刑事の方へ投げ、お願いと、言うと、仲尾刑事は犬のようにキャッチし、勿論と言った。

 もはや保城雪子と光には弁解の余地も残されていないらしく、先ほどからずっと虚ろな形相をしている。

「――では、何故ここだけにコルヒチンを含む猛毒性のイヌサフランが植えられていたのか。わざわざ信者の人たちが花壇を掘り返して植えるとは思えない。そして偶然にも実朝と道子の遺体からもコルヒチンが検出されている。これは偶然かしら」


 光は微かに震えている。拳を力一杯に握りしめ、吻をきつく噛みしめている。

 決着がついたのだ。

 神は黒宮の方だった。

 雪子は、そっと光の近くまで歩み寄り――

 静かに彼の躰を抱きしめた。

「どうして、私達との関わりを持たない貴女が、イヌサフランの事に気づいたのです?」

 雪子が、哀しい目で問いかけた。

 黒宮は一面に咲き誇る花弁を見据えながら、

「二種類の純白の花――ヒイラギと水仙の花言葉を貴方達は知っているのかしら?」 と問いかける。

 雪子と正義は互いに顔を見合わせ、首を傾げていた。

 月乃はやはり花に詳しいらしく、小さな声で、

「『歓迎』 と 『自惚れ』」

 と、言った。

「そう。この二つの花には、教祖保城時宗が残した想いが宿っているのよ。ヒイラギには 『歓迎』 水仙には 『自惚れ』というそれぞれそのような花言葉を宿している。これこそが時宗が団体を設立する動機だったのよ」

 光の瞳が大きくなる。

 昔の私の様に。

 知らなかった事を諭される過去の私と、今目の前にいる光の姿が、ほんの一瞬だけ重なったような気がした。

「戦後の日本、貧困に中を彷徨い歩き続けた時宗は自分と同じ境遇の人を救いたいという純粋な想いの中で人宝教を作った。不幸の中に生きる人間なら、どのような人でも 『歓迎』する。ヒイラギが意味するのはこの事。しかし、神を気取っている時宗も所詮は人間に過ぎない。彼はきっと数多の葛藤に苦しんでいたのね。『自惚れ』 に支配される自分を時には憎み、そして嘲笑い続けてきた。それでも時宗は人を救いたかった。あの日見た戦災孤児の笑顔を思い出す度に――」

「あぁ……」

 雪子は声にもならぬ悲痛な叫びを洩らし、ゆっくりと地面に崩れ落ちた。

「時宗の純粋な想いは、何も知らなかった子孫達によって木端微塵に壊されてしまったのよ。きっと先代も教祖の想いなんてこれっぽっちも考えたことが無かったのかもね。――仲尾刑事、ここ数十年、人宝教の信者による犯罪事件は起こっていないって言っていたわよね?」

「え? はっはい! ――あぁ、とは言っても僕は最近刑事に異動になったので、詳しい事情は前の担当者じゃないと分からないのですが」

「調べてみなさい。きっと警察の上層部は実朝から賄賂を受け取っているわ。その金で、信者による暴虐を揉み消し続けてきたのよ。団体が信者から莫大な資金を集めようとするのはその為よ。そして、実朝の悪業の数々は、貴方も知っていたのね」

 光は、観念したかのように顎を引いた。

「だから神を軽蔑したんだ。父の様になりたくなかったから――」

 光は、そう言い、哀しみに耽る雪子の躰を包み込むようにして抱き締めた。

「そう、だけど、貴方も所詮は父親と同じよ。時宗の魂を汚したのだから。いや、貴方達は悪くないのかもね。――悪いのはこの平和な時代そのもの……」

 黒宮は意味の分からない事をぼそっと言った。

 

その後、仲尾刑事は、地面に崩れ落ちた二人の手頸に手錠を嵌める。

 仲尾刑事に連れていかれる二人の背中が消えるその時まで、私達は、夜の闇の中で呆然と立ち尽くしていた。

「人宝教はもう終わりね。教主が拘束されたのだから」 黒宮がどこか哀しげに呟く。

「――もしかすると、また創られるのかもしれない」

 月乃が唐突に意味深なことを言う。

「どうしてそう思うのかしら?」

「だって……イヌサフランには 『永続』 という花言葉があるから」

「――永続か。確かに教祖時宗の様な人が団体を導いてくれたら、宗教も意味のある組織なのかもしれない」

「世の中に不幸な人なんて居ないものよ。皆が好き勝手にそう思い込んでいるものなの。幸せなんて探せばいくらだってあるのに、人々はそれに気づかずに、宗教類に縋りたがる――時宗はきっと理解していたのね。神という絶対的な存在には何の意味も無いということを」

 黒宮は寂しげにそう言い残し、夜の闇の中へ消えて行くのであった。サラサラと夜風に靡く長い髪が、なんだか――

 美しかった。




























 終章

 

半年後――

 人宝教教主、保城光と、その義母、雪子に実刑判決が下り、実質的に団体は解散され、全国に散らばる講堂は全て取り壊される事になった。後に仲尾刑事から訊いた話ではあるが、団体の幹部達は、光に彼の権利を譲位するように申し出たらしいが、光は団体を保城一族の血統以外の者に譲る気はないらしく、その申し出を拒絶した。

 光は、祖父の代から受け継いだ団体を手放す決意をしたのである。

 私と月乃、美奈子の三人は取り壊された本部講堂の前に訪れていた。

 三階建ての建物は、跡型もなく取り壊され、茶褐色の土地が剥き出しになっている。何も無い敷地だというのに、相変わらず四方は黒鉄性の柵にとりかこまれていて、表口のアコーディオンシャッターは封鎖されていた。花壇の花達も全て伐採されていて、本当にここにあの建物が建っていたかさえ、曖昧であった。

「二人とも、本当にありがとう」

 美奈子が、何も無い空間を見ながら言った。

「お礼なら、黒宮先生に言ってくれよ。僕は彼女のサポートをしただけさ。何もしちゃあいない」

「だけど、あの人と私の仲介をしてくれたのは貴方だから」

「素直じゃないわね」

 月乃が仏頂面で言った。

 私は、下手くそな笑みを浮かべ、頭髪を?き毟る。

 

 ここにはもう何も建ってはいないが、確かにあの事件は存在したのだ。随分と昔の様に感じる。――これが歴史というものなのかと、身にしみて感じた事だ。

 忘れたくない出来事を、少しでも後世に伝えたくて人は歴史を作ろうとする。目の前にある寂れた敷地にも歴史はあった。戦後の貧しい時代に悲嘆することなく懸命に生きようとした保城時宗によって作られた立派な建物は確かに存在したのだ。

「あの――御影さん? 黒宮先生は今日、来ていないのですか?」 

「先生なら、今頃、予約客の相手で忙しくしているだろうね。――あの人、意外に業界では人気あるみたいだから」

「そうですか――残念です」

「もう、そんなに暗い顔しなくてもいいじゃない。美奈子――終わったのよ。何もかも」

 月乃は美奈子の肩にそっと掌を載せた。

 美奈子は、穏やかな顔付きで、「そうね……」 と言う。

 

 そんな若々しい学生二人の愛らしい笑顔を見つめながら、

 私は想像する。

 先代の想いを理解することが出来なかった光と雪子の事を――

 長い刑罰を終えた彼らの辿る道が、どのようなものになるのかを。

 創造する。

 

――イヌサフランにはね、『永続』という花言葉ある。


 月乃はそう言った。

 彼らは再び、神になろうとするのだろうか。それとも――

考える事を辞めた。


 月乃が突然、大きな声を出す。

「あっ!」

 私と美奈子は一斉に彼女に向って、「なんだ?」 と訊ねる。

「――ううん。あと一つだけ分からない事があるなぁっと思って……」 

「分からないこと?」

「それこそ、本当に迷宮入りしてもおかしくないほどの謎かも」

「勿体付けずにさっさと言えよ」

 月乃は、含み笑いを浮かべ、こう言った。

「あの先生の正体よ」

 彼女は人差し指を立てた。

「あぁ――」

 私は納得した。確かに理屈で考えていたら(きり)が無い謎である。五年という歳月を共にした私ですら、解けぬ謎なのだから、今回の件で黒宮と初対面であった月乃にとっては、確かに迷宮入りしてもおかしくない難題である。

 私は溜息を一つ零す。

 そして、この悩み多き女子をからかってやろうと思った。

「――教えてやろうか? あの人の正体を」

「え? うん。 教えて。教えて」

無垢な少女のような声音である。

 私は上空に広がる蒼を見上げ、こう言った。

――地球(アース)天使(エンジェル)さ――


「あーす? えんじぇる?」

 二人が眉を顰めている絵が滑稽である。

 少し悪戯が過ぎたかもしれない。

 それでも私は、彼女の力を信じようと思った。唐突に口から出た出任せは強ち間違いでも無いかもしれない。

 黒宮白陽は確かに私達を救ってくれたのだから――〔了〕


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