7
俺とルミは魔界に来ていた。
相変わらずのデタラメな空のピンクに、時刻を示さない巨大な月モドキ。
ただし空気は素晴らしく澄んで、都会では味わえない自然の香気に満ちている。
俺たちがいるのは、小さな池のようなもののほとりで、水面は何故か赤い。
気味の悪い色だ。
たまに気泡が浮かんだり、小さな波紋が広がったりしてはいるが、すぐさま化け物が出てくるような雰囲気ではない、
…と思う。
そして俺はといえば、砂利の混じった砂地に、女の子すわりをして、グラグラする頭を抱えていた。
酔ったのだ。
理由はもちろんルミである。
狐が去り、日没を迎えたルミは力を解放した。
前回よりすさまじい威圧感も、相手がルミだとわかってしまえば、恐怖の対象ではなかった。
ちょっとだけ土下座したいような気分にはなったけれど。
何故かご機嫌な我が妹は、魔力の解放と共に、突然「しゅっぱつしんこー」と元気な声をあげた。
泣いたカラスがもう笑った、と言う言葉を連想している暇もなく、
俺とルミの足元に二つ<大きな黒い花>が咲き──
……逃げようとした俺は、花弁の間から伸びてきた、
やはり黒い蔓に雁字搦めにされ──
閉じてきた花にすっぽり包まれた。
暗闇の中で、錐揉み状態と、無重力落下を同時に味わったあげく、今こうして現在に至る。
立ち上がれなくても仕方ないよね。
よれよれになった俺を見て、ルミは嬉しそうにきゃらきゃら笑っている。
遊園地にいくたびに、ルミのジェットコースターに付き合って、同じような目にあっている俺は怒りも湧かない。
いやな慣れかたである。
しかし、これはちょっとキツい。
五回連続ビッグサンダー・マウンテンin平日よりキツい。
あげくに裸足だ。
ルミはといえばスリッパだ。緑の河童スリッパだ。
非日常における緊張感の必要性について、とタイトルまで考えつつ、脳みそぐらぐらな俺は考えることを放棄した。
さすがに中々回復しない俺が心配になってきたのか、ルミが近寄って来る。
「大丈夫?」
原因はおまえだ。
俺の背中側にルミが回る気配がして、なにか温かいものがふわっと張り付いてきた。
「ル、ミ──」
今、力を吸われたら死ぬ。絶対死ぬ。
そう、考えているのに、寄せ合った体から伝わる温かさが、
首の後ろをくすぐる髪からの甘い匂いが、
このこみ上げてくるどうしようもない幸せな気持ちが、
──血を、沸騰させていく──
「シン兄ぃ。今は力をくれなくていいの」
ルミのかぼそい声が俺を一瞬正気にもどす。
「全部わたしにあげようとしちゃだめ。お願い、イヤかもしれないけど、少しでいい……」
──わたしを、欲しいと、思って──
囁くように言われたそれが、あまり理解できない。
ルミを欲しいと思う?
──守ろうと思うのを、今はやめて、わたしを認めて──
声にならない声で囁くルミ。
俺が?ルミを?認めていない?
どうして?
頭に上った血が急速に下がっていく。
◆
ぴたりと寄せ合った俺の背中とルミの体の温度が、少しずつ、なにか違うものに変化していき、ぐらぐらだった三半規管がゆっくりと落ち着いていく。
心臓はばくばくと騒がしいのに、どこかで冷静な俺が、この光景をみている。
「シン兄ぃの後ろにいるのは大好き。でも肩を並べて歩きたいときもあるの」
やさしく、諭すようなルミの声が、俺の体に確実な力を呼び起こしはじめる。
嬉しくて泣きたいような、でも笑い出したいような、
本当に小さかった、二人の体格にまったく差のなかった頃の無邪気な気持ち。
あたたかくて優しい、父さんと母さんのハグの時に感じたそれ。
背中にいるルミから流れ込んでくるなにか、きらきらしたきれいなもの。
色々ななにかが俺の後を押す。
「それには、もうちょっと背を伸ばさないとな」
やっとの思いで、ルミに答えた俺の声は、
ちょっと嗄れた。
◆
信じられないぐらい頭がすっきりしている。
体には疲れも何もなく、むしろあたりを走り回りたいような気分だ。
寄り添っていた体を離し、俺とルミは、小さな頃のように手を繋ぎ、並んで池の側に座っていた。
繋いだ手が温かい。ほわほわと暖かい力が通っているのがわかる。
いつのまにか、みたこともない蝶が、ルミの指先にとまろうとしたり、頭の上に降りたりしようとしていた。ルミは蝶を驚かせないように、そーっと繋いでいない反対側の手のひらを伸ばして楽しんでいる。
それを横目に、さっきくっついてたときに起こったことについて、俺は少し考えようとしていた。
俺は「哺乳瓶」だと大おばあちゃんは言っていた。
多分それはルミの封印の解けた最初の夜のことを指す。
色ボケしてルミの足を舐めまわした俺は、そうとは知らず自分のなかにあるものをルミに譲った。
多分、それが俺に望まれた役割だったろう。
でもさっき起こったあれは、ルミの中で大きくなった力が、自分の中に戻ってくるような感触だった。
俺の体感でしかないが。
横にいるルミの圧倒的な力はまったく減っていない。初日の俺と似たようなことをしてくれたはずなのにである。
それは俺の気持ちが一方的であったことと関係が──
「グギャァ」
突然頭上を金切り声と共に大きな影が横切った。
俺は咄嗟にルミを庇って地に伏せる。
ざんっという風の音と共に、ばさっばさっと大きな羽ばたきの音が遠ざかっていく。
───なんだ?
伏せなければ、確実にぶつかってきていたその気配が少し遠ざかるのと同時に、伏せていた顔を上空に向ける。
……鳥?なのか?それにしてはデカいような?
池の反対側、今まで目に入っていなかった大きな岩の上に、謎の飛行物体が着地する。
人?じゃない。
「くるしっ」
おっと。
ルミが俺の下から顔を真っ赤にして這い出してきた。
「びっくりしたぁ、ってなにあれ」
聞くな。俺も知らん。
岩の上にいる生き物は人間と鳥が混ざり合った生き物だった。
くすんだ茶色の髪を振り乱し、ギラギラとした眼をもつその顔はまごうことなき人間の女性だ。
しかし本来人の腕がある場所には、大きな翼があり、下半身を覆う羽毛から飛び出ている足は、完全に鳥の形をしている。
おまけにその鉤爪ときたら…
──さっき頭の上をかすめたのアレか……
まるで、出刃包丁が前に三本後ろに一本そのまま備わったような鉤爪だ。
一歩間違えばスプラッタだった。
そしてなんだあの乳。
鳥だけに鳩胸ってか。
「シン兄ぃ。なんかたくさん来た」
ルミの声に眼前の生き物(の胸部)から目をそらす。
離れた場所から、同じような生き物が、二羽、三羽、と飛んでくるのがみえた。
鳴きかわすその声は、醜悪で耳をおおいたくなるほどだ。
次々と正面の岩に降り立って、お互いにぺちゃくちゃと話すような仕草をし、こちらを見ては「ゲェーゲェー」と笑うようなそぶりをみせている。
やはりデカい。人間と同じくらいの大きさがある。
なにがって。もちろん体の大きさと言うか、そのなんだ。
メロンがいっぱいって俺は何を考えているんでしょうか。
わんこ少女のは照れて正視できなかったのに、あまりにも立派なそれからは目が離せないだなんて、俺は変なところで正直な17歳である。
そんな俺の思惑をよそに、ルミが隣から立ち上がる。
「こんにちはぁーっ」
ルミが、少しはなれた人面鳥にむかって声を張った。
うん。礼儀正しいのはいいんだけどさ。なんか俺としてはすごく嫌な予感がします。
これは当たると思う。当たらなくてもいいけど。…当たらないといいけど。
※ビッグサンダー・マウンテン=某ねずみーらんどの、ジェットコースター好きには「たいしたことのない」アトラクションのひとつ。