10
俺の眼前にそびえたっているのは、複雑に絡み合う木々だった。
樹齢何百年ともしれぬ大きな樹木が、びっしりと幹や枝を寄せ合って壁を作り、その周囲を幾重にも蔦がとり巻いている。
人工物の気配はまったくないのに、何かの意思が確実に介在しているとしか思えない。
窓もない。扉もない。しかしこれはまぎれもなく建造物だ。
荘厳なそのたたずまいは、太古の神殿を思わせる。
ちょっと気圧されて、立ち止まってしまった俺を、ルミが、どうしたの?というように振り返る。
なんとも思わないのだろうか。それとも、これがなにかわかっているのか。
「シン兄ぃ?」
呼びかけてくるルミに応えて、俺はしぶしぶ前に歩きだす。
木が組み合わされて作られた階段に近づいてみれば、遠目からみると普通だった樹皮の色は薄い緑で、
しかしこれまで見てきたものと比べれば格段に普通だ。
頭上と幹に絡み付いている蔦も濃い緑色で目にやさしい。
入り口はどこにも見あたらない──
と思ったその時だった。
バサッと真正面の蔦がかきわけられ、人影が現れる。
「おかえりなさいませ」
俺たちを出迎えたのは、ベルだった。
入り口は、分厚く上から下がる蔦に隠されていたのだ。
ぎょっとして固まる俺を尻目に、ルミはすたすたとベルに近づいていく。
知ってたんならちょっとくらい教えてくれたらいいのに。
びくついたりして俺恥ずかしいんだけど。
これが「お家」なのか?
「ただいま!ベルさん、ここってお風呂あったかな?」
かなり歩いたと思うのだが、ルミは元気だ。
不思議なことに俺にも疲労感はない。
「水浴になりますが、お役には立ちますかと。 シンゼラート様のそのご様子はいかがなさったのでしょうか」
俺たち二人がくぐり抜けられるように、蔦をささえながらベルが見つめてくる。
なんだか真剣に心配してくれているようだ。
血まみれでずたぼろだしな。
くすぐったい気持ちになりながら俺は、顔を近づけてきたベルに、なんでもない、というように手をひらひらさせる。
……しまった。これでは追い払うようなしぐさだ。
「お話にくいのでしたら─」
このように、と自分の喉に手のひらを当てるベル。
「すこし押し上げるようにいたしますと、話しやすいかと」
おお!
やっと俺の役に立つ情報が。
さっそく自分の喉に手をあてようとして、目の端に映った爪をみて我に帰る。
あぶねえ。今度はあごに爪がささるとこだった。
そっと角度を変えて喉に手の平をあててみる。
「こォか。んーんー、話せテるゥかな」
違和感はぬぐえないがいける。
「お怪我は治っておいでのようですが、坊ちゃまの血以外にもう一種類いやな血の匂いがいたします」
ああ人面鳥の血をしたたか浴びたからか。
さすがというかなんというか犬だな。
どう説明すればいいんだろう。
ルミも眉をよせている。
「お引止めして申し訳ありませんが、継承権を持たない者を傷つけることは、今回の争奪戦において約定違反とされる可能性があります。いったい何と戦われたのですか?」
えーっと。
ひょっとしてそういう脱落の仕方もあるのか。
しかし、あれ俺らが悪いとかそういう話じゃないような。
「女の人の顔をした鳥さんが、喧嘩ふっかけてきたから殺しちゃった」
ルミが困った顔のままベルに告げた。直球ストレートもいいとこである。
殺したのは俺だ。ルミは池に放り込んだだけだ。ナマズに食べられちゃったけど。
ルミにとっては「二人でしたこと」だろうが、あれは俺の暴走だ。
「ああ、地球で言うところのハルピュイアですね。 魔界での呼ばれ方を日本語に訳しても「翼を持つ女」にしかなりません。 まあそれはさておき、殺したのですか」
今度はベルが困った顔をして考え込む。
日本語に訳したら金色のあれはなんなんだろうな。
多分ナマズじゃない。
「大奥様にはかりましょう。とりあえずシンゼラート様は水浴のご用意ですね。サルミスラ様はいかがなさいますか?」
俺たちを蔦の奥の入り口へ案内しながらベルが言う。
「あのね、おなかすいたの、食べてからお風呂がいい」
そんなルミの返事を聞いて、俺もかなりの時間何も食べていないことを思い出したのだった。
◆
俺とルミを一緒に浴室まで案内した後、ベルは、後で迎えに参ります、と言ってルミと一緒に去ってしまった。
この建物の中には壁はあるが扉がない。すべて蔦のカーテンだ。
明かりは壁の部分の木に生えているきのこ。
きのこって発光したか?そもそも人の頭ぐらい大きいってどうなの。
俺が案内された「浴室」は広い部屋の真ん中に、大きな切り株をくりぬいたバスタブがあるものだった。
天井からフックのように伸びた枝を綺麗な水がとめどなく流れて、シャワーのような役目をはたしている。
落ちていく水は切り株の根の間へ。
俺は自分の爪に気をつけながら、血を洗い流した。
腕の傷は綺麗に閉じている。
薄らと白い線が残ってはいるが、なにか尋常でない回復力のおかげでダメージが少ないということはわかった。
肩の方はピンク色のみみずばれになっている。
これも治り方がおかしいが、早くなおってくれる分にはありがたいので気にしない。
問題は、体を綺麗にした後のTシャツとジーパンだ。
ジーパンはまだ膝下がだめになっただけで済んだが、Tシャツは血糊ごと体から剥がした時点で、ただのぼろきれになってしまった。
別に惜しいとかでなく、今着るものがないことに困る。どうするかな。
「シンゼラート様、着替えをお持ちしました」
蔦の外からタイミングよくベルの声がかかり、俺は着替えを受け取ることが出来た。
……これはベルの散歩の時用の半袖のパーカーとジャージだ。別に文句はないが。
まさか今から散歩でもしろと。
「トっテきテくれタのか?」喉に手をあてながら聞いて見る。
「はい。あと二時間足らずですが、お二方には魔界にいていただかなくてはなりません」
そうなのか。
まあどうせ移動する気もなかったんだが。散歩しなくていいんだな。
俺は手早く着替えてベルの側に立った。
気になっていたことを聞かねばならない。
「セネとエルに謝りにいきタい。ここにいるのか?」
見舞いだって言うのは変な気がして。
だって俺が傷つけたんだから。
「おります。その前にお食事をさきにいかかですか」
◆
俺は飯を断って、セネとエルがいるという部屋の前に立っていた。
ベルは、俺をここまで連れてくると、今度はルミを入浴に案内するとかで、去ってしまっている。
蔦のカーテンは、ノックができるものでもない。
俺は気持ちを落ち着かせてから、目の前のそれを引き開けた。
だが、蔦のカーテンを引き開けた先には、まだ廊下があり、その先にもう一つカーテンがある。
俺は拍子抜けしてしまった。
まだ先じゃないか。
しばらくぼんやりしてしてしまった、が、ようやく気をとりなおして、木で作られた廊下を進む。
次の蔦の入り口まで近づいたそんな俺に、妙な声が聞こえてきた。
キャイン、とかワフッ、だとか、子犬が興奮して暴れまわっているような声だ。
時折、ドスッとなにか物と物がぶつかる音までする。
微妙にその子犬が暴れまわっているような声には、聞き覚えがある。
ここで合ってるようだ。
なかの騒がしさに、躊躇を覚えつつ、今度こそは、と俺は蔦を引き開けた。