サウスポーの少女と四番を打つ少年
(どうしてこんなことに……)
沙織はいまさら自問自答していた。
ちょっと高くなった視線。柔らかな感触。久しぶりに踏みしめるマウンドの感触。懐かしい。
――って、そーじゃなくって。
沙織はかぶりを振った。ぼけーとしている場合じゃない。マウンドに突っ立っている沙織は今、周りにいる生徒の視線の注目の的だった。サインを出してもいないのに首を振られて戸惑っている捕手に、沙織は「ごめんなさい」と心の中で誤る。バッターボックスの三宮は少しだれた様子で沙織の投球を待っていた。
(ええぃっ。どーにでもなれっ)
沙織はあきらめた。早くこの勝負を終わらせて帰ろう。
そう決心すると、振りかぶって、右手を思いっきり振った。
球技大会の日である。
クラスの中で目立たない存在の沙織は、補欠のまま試合を終え、自由解散となった。変に目立つことなく無事イベントを終え制服に着替えてとっと帰ろうと野球のグラウンド前を横切っていたら、誰かが沙織を呼んだ。視線を向けると、親友の杏が体操着姿のままマウンドに立って手を振っていた。
「沙織、いいところにー」
沙織はやな予感を覚えた。
杏はバッターボックスの男子に向かって言った。
「三宮、見てなさい。私の敵は沙織が取ってくれるんだからっ」
――そしてそれはたいてい当たるものなのである。
無視できずに足を止めてしまった沙織の腕を取って、マウンドに引きずりながら、杏は説明した。
球技大会が終わった野球のグラウンドでは、一年生にして野球部の四番を務める三宮を抑えたらジュースをおごってもらえるという簡単な余興が行われていた。守備位置には誰もいない。捕手の山仲だけで、審判もいない。野球部のマネージャーである杏は、クラスが違う三宮や山仲と知り合いらしいが、沙織は知らなかった。周りにいるギャラリーも見知った顔はなかった。
なにあの子、みたいな周りの視線を気にすることなく、杏は沙織に強引に白球とグローブを渡すと「任せたっ」とマウンドを降り、沙織一人が取り残されたのだった。
沙織の投じたボールに周囲からため息と失笑が沸き起こった。
無理もない。沙織の放ったボールはいわゆる山なりで、しかも捕手まで届かずワンバウンド・ツーバウンドして、ようやくミットに収まった。付け加えれば、飛んだコースも大きく外に外れて、左のバッターボックスの外あたりである。
「なるほど……確かにこれじゃ、打つことはできないよな」
三宮が愉快気に笑い、捕手の山仲は気の毒そうに沙織を見た。
ご丁寧に、ころころと転がすよう山仲から帰ってきたボールを沙織は受け取る。少し離れた所で見ていた杏が不満げに言う。
「……ねぇ、どうして本気で投げないの?」
「な、なんのことかなぁ……?」
杏は小学生時代の幼馴染である。中学は別だったから、野球をやめて「目立たない人」としてのキャラクターを確定させた沙織を、彼女は知らない。高校で再会してクラスメイトとして一学期を過ごしてきたし、沙織が野球を辞めたわけも知っているが、杏はそれを不満に思っている節は見られた。
「でもかえって目立っちゃってるよ」
確かに、様々な視線が沙織に向けられていた。
「杏ちゃん……左利き用のグローブ、ある?」
ぼそっとした沙織の言葉に、杏ははっと口を押さえた。
「あ、ごめん。そうだったね。忘れてた。うん。そうこなくっちゃ。今、取ってくるからねっ」
杏はダッシュでマウンドを降り、ベンチに置かれていたグローブを持ってきた。
「はい」
「あ、ありがとう」
「おいおい勘弁してくれよ。さらに左で投げるって、どれだけ舐められてるわけ?」
初めて聞いた三宮の声。そのつぶやきが耳に入った途端、沙織にスイッチが入った。
一年生四番だか何だか知らないけれど。こっちは男子に混ざってエースをやってきたんだ。何を勘違いしているんだ。左でも手加減して投げてやるつもりだったけれど、もうやめた。
やってやる。後のことは後で考える。今は目の前のあいつをぎゃふんと言わせてやる。
沙織の様子が変わったことに満足した杏はぽんぽんと軽く沙織の黒髪を叩いて、マウンドを降りた。
グローブを右手にはめて、左手でボールに直に触る。指先によくなじむ。問題ない。左足をプレートに乗せる。ゆっくりと右足を引いて、腕を頭の上まで振り上げる。腰を回転させて上げた右足を思いっきり踏み込んで、左腕を振りおろした。
(ん?)
三宮が沙織の表情が変わったことに気づいたのは、彼女がプレートに足をのせ、投球動作に入ったときだった。流れるような身体の動作。球が彼女の指先から離れる瞬間の鋭い真剣なまなざしに、三宮は不覚にも思わず見惚れてしまった。
パーンッ、と小気味よい音とともに、白球がミットに吸い込まれた。彼女のセーラー服が余韻を楽しむかのように、ふわりと揺れた。
しぃんと、静まり返る。誰もが言葉を失っていた。
160キロを超える剛速球でなければ、物理的にありえない変化をした魔球でもない。せいぜい110キロ程度の直球だった。けれど伸びがあってぶれのない、綺麗なストレートだった。
「……へぇ」
山仲が感嘆の声をあげた。ちらりと彼を見ると、そのミットはホームベースのど真ん中からまったく動いていなかった。
(――面白い)
三宮は、バットをきゅっと握りしめた。
(うん。思ったより悪くないかな)
久しぶりのマウンドでの投球。制服に革靴姿。少し不安はあったがさほど問題ではなかったようだ。
なにより驚いている周りの反応が心地よかった。
左手でボールを握った沙織は、中学時代からの目立たない大人しげな少女ではなかった。
いつからだろう。男子に混ざって野球するのが恥ずかしくなったのは。
それでも野球を続けていた沙織が、野球を辞めるきっかけとなったのは、気になっていた男子から「化け物女」と呼ばれたからだった。ショックを受けた沙織は野球を辞め普通の女の子になることにした。もともと小柄な沙織は反動で極端に目立たない人になってしまったが、その生活には満足していた。
けれど惰性でランニングは続けていたし、こっそり壁に向かってボールを投げていたりしていた。野球を嫌いにはなれなかった。
そして今の沙織は、ただ純粋に野球を楽しんでいた小学生のころに戻っていた。
マウンドに視線を移した沙織は、山仲のミットの位置が少し動いたことに気づく。ど真ん中から沙織から見て右上に。インハイ。下手すれば死球になりかねないコース。それを要求された。一球でキャッチャーに認められたのだ。
(わかってるじゃん)
沙織は小さくうなずいて、山仲のミットめがけて思い切り投げ込んだ。
三宮が初めてバットをふるった。
キィィーン。
金属バットの澄んだ音が響き渡る。白球は勢いよくバックネットの金網に突き刺さった。ボールの勢いに、近くにいた女子生徒が悲鳴を上げた。
(へぇ、言うだけのことはあるわね……)
沙織は少し三宮を見直した。少しでもコースが甘かったら捕えられていた。
彼は打球の方向などちらりとも見ず、ただまっすぐマウンドの沙織を見つめていた。眼光が鋭い。睨まれているといってもいいだろう。だが沙織は三宮の視線を軽く微笑んで返した。
結果的にツーストライク。追い込んだ。これは沙織にとっての勝利のパターンだった。
(はいっ。これで――おしまいっ)
沙織の指先から離れたボールは、抜けたようにふわりと浮かびあがった。綺麗な直球を予想していた人から見れば、まるで白球が消えたように見えただろう。消える魔球、ではない。
カーブである。ブレーキの利いたボールは、三宮から見て右上から、胸元に向けてえぐり込んで落ちる。
ボール球だと見送ればストライクで見逃し三振。バットを振ったところで、タイミングを狂わされて空振り。いずれも三振である。小学校のとき、面白いように三振を奪ってきた沙織の必殺技だ。
三宮がバットを振るう。が、白球はそのバットの下をかすめて抜けた。そしてキャッチャーミットを軽くはじいて、ころころとベース付近を転がった。
しぃんと周囲が静まり返る。
「……ファールチップ、だね」
審判はいない。捕手の山仲の一言で、場の雰囲気が動き出した。どこか皆ほっとしたような、納得したような様子だった。
(ふぅん。バットに当てたんだ)
沙織にとってはどっちでも良かった。結果は変わらないのだから。
五球目。山仲がグラブの下から人差し指をくいっと曲げた。沙織はそれをカーブのサインだと確認した。望むところだ。迷うことなくもう一球、カーブを放った。
三宮の体が動いた。
キーンと金属バットの音が響いて、ボールは綺麗な弧を描いて飛んで行き、外野フェンスの金網の上段にぶつかった。完璧な本塁打だった。
「……かんぺき」
離れた所にいる杏の呟きがやけに鮮明に沙織の耳に届いた。
「……おい」
打球の方向を一瞥した三宮が、山仲を睨む。
「さすがだねー。女の子相手に手加減ないなぁ。まぁ少し甘い球だったし、三宮としては当然かな」
「んなことより、最初のカーブ……」
「あは。気づいた? ファールチップというのは、バットに当たってグラブに収まったボールのことをいうので、あれは単なるファールが正解なんだよね」
「そーじゃねーよ!」
三宮が苛立ち気にさえぎった。
「あれ、バットに当たってねーだろ」
山仲は笑って何も答えなかった。
彼の言うとおりだった。最初のカーブは空振り、つまり三振だった。だがあえてファールと言ったのは三宮のためではない。もう一球彼女の球を受けてみたかったからだ。さすがに二球続けてのカーブは三宮に読まれてしまったし、ボールにしたくない気持ちがあったのか、一球目に比べコースも甘かったが。
「それにしても何者なんだろうね?」
「さぁな」
マウンドの小柄な少女は、杏をはじめとする集まったギャラリーに隠れて見えなかった。
某所で投稿した、長編用の作品です。
このところご無沙汰していましたが、何とか完成させ、公募したいと思っています。