婚約破棄で冤罪追放された私は、触れた相手の想いを消す呪い公爵と白い結婚しましたが それでも自分で何度でも彼を好きになり直すことにしたので、今では毎日初恋から始まる溺愛夫婦です
「アルマティア伯爵令嬢リゼル。この場をもって、君との婚約を破棄する」
その声を、私はよく知っていた。
初めて名前で呼んでくれた日の、少し照れたような声と、よく似ていたからだ。
音楽が止まった。
きらきらと笑っていたはずの舞踏会場が、きしりと音を立てて静まり返る。
グラスが誰かの手から滑り落ち、床にぶつかって砕ける音が、妙に遠くに聞こえた。
胸が苦しい、と思った。
世界が壊れた、なんて大げさな言葉は似合わない。
ただ、私の足元だけがすっと遠ざかっていくような、そんな感覚だった。
「……アシュレイ殿下?」
自分の声が震えていると気づいて、慌てて口をつぐむ。
ここで泣いたら、父と母が笑われる。
伯爵家の娘として、それだけは絶対に駄目だ。
第一王子アシュレイ・ヴェルネストは、私から視線を外したまま、隣に立つ少女をかばうように腕を伸ばした。
淡い金髪に、儚げな笑み。
新しく神殿に現れた聖女、フェリア・サイロス。
「君は、フェリアをいじめた。毒まで用意して、彼女を傷つけようとした。それは王家に対する裏切りに等しい」
「そんなこと、していません」
反射的に否定すると、周りからかすかな嘆息が漏れた。
うそつき、という空気。
早く認めて楽になりなさいよ、とでも言いたげな視線。
私は人前で取り繕うことには慣れていた。
でも今、どう立ち振る舞えばいいのか、さっぱり分からない。
「証拠ならある」
アシュレイが手を上げると、侍女の1人が進み出てきて、震える声で証言した。
私がフェリア様の飲み物に何かを混ぜているのを見た、と。
毒物らしき小瓶が、銀の盆の上に乗せられて皆の前に差し出される。
知らない小瓶だった。
私の喉はからからに乾いているのに、言葉はやたらと滑らかに出てきそうだった。
違う、と叫べばいい。
そんなことはしていない、と。
でも。
嫌われるのは、もう慣れているはずだったのに。
どうして今、こんなに苦しいのだろう。
「リゼル」
アシュレイが、ようやく私の名前を見下ろすように呼んだ。
以前は、少しだけ優しく口にしてくれた音。
一緒に本を読んだり、紅茶を飲んだりした、あの穏やかな時間が、本当にあったのか疑わしくなる。
「……君との未来は、ここまでだ」
静かに言い切られたその言葉は、さっきの婚約破棄の宣言よりもずっと痛かった。
まだ何か言おうと口を開きかけた時、王座から低い声が響いた。
「アルマティア伯爵令嬢リゼル。罪の真偽については改めて調査を行う。しかしこの場において、王家とそなたとの縁は断たれた」
国王陛下の視線は冷たい。
そのまま、こう続いた。
「……その代わりとは言わぬが、王家としての面子を保つ必要がある。
リゼル、そなたには、新たな縁談を与えよう」
嫌な予感が、首筋を冷や汗で濡らす。
「本日中に北境ノクティル公爵家へ輿入れせよ。ノクティル公爵カディアンとの婚姻を命ずる」
「……本日中?」
思わず聞き返してしまった。
場違いなほど間の抜けた、とても伯爵令嬢とは思えない声だったと思う。
ざわ、と空気が揺れる。
私は笑ってはいけないのに、少しだけ笑いそうになった。
ああ、私、今日中に誰かの妻にはなれるんだ。
ただ、望んでいたのと、ほんの少し違うだけ。
◇
控室に連れて行かれるまでのことを、あまりよく覚えていない。
父と母も呼び出され、王からの命を告げられた。
父は何も言わなかった。唇を固く結んでいるだけ。
母は震える手で私の手を握りしめて、小さな声で言った。
「……ごめんなさいね、リゼル」
謝られた意味を、うまく掴めない。
ごめんなさい、と言われるのは、きっと私の方なのに。
「大丈夫です、お母様」
いつものように微笑みをつくる。
内心はぐちゃぐちゃなのに、口角だけは勝手に上がった。
外交用スマイル。
何度も練習して、身につけた顔だ。
「家のために行ってまいります。伯爵家の娘として、恥じないように」
言った瞬間、自分で自分が少し嫌になった。
親孝行な娘のふりをして、格好をつけて。
本当はただ、逃げ場が欲しかっただけなのに。
「……リゼル」
父がようやく私の名を呼ぶ。
何か言いたげに口を開きかけて、結局、何も言えずに閉じた。
代わりに、ぎゅっと肩に手を置かれる。
重くて、温かい手だった。
私は少しだけ背筋を伸ばして、頭を下げた。
それで、さよならだった。
◇
北境へ向かう馬車の中は、驚くほど静かだった。
御者が馬を御する音と、車輪が石畳から土道へ変わる振動だけが伝わってくる。
外の景色は薄暗い森。王都の光が遠く、遠くなっていく。
私は窓に背を向けて座り、膝の上で手を組んでいた。
泣くなら今しかないと思った。
王都を離れる前に、婚約破棄されたショックを全部流してしまって、
北に着く頃には何も感じない顔でいられるように。
そう思っているのに、不思議と涙は出てこなかった。
「……おかしいですね」
誰もいないのをいいことに、小さく独り言を漏らす。
泣く準備はとっくにできていたはずなのに。
涙だけ、王都に置いてきてしまったみたいだ。
ふと、頭の中に浮かぶのは、ささやかな夢だった。
朝、同じ食卓でパンを分け合って、「いってらっしゃい」と見送って。
夕方、「ただいま」を言える家に帰ってくる。
特別じゃなくていい。
誰かの、ふつうの妻になりたかった。
「……ふつうの、ってなんでしょうね」
誰かに聞いてみたところで、きっと答えは返ってこない。
アシュレイ殿下との婚約は、政略結婚だった。
それでも私は、少しだけ期待していたのだと思う。
いつか、名前で呼び合って。
一緒に紅茶を飲みながら、くだらないことで笑ったりして。
そんな未来があるのかもしれないと。
でも殿下の好きなものも、嫌いなものも、私は何ひとつ知らなかった。
知ろうともしなかったのかもしれない。
「……片思いですら、なかったのかな」
ぽつりとつぶやいて、私は目を閉じた。
馬車の揺れに身を任せながら、北境にいるらしい新しい夫のことを考える。
ノクティル公爵。
冷酷無比で、誰からも恐れられている人。
素手で触れた相手を皆、遠ざけてしまうという、妙な噂のある人。
「本当に、今日中に嫁ぐんですよね、私」
声に出すと、少しだけ実感が湧いた。
今さらやめます、なんて言えるはずもない。
アルマティア伯爵家の娘として、それは許されない選択だ。
だったらせめて、最後までちゃんとやり通そう。
伯爵令嬢として、
そして、今日のうちに誰かの妻になる女として。
◇
北境の城は、夜の中にぽつんと浮かぶ氷の塔みたいだった。
門が開き、馬車が中庭に入る。
雪がほの暗い灯りに照らされて、静かに降っている。
扉が開き、冷たい空気が吹き込んだ。
私は裾を踏まないように気をつけながら馬車を降りた。
長い移動で足が少し痺れている。
出迎えの使用人たちの列。その奥、階段の上に、1人の男が立っていた。
黒い礼服。
同じくらい黒い髪。
そして、冷たい夜の色をした灰銀の瞳。
彼が、ノクティル公爵、カディアン・ノクティルだった。
一瞬だけ、その視線が私をなぞり、すぐに外れた。
歓迎されていないのは分かる。
でも、それは嫌悪ではなく、ただ距離を保たれている感じだった。
「アルマティア伯爵令嬢リゼル・アルマティアですね」
低く落ち着いた声が、階段の上から響いた。
「……はい。今夜から、お世話になります。ノクティル公爵閣下」
深く礼をすると、冷たい石畳の匂いが鼻をくすぐった。
顔を上げた時、ふいに強い風が吹き込んできて、マントの裾がはためく。
一瞬、身体が震えた。
その瞬間だった。
カディアンがすっと右手を上げ、背後の執事に目線を送る。
次の瞬間には、誰かが私の肩に厚手の毛皮をそっとかけてくれていた。
「……中へ」
彼はそれだけ言って、くるりと背を向ける。
私を待たずに歩き出すその背中は、冷たく見えるのに、
さっきの毛皮の手配は、どう考えても優しさだった。
怖そうなのに優しい人。
第一印象はそんな感じだ。
私は毛皮を握りしめながら、その背中を追いかけた。
◇
暖炉のある応接室に通され、テーブルの上に書類が並べられた。
火のぱちぱちと燃える音と、ペン先が紙をこする音だけが響いている。
私はソファの端に腰掛け、緊張で背中をまっすぐに伸ばしていた。
カディアンは向かいの椅子に座り、手元の書類を確認している。
横顔は整っているのに、表情はほとんど動かない。
「まずは契約だ」
彼は視線を紙から外さずに言った。
「契約……ですか」
「王都からの条件だ。名目上は正式な婚姻だが、実態は双方の利害によるもの。
それを明文化しておく必要がある」
差し出された紙に目を落とす。
そこには、私とカディアンとの間で交わされる「婚姻契約」の条項が並んでいた。
読んでいくうちに、眉がぴくりと動く。
「……互いに素手で触れないこと」
思わず声に出してしまう。
「その通りだ」
カディアンは淡々とうなずいた。
「夫婦としての義務は求めない。寝室も別、生活もなるべく干渉しない。
君はここで静かに暮らし、1年後、契約が満了した時点で自由になる」
「……1年」
たった1年。
でも、私にとっては初めての「妻」という立場だ。
「夫婦になれない契約書に、自分の名前を書くのは、少し変な気分ですね」
自分でも驚くほど、あっさりとした声が出た。
カディアンがわずかにまばたきをする。
感情が読みにくいけれど、少しだけ驚いているようにも見えた。
「触れられないなら、余計な期待もしなくていいですし。
名前で呼ばれることも、きっとない」
口に出してから、しまったと思う。
本音を言うのは苦手なのに、今は口が勝手に動いている。
「……そういうことだ」
カディアンは視線を落とし、ペンを私の方へ差し出した。
「ここに署名を。カタカナでも構わない」
「いいえ、正式に書きます」
私はペンを受け取り、自分の名を一文字ずつ書き込んでいく。
リゼル・アルマティア。
夫婦になれない契約書に、自分の名前を書く。
その事実が胸の奥を少しだけひりつかせた。
最後の一筆を終えた時、カディアンがその紙をひっくり返して自分も署名する。
カディアン・ノクティル。
彼の字は癖がなく、無駄に整っていて、妙に腹が立った。
「これで、君は私の妻だ。名目上は」
カディアンが小さく息を吐いて言う。
「……名目上でも、初めてです」
思わず口から出た言葉に、自分で驚く。
彼がかすかに目を見開いた。
「今まで政略婚の話はいくつかありましたけど、正式に婚約したのは殿下だけでしたから。
妻になれないまま終わるのかな、って思っていたので」
だから、こんな形でも、少しだけ嬉しいのだ。
おかしい、と分かってはいるけれど。
「そうか」
カディアンの声が、ほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
「1年後、契約が満了したら、君は自由だ。
王都に戻るなり、どこか別の地で暮らすなり、好きにすればいい」
「……そう、ですね」
1年だけ、誰かの妻でいられるなら。
それでもいいと思ってしまった自分が、少し情けなかった。
◇
次の日から、白い結婚生活が始まった。
朝食は、長いテーブルの両端でそれぞれ。
真ん中の席には誰も座らない。
「おはようございます、閣下」
「おはよう」
短い挨拶だけ交わし、あとは各々の皿に手を伸ばす。
今日は焼きたてのパンとスープ、それからジャム。
私の皿の横にだけ、小さなガラスの器でいちごジャムが添えられていた。
「……?」
パンをちぎりながら、私は首をかしげる。
「口に合わなかったか」
向こう側から、低い声が飛んできた。
「いえ。とても、おいしいです」
慌てて返事をすると、カディアンはわずかに視線をそらした。
「昨日、使用人から聞いた。君は甘いものが好きだと」
「……そうなんですか」
母がよく焼いてくれた焼き菓子を思い出して、胸がきゅっとした。
誰かが、私の好みを覚えていてくれる。
それだけのことで、こんなにも胸があたたかくなるなんて知らなかった。
「甘いものは嫌いではありません」
少し間をおいて、カディアンがぽつりと言う。
「そうなんですね」
「……何か問題でも」
「いえ。なんでもないです」
わざわざそんな言い方をするあたりが、不器用で可愛い。
そう思ったことは、もちろん口には出さない。
食事が終わると、カディアンは仕事に出かける。
私は屋敷の中で、使用人たちの邪魔にならない程度に過ごす。
読書室で本を読んだり、庭を散歩したり。
時々、古い家具や花瓶に触れたとき、ふわっと光るものが見える。
それは、そこに染み込んだ「思い出の糸」だった。
私のささやかな魔法。
子どもの頃から、物や人に触れると、薄い光の糸が見えることがあった。
嬉しい記憶は、あたたかな色。
悲しい記憶は、少し冷たい色。
本当にそれだけの、役に立たない地味な力。
王都では一度も必要とされなかった。
けれど、ノクティル公爵の部屋に入ったとき、私は息を呑んだ。
白い。
家具もカーテンも床も、色はあるのに、そこに絡みついている糸だけが真っ白だった。
思い出はあるはずなのに、色がない。
薄くて、今にも切れそうな糸ばかり。
「……さみしい」
ぽつりと出た言葉を、我ながらどうしようもないと思う。
私はただの居候に近い契約妻で、
彼の過去を知る権利なんて、本当はないのに。
それでも、あの真っ白な糸を見てしまったからには、
何も感じないふりをすることの方が難しかった。
◇
数日が過ぎた頃、書斎の机の上に、小さな紙切れが置かれているのに気づいた。
私の部屋の机。
昨夜まで、何もなかったはずなのに。
『本棚の上段の本は、梯子を使え。無理に手を伸ばすな』
不器用な字で、簡潔な注意書き。
「……見てたんですか」
昨日、無理をして背伸びをし、本を取ろうとして椅子から落ちかけたところを、通りかかったメイドに助けてもらった。
その場には、カディアンの姿はなかったはずだ。
机の端にペンと紙を置き、私は少し考えてから返事を書く。
『ご忠告ありがとうございます。次からは梯子を使います』
それから、少しだけ迷ってから、こう付け加えた。
『甘いジャム、とてもおいしかったです』
紙を折りたたみ、扉の外の廊下に出て、そっと床に置く。
使用人が見つけて、公爵へ届けてくれるだろう。
その日の夕方、部屋に戻ると、紙が返ってきていた。
『了解した。甘いものは嫌いではありません』
「またそれですか」
思わず笑い声が漏れる。
それから、私とカディアンの間では、言葉少なな手紙のやりとりが続くことになった。
今日は仕事が遅くなる。夕食は先に済ませておいてくれ。
庭の北側にはまだ地面が凍っている場所がある。歩くな。
図書室の隅の棚に、君の好きそうな物語があった。
短い文。
必要なことだけを書いているようでいて、
そのどれもが、私という人間を見てくれている内容だった。
返事を書いているうちに、私は気づいた。
誰とも触れ合わない暮らしなのに。
手紙だけで少しずつ近づいていく距離もあるのだと。
◇
ある日、廊下でメイドたちがひそひそ話をしているのが聞こえた。
「また、ノクティル様の呪いが……って、噂を聞いたのよ」
「しっ。奥様の前でそんなこと」
「だって本当なんだから仕方ないじゃない。昔だって、乳母が突然……」
気になって、私は廊下の角で立ち止まる。
「乳母の方が、ある日突然『どちら様ですか』って。
それまであんなに可愛がってたのに、何もかも忘れちゃったって話」
「友人もそうだって聞いたわ。小さい頃から一緒だったお坊ちゃんが、
ある日手を繋いだ次の日には、殿下にしか懐かなくなってたって」
「元婚約者の方だって……」
「それはさすがに、噂じゃない?」
「でも、婚礼の直前に、急に破談になったって……」
そこまで聞いて、私はそっとその場を離れた。
呪い。
触れた相手から、自分への感情だけが消えてしまう。
そんな話を、王都でも耳にしたことがある。
信じてはいなかった。
おとぎ話みたいな噂だと思っていた。
けれど、あの真っ白な記憶の糸を見た後では、簡単には笑い飛ばせなかった。
私の中に、小さな不安が芽生える。
もし、私も彼に触れたら。
私は、彼のことを、忘れてしまうのだろうか。
◇
数日後の夕方、私は意を決して、カディアンの書斎を訪ねた。
扉をノックする。
返ってきた低い「入れ」という声に、胸がきゅっと鳴った。
「失礼します、閣下」
部屋に入ると、彼は机に向かって書類に目を通していた。
窓の外はもう暗く、暖炉の火だけが室内を照らしている。
「どうした」
視線だけこちらに向けられ、私は一歩前に出る。
「……お聞きしたいことがあって」
「できれば、仕事が一段落してからにしてほしいのだが」
「今、でないと嫌です」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
彼の手が止まる。
少しだけ、興味を引かれたような目をした。
「……いいだろう。座れ」
促されて、私は机の前の椅子に腰掛ける。
手が汗ばんでいるのが、自分でも分かる。
「どうして、そこまで触れることを嫌がるんですか、閣下」
用意してきた言葉を、まっすぐぶつける。
「わたしが、汚れるとでも?」
「違う」
カディアンは即座に否定した。
「君を守るためだ」
「守る?」
「私に触れれば、君は私を特別だなんて思えなくなる」
淡々とした言い方だった。
「好意も、憎しみも、感謝も。私に向く感情は、全部白く塗りつぶされる」
私は息を飲む。
噂話が、現実の言葉になった瞬間だった。
「……それで?」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「それで、あなたは、わたしにどうしてほしいんですか」
「何も感じないままで、1年を過ごせと?」
「それが、君にとって一番ましなはずだ」
カディアンは、視線を少しだけそらした。
「私などに心を割く必要はない。ここで静かに過ごして、1年後に自由になればいい。
君は、誰か別の男と、ちゃんと触れ合える未来を――」
「勝手に決めないでください」
胸の奥で、何かが弾ける音がした。
「婚約者には『お前との未来はいらない』と言われました」
声が震える。
それでも止められない。
「今度は、あなたに『気持ちなんて無い方がいい』って言われるんですか」
ああ、そうか。
私はまた、誰かに「要らない」と言われているのだ。
「……そんなふうに、わたしの気持ちを無かったことみたいに扱われるの、もううんざりなんです」
カディアンの目が、大きく見開かれた。
「……君の気持ちを、軽んじているわけではない」
「じゃあ、どういうつもりなんですか」
「私は……期待されることに、もう耐えられないだけだ」
彼の声が、ほんの少しだけ弱くなる。
「誰かが私に好意を向ければ、いつか必ず消える。
忘れられる。
もう、何度も経験した」
頬杖をつくように額を押さえ、彼は続けた。
「だから、最初から何も期待されない方が楽だ。
君が私に何も感じないまま1年を終えられるなら、それでいいと思っていた」
……そんな話を聞かされて、楽でいられる人がいるのだろうか。
胸がぎゅうっと締め付けられる。
乳母の話。
友人の話。
元婚約者の話。
白い糸ばかりの部屋。
全部が、頭の中で繋がっていく。
「期待なんて、しません」
私はきっぱりと言った。
「あ、はい、今からあなたに夢見て、王子様みたいになってくださいなんて言うつもりはありません」
カディアンの眉がぴくりと動いた。
「でも、失望も、きっと何度もします」
「それは、宣言することだろうか」
「だって、人間同士ですし。全部思い通りになんて、ならないから」
どうしてこんなにするすると言葉が出てくるのか、自分でも分からない。
でも、今だけは、黙っていたら後悔する気がした。
「それでも、わたしがあなたを好きになるかどうかを決めるのは、わたしでありたいんです」
静かに、けれどはっきりと言い切る。
カディアンはしばらく私を見つめていた。
灰銀の瞳が、暖炉の火を映して微かに揺れる。
「……君は、変わっているな」
ようやく絞り出された言葉が、それだった。
「よく言われます」
私はひっそりと笑う。
私がずっと欲しかったのは、きっと「ふつう」ではなかったのだろう。
誰かの隣で、ちゃんと自分の気持ちを持ったまま、そこにいること。
それを、今ようやく掴みかけているのかもしれない。
◇
それから少しして、王都からの報せが届いた。
アシュレイ殿下が、神殿の派閥争いに巻き込まれ、大変なことになっているらしい、という噂。
詳細は省くとして、その騒ぎの余波で、北境も一時的に落ち着かない状況になった。
私は巻き込まれないように、屋敷の中で静かに過ごしていた。
とはいえ、暴漢が押し寄せてくるような大事件にはならず、
結局のところ、ノクティル公爵家と王都の間の契約条件が少し変わった程度で済んだらしい。
長い数日が過ぎ、ようやく落ち着いたある晩。
私は自室の机の上に、紙を広げていた。
光の魔法で見える「思い出の糸」を、書き留めるためだ。
あなたを好きになった日のこと。
初めて笑ってくれた朝。
指先が、ほんの少しだけ震えていた夜。
それらを一本一本、日記の中に縫いとめていく。
「……これでよし」
ペンを置き、私は深呼吸をした。
やろうとしていることは、無茶だと分かっている。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも、今のうちに決めておかなくては。
私は蝋燭を手に取り、廊下に出た。
◇
「閣下。……少し、お時間をいただけますか」
書斎の扉をノックしてそう告げると、しばしの沈黙の後、「入れ」と短い声が返ってきた。
「どうしても、今のうちに、言っておきたいことがあるんです」
「1年の契約を、今すぐ終わらせたいのなら聞こう」
紙から顔を上げないまま、カディアンが言う。
「君がもうここにいたくないというのなら――」
「違います」
私は一歩踏み出し、言葉を遮った。
「出ていきたいなんて、一度も思ったことありません」
少し考えてから、正直に言い直す。
「……正しく言うなら、一度くらいは思いましたけれど」
カディアンの手が止まる。
「でも、それ以上に、ここにいたいって思ってしまったんです」
ようやく彼が顔を上げた。
「リゼル」
「あなたは、いつも距離を取ろうとしますけど」
私は彼の机の前まで歩き、まっすぐ目を見た。
「朝の食卓で、私の好みを覚えていてくれるあなたが、嬉しかったです」
「……些細なことだ」
「夜中に悪夢でうなされていたとき、私が部屋を訪ねたら、『大丈夫だ』って誤魔化した声も、ちゃんと聞いていました」
あの時、彼の背中はとても大きくて、でも、抱えているものはあまりにも重そうで。
手を伸ばしたくて、でも触れられなくて、苦しかった。
「不器用で、怖がりで、誰より優しいあなたを、私は――」
「リゼル。やめろ」
カディアンが低く言う。
「それ以上は、聞かせるな」
「どうしてですか」
「今ここで触れれば、その言葉も、想いも、全て消える。
そんな残酷なことを、私は――」
「残酷かどうか決めるのも、私です」
私は静かに言った。
「私は、覚悟して触れます」
震える手を、膝の上でぎゅっと握りしめる。
「あなたを好きになったことを、一度、手放してもいいと思えるくらいには――本気で、あなたが好きだから」
「……どうして、そこまで」
カディアンの声が、かすかに揺れた。
「私は、君を幸せにできない男だ。
触れた途端に忘れさせてしまうような男を、なぜ」
「忘れてもいいからです」
自分でも驚くほど、はっきりと言えた。
「忘れてしまっても、私はきっと、またあなたを好きになるから」
だって、私はもう知ってしまったのだ。
この人の不器用な優しさも、
誰にも言えない孤独も、
それでも誰かを守ろうとするまっすぐさも。
「だから、今だけは、あなたに触れさせてください。私の意思で」
私はそっと手袋を外した。
白い指先が、蝋燭の光に照らされてわずかに震えている。
カディアンは黙ったまま、その様子を見つめていた。
やがて、深く息を吐く。
「……本当に、後悔しないか」
「後悔したとしても、それも含めて、私の選択です」
私は手を伸ばした。
彼の手の甲に、そっと、自分の指先を重ねる。
その瞬間、世界から、色が抜け落ちた。
◇
暖炉の炎は赤いはずなのに、白く見えた。
椅子も、机も、本棚も、全部白い。
音だけが、やけにはっきり聞こえる。
心臓の鼓動。
自分の呼吸。
そして、誰かの声。
「……リゼル」
「……ん」
少し、頭が重い。
でも、立っていられないほどではない。
「気分は悪くないか」
「いえ。少し、ぼんやりしているだけです。……閣下?」
名前を呼んでから、違和感に気づく。
「いえ、公爵様、と呼んだ方がいいんでしょうか」
カディアンが、ほんの少しだけ眉をひそめた。
「私は、ノクティル公爵カディアン。君は、アルマティア伯爵家の――」
「リゼル・アルマティアです」
私は自分の名前を口にした。
「名前くらいは分かります。閣下」
「……そうか」
カディアンは短く答える。
「忘れてしまったのなら、それでいい。謝る必要も、取り繕う必要もない」
「忘れて……?」
私は自分の胸に手を当てた。
そこは、少しだけ空っぽだった。
何かがぽっかり抜け落ちたような感覚。
痛みではなく、ただの空洞。
「不思議です」
思ったままを口にする。
「あなたを見ると、胸のあたりが、少しだけ空っぽな感じがして」
カディアンの表情が、ほんのわずかに歪んだ。
「それは、私の呪いの副作用だ。すぐに慣れる」
「そう……なんですね」
慣れたくない、と思ったのは、どうしてだろう。
「もう部屋に戻れ。休め」
「はい。……でも、ひとつだけ」
扉の方へ向かいかけて、私は振り返る。
「空っぽなのに、あなたの前にいることが、ひどく間違っている気はしないんです」
カディアンの目が、わずかに見開かれた。
「変ですね。初めて話したみたいなのに」
自分でそう言って、私は頭を下げた。
「おやすみなさい、閣下」
扉を閉める直前、彼が何か言いかけたような気がしたけれど、
私の耳には、もう届かなかった。
◇
自室に戻ると、机の上の日記帳が、じっとこちらを見ているように思えた。
さっきまでの出来事を、頭の中でなぞる。
彼に触れた。
胸の何かが抜け落ちた。
でも、名前は分かる。
言葉も、立場も、全部覚えている。
ただ――「好きだった」という実感だけが、きれいに消えている。
「……だから、書いておいたんですよね、私」
私は椅子に腰掛け、日記帳を開いた。
そこには、ついさっきまで、私が書き込んでいた言葉が並んでいる。
『今日、公爵閣下がはじめて甘いジャムをおかわりした』
『きっと甘いものが好きなのに、わざわざ「嫌いではない」と言い張るのが可愛い』
「……なにを書いてるんですか、わたし」
思わず笑ってしまう。
あの日の私は、この人のことがこんなにも気になっていたんだ。
ページをめくる手が止まらない。
『悪夢から醒めたあとの閣下の声は、思っていたよりずっと弱くて、守ってあげたいと思ってしまった』
「守りたい、なんて」
私は小さく息を吐いた。
「……私、そんなふうに思ってたんだ」
光の魔法で、そっと指先に力を込める。
ページの上に、細い光の糸が浮かび上がる。
それは、過去の私が感じていた感情の名残。
『不器用で、怖がりで、誰より優しい』
そんな言葉が、糸の中に絡みついているように見えた。
「これが、わたしの『すき』だった頃の糸……」
細くて頼りないのに、ちゃんと彼に向かって伸びている。
今は色が薄い。
けれど、たぶん、また色を塗り直せる。
私はゆっくりと目を閉じた。
……恋は、落ちるものだと思っていた。
気づいたら落ちていて、どうしようもなくなるものだと。
でも、私はちゃんと自分で、あなたを好きになることを選んでいたんですね。
「だったら」
私は目を開け、ペンを取った。
もう一度、選び直せばいい。
『報告。私はノクティル公爵カディアンのことが好きでした。
そして、今も好きです。
これからも、たぶん何度でも好きになります』
そう書いて、私はそっと笑った。
◇
翌朝、私はノクティル公爵の執務室を訪ねた。
扉をノックすると、少し間をおいて返事が返ってくる。
「閣下。失礼してもよろしいでしょうか」
「……入れ」
部屋に入ると、カディアンはいつも通り机に向かっていた。
ただ、その横顔は、普段よりほんの少し強張って見えた。
「体調はどうだ」
開口一番、彼はそう尋ねてきた。
「目眩や吐き気は」
「ありません」
「私の顔を見て、何か思い出すことは――」
「ええ。たくさん、思い出しました」
私は彼の言葉を遮った。
「日記と光の糸と、それから……今の私の気持ちを照らし合わせた結果を、報告しに来ました」
「結果……?」
カディアンが固まった。
「私は、そこまでされる価値のある男ではない」
「あります」
私は即座に否定した。
「私がそう決めましたから」
まっすぐ彼を見る。
「閣下。私は、あなたのことが好きでした」
一拍置いて、続けた。
「そして――今も、好きです」
沈黙が落ちる。
暖炉の火の音がやけにはっきり聞こえる。
「……呪いは、確かに発動したはずだ」
カディアンが低く言う。
「君の中の、私への感情は、一度は消えたはずだ。
どうやって、また――」
「感情は消えても、選んだことまでは消せませんでした」
私は、椅子を引かずにその場に立ったまま言った。
「私はあの日、あなたを好きでいることを、自分で選んでいたみたいです。
だから、その選択を、もう一度なぞりました」
日記と、光の糸と、あなたとの日々を読み返して。
「文字の中のあなたは、少し怖くて、少し優しくて、どうしようもなく不器用でした」
カディアンの耳が、ほんの少し赤くなった気がする。
「そんなあなたを好きだと思ったことが、どうしても嘘だとは思えなくて。
だから、もう一度、今の私が同じ場所まで歩いて行きました」
「……そんな面倒なことを」
カディアンがぼそりと呟いた。
「もっと、君を幸せにできる男はいくらでもいる」
「そうかもしれません」
私は笑う。
「でも、『私が面倒を見たい』と思ってしまったのは、あなただけなんです」
彼の表情が、ぴたりと止まった。
「あなたの寂しさも、優しさも、不器用さも、ぜんぶまとめてお世話したい。
それが、私の幸せなんです」
「……リゼル」
初めて聞くような、弱い声だった。
「本当に、後悔しないか」
「忘れられるたびに、私がまたあなたを好きになるだけです」
私は軽く肩をすくめて見せる。
「何度でも、初恋からやり直せると思えば、少しお得じゃありませんか?」
沈黙。
やがて、カディアンが立ち上がった。
机を回り込んで、私の目の前に立つ。
灰銀の瞳が、真正面から私を捉えた。
「……そうだな」
彼は、少しだけ口元をゆるめた。
「君がそう言うのなら、私は何度でも、君に恋をし直してもらおう」
ゆっくりと、私の手を取る。
今度は、手袋ごしのぬくもりだった。
「だからそのたびに、君の恋に応えられる男であれるよう、努力しよう。
今度こそ、期待から逃げずに」
「はい。期待しますね、閣下」
私は笑って答えた。
「大いに、期待させてください」
そして、彼の手を握り返す。
きっとこれからも、たくさんすれ違って、たくさん傷ついて、
何度も「もう嫌だ」と思うのだろう。
それでも、私は何度でも選び直す。
この人の隣にいたい。
この人を好きになりたい、と。
◇
それから少し時間が過ぎた。
白い結婚生活は、少しずつ色を取り戻していく。
朝の食卓。
相変わらず長いテーブルの端と端だけれど、前よりずっと賑やかだ。
「おはようございます、閣下。ジャムは、いつものいちごでよろしいですか?」
「……ああ。いや、もう少し甘くてもいい」
パンをちぎりながら、カディアンが少し照れたように言う。
「最近、君に慣れてきたせいか、甘いものが以前より好きになった気がする」
「それはよかったです」
私はくすりと笑った。
「では、私も遠慮なく甘くしておきますね」
「……甘く?」
「あなたへの態度も、ジャムくらいには甘くするつもりですから」
「……すでに十分甘いと思うが」
カディアンが小さくため息をつく。
「これ以上甘くなったら、私は仕事に出られなくなる」
「それは困りますね。では、ほどほどにしておきます」
そんな他愛もないやりとりが、たまらなく愛おしい。
玄関先。
今日は、彼は少し遠くまで視察に出かけるらしい。
「閣下。本日の予定は遅くまでですか?」
マントの襟を整えながら尋ねると、カディアンは少し考えてから答えた。
「できる限り早く帰る。君が待っている家に、夜遅くまで帰ってこないほど、私は愚かではない」
「…………」
そんなことをさらっと言えるようになったあたり、
だいぶ甘くなりましたね、閣下。
言葉にならない何かが胸の奥でじんわり溶けていく。
「では、いってらっしゃいませ」
私は裾をつまみ、少しだけ礼をした。
「お帰りまでに、あなたを好きになる理由を、また1つ見つけておきます」
カディアンが、ほんの少しだけ目を丸くする。
「そう言われると、帰るのが楽しみになるな」
彼はマントを翻しながら、静かに笑った。
「私も、君を好きになる理由を、1つでも増やして帰ってこよう」
「楽しみにしています」
扉が開き、冷たい風が吹き込む。
彼の背中が、雪の舞う中庭へと消えていくのを見送りながら、
私は胸に手を当てた。
何度忘れてしまっても大丈夫。
そのたびに、私はちゃんとまた、この人を選ぶから。
私は今日も、まだ見ぬ「好きになる理由」を探しながら、
この城で彼の帰りを待つのだ。
読了ありがとうございました!
「たとえ感情が白く消えても、何度でも自分で好きを選び直せる」という想いで書きました。
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