今夜猫になる
河野あすみ 十六歳。高一。とにかく毎日だるくてつまらない。学校も家も友達も世界も、私の興味を掻き立て情熱を触発するものなんて一切ない。
だけどそれでいい。別に私はそのことに憂いているわけでも足掻いているわけでもない。とうに慣れ親しんで受け入れているし、むしろ歓迎すらしている。変化がなければ少なくとも沈むことはないのだから。沈まなければこけることも落ちこぼれることもない。平坦に凡庸に、それはつまりなによりも重要で肝心な真理なのではないか。
と、高一にして悟った風に達観して納得して、ある程度器用にこなす日常。そんな私の唯一の楽しみでありかなり特異な体験。
なにを隠そう、私は今夜猫になる。
その現象が起こったのは一週間前の九月一日。私は夕食のそうめんと揚げ茄子という好物を腹八分目に調整して完食し、小テストの為に勉強でもしようと早々に自室に引き上げた。しかし勉強なんてやろうとした途端掃除だったり眠気だったりえてして抗いがたい誘惑が次々と襲い、スムーズに手につかなくなるのはいつものことだ。仕方なく早めに寝て、早起きして取り掛かろうと自分自身を説得ならぬ懐柔をし、いそいそとベッドに入った。その数時間後の出来事だ。
熱い・・・
猛烈な熱気、というよりは自分が発する体温の高騰にうなされてうっすらと目を開けた。この時期、クーラーは付けっぱなしにしている。その割には、まるで毛布でくるまれてでもいるみたいに熱が引かない。何度か寝返りを打ち再度入眠を試みるも、やはりうだる暑熱に阻まれて快適な睡眠は二度と訪れない。よもや母がこっそりエアコンの設定温度を上げたのか、もしくはスイッチを切ったのか、仕方なく布団を抜け出し床に足を下ろした。そのつもりだった。
しかし、床を踏む感触にはたと動きが立ち止った。二本の脚ではなく、四か所がフローリングの板を押す感覚がある。両手と、両足だ。しかも、目線がやけに低い。たとえ四つん這いになったってベッドのマットレスを遙か見上げることなんてない。しかし、真っ暗な中でしっかりと部屋の家具の細部までもを観察しながら、自分の部屋が突如巨大化したような、まるで小人にでもなったような違和感が襲った。それにやっぱりものすごく暑い。
戸惑いながらも、もしかしたらまだ夢の中なのかもしれないなんて悠長なことをぼんやりと考えて、四本の手足で部屋を歩き、エアコンのスイッチを見上げた。確かに作動しているし、そこに浮かぶ電子表示の時計まで明瞭に見えた。深夜十二時だ。変な時間に起きてしまったと暗澹としてベッドに戻ろうとしたところ、姿見に写る影が目に入った。
思わず鏡に近づき、まじまじと自分の姿と対面する。右を向き、左を向き、顎を持ち上げ、前足で顔を掻いてみる。
「みゃあ!?」
声までまったくそのものだ。
真っ暗な部屋の鏡の中にうつっていたのは、一匹の愛らしい三毛猫だった。
私は狼狽え、呻吟し、考察し、やがて開眼した。二分後には二階の部屋の窓から外へ繰り出していた。屋根の上だって軽やかな足取りで進み、危なげなく地上に着地も出来た。
『サイコー!!』
猫語で雄たけびを上げ、何かに突き動かされるように晩夏の深夜の道を颯爽と闊歩する。夜風がさらりと心地いい。
本能に植え付けられた記憶なのか、いつしか引き寄せられるように足は町はずれの公園へ向かっていた。そこになにがあって、何が起こるのか、知らないけれど知っているような気がした。とにかく、とりあえずはそこへ行く必要がある。
私は壁に飛び乗り屋根を飛び越え樹々を揺らして最短ルートで目的地と定められた公園へ向かった。なぜかすでに出遅れているような焦燥感さえあった。
猫の俊敏さをもってしてもやや息が切れるくらいに猛進し、まったく見ず知らずの公園に辿り着くと、すでに無数の同胞が集結していた。
人気のない、鬱蒼と暗闇の蔓延る公園の広場に、見渡す限りの猫、猫、猫。
ざっと数えても五十匹はいるのではないだろうか。
私は出来る限り足音を立てず、目立たず、まるでずっといましたみたいな顔をして円状に広がる猫衆の最外縁に身を連ねた。息を詰めて辺りを見渡してみるが、遅れて参入した自分に気付いた猫はいなさそうだ。私は何食わぬ顔で前を向き、ほっと胸を撫でおろした。
それにしてもこれはいったいどういった状況なのだろう。改めて見回しても、種類も年齢も生活環境もさまざまであろう猫たちが一堂に会して何かを待っている。隣の高貴そうなシャム猫に問い掛けることも憚られて、私は黙してその後の展開に目を凝らした。
しばらく手持無沙汰でキョロキョロしていると、ふと右斜め前のトラ猫が目に入った。すんと前を向いているが、何か他の猫たちとは雰囲気が違う。私はじりじりと列を詰めて、そのトラ猫の真後ろまで近づいた。そして、鼻先を近づけてみる。
人間だったら変態かストーカーだが、猫なら至極自然な仕草だ。事実、周囲の猫たちも何食わぬ顔で気にも留めない。私は調子に乗ってもう一度鼻を近づけ、再度くんくんと豪快に鼻息を鳴らした。
やっぱり、と思った。獣臭がまったくしない。シャンプーだかボディソープだかの人工的な芳香がする。しかもどこかで嗅いだことのある、たぶん市販で広く出回っている類のもの。学校でもたまにぷんと香るやつ。
私の勘が告げている。ピンときた、というよりは、もしかしたら仲間は見分けがつきやすくなるような能力が備わっているのかもしれない。
『みゃ・・・』
声を掛けようとして、またも何かがピンきた。猛然と、畳みかけるように啓示が降ってくる。
これはルールだ。互いに正体を暴いてはいけないルール。
私はその場面に出くわして、にわかに猫化にまつわる法度を習得した。まるでゲームのクリア条件みたいに、ここに来ればこのヒントを得られます、といった具合に突然脳内に書き加えられたのだ。
その内容はこうだ。
①猫化するにはライフが必要。ライフは一人につき一つ与えられている
②他の猫化人間をダウトしたらライフが一つ増える
③ただしお手付きはマイナス一ライフとなる。
④ライフがゼロになれば二度と猫化できない。
⑤ライフは分けることは出来ない。
⑥同時のダウトは相打ちとなる。
⑦本物の猫も猫化人間と長く接すれば同じ匂いをつけるようになる。その逆も同様である。猫化を長く楽しみたければ慎重にダウトすること。
⑧猫化に関しては絶対に他言無用である。明かそうとした地点で効力は失効する。
これがざっと刻み込まれた猫化に纏わるルールだ。つまり、ダウトすれば勝ち、先に見破られればアウト。誰にも言わない。そして、猫化人間は他にもいる、ということだ。
私は驚嘆した。のほほんと猫化を楽しもうと思っていたが、今の私はライフ一つの状態。一ダウトで退場なのだ。冗談じゃない。それなら何が何でも先にダウトしてライフを増やさなければおちおち外も歩けない。こんな集会なんて地雷の中に自ら足を突っ込みに来たようなものだ。いや、しかしだからこそ他の猫化人間とも遭遇できるし、ライフ獲得のチャンスも得られるというものなのか。だとすれば、皆考えることは同じ。この中に必ず他の猫化人間が紛れ込んでいる。その一人は、もしかしたらいま目の前にいるこのトラ猫の可能性も大いにある。
私は乙女の恥じらいなどかなぐり捨て、毛皮に鼻が触れるくらいに近づいて、またも匂いを吸い込んだ。なにかに集中していたのかその段にきてようやく気配に気づいたらしいトラ猫が振り返る。私は思わず飛び退り、何事もなかったかのようにそっぽを向いてわざとらしく知らん顔を決め込んだ。かなり無理があるのはわかっていたが。
トラ猫はしばらく不審そうな面持ちで私の姿を眺めまわしていたが、やがて諦めたようにまた前を向いた。私はほっと緊張をといて、さすがにもう近づくことは出来ずにその場で集会に参加する。といっても、いったいこれから何が起こるかは全く見当もつかないが。
やや顔を傾いで斜め前方のトラ猫の顔を見ると、たぶん自分と同じ年くらいなんじゃないかと思った。猫の年齢なんて見た目じゃわからないから、本当に単なる勘だけど。
そうこうしている内に、周りが騒めき出した。円状に群がった猫たちの目線が一様に中心に向けられ、熱気を帯びる。なにがなんだか分からないまま、私も中央を向いて瞠目した。すると、そのぽっかりとステージみたいに開いた真ん中の空地に、ぼんやりと蜃気楼みたいな影がうつり、やがて色が濃くなって、次第にはっきりと輪郭が見えてきた。
人だった。遠めだが、たぶん二十代くらいのお兄さん。そして恐ろしく明確に、生きている人間じゃないと分かった。燐光を纏ったように肌の表面は発光し、さらにうっすらと透けている。幽霊だ。猫の集会は幽霊の召喚の儀式だったのか。
腰を抜かしそうになりながら固まっていると、周囲の声が耳に入ってきた。
「今日の人は若くて元気そうだ、やっぱり若いのはいいね」
「ほんとほんと。年寄りだと直ぐに帰っちまうからな」
「猫好きの若者に悪い人はいないさ。さあはやく楽しもう」
「さてと今宵の酒はどんな味か」
口々に言いながら、現れた青年に向かって猫たちが群がっていく。青年は腰を折って手を差し出し、猫たちを撫でたり肩に乗っけたり、指を舐められたり、ようするに楽し気に戯れている。
そうこうしている間にぼんぼりみたいに無数の光が灯り、辺りを取り巻き闇の中に猫たちが浮かび上がる。いつのまに現れたのか、食べ物や飲み物の器がそこかしこに置かれ、美味しそうな匂いが漂い、猫語の陽気な喧騒が広がっていく。
私は呆気にとられたままその光景に見入った。目の前で、突如出現した幽霊を囲んでの大宴会が開催されているのだ。
「今夜が初めて?」
開いた口を戻すことも忘れて茫然と立ち尽くしていたところに急に話しかけられ、大袈裟じゃなく飛び上がりそうになった。恐る恐る声のした方に顔を向けると、さっきのトラ猫が前足を揃えて座っている。
「あ・・・えっと・・・」
これはもはや見破られているのではないか。私は焦りと動揺でしどろもどろしながらも、次なる展開を即座に想像した。ここでダウトされてしまっては、記念すべき初猫化が同時に猫化納めとなってしまう。かくなるうえは、禁じ手のダウトをするより手はないか、しかしもしもお手付きならばその瞬間にもジ・エンドだ。
あれやこれや一瞬で構想を巡らせる私を見て、トラ猫はふっと微笑った。猫だけど、そんな気がした。とても優しく大人びた微笑に見えた。
「ダウトはしないでもらえるかな」
落ち着いた口調が、しかし自分が猫化人間だと語っている。私もどこか肝が据わり、真っ直ぐに目線を合わせた。
「あなたは、もう何度目なの?」
こたえははぐらかし、質問を返した。主導権を握られたくないという幼稚な反発心からだ。しかしトラ猫は気にした風もなく、尚も穏やかな声で続けた。
「僕はこれで四度目だよ。君は勘がいいんだね。すぐに見破るなんて」
敵意はないようだった。それに、とても感じがいい。私は気が良くなって、もう少し話してみようと思った。
「猫の集会って、なにをしてるの?あの、幽霊はなに?」
そもそも猫たちが宴会をするなんて聞いたこともない。酒がどうとかとも言っていた。
「猫は霊感が強い生き物なんだ。だから集まると死者の魂を呼び寄せる。呼ばれた魂はこうして一夜限りの酒宴で歓待されるのさ。魂と共に、ご馳走も降ってくるからね」
「それって、誰が来るかわかるの?」
「それはわからないよ。だけど、とても猫が好きだった人って決まってる」
どうりで猫たちが怯えもせず近づき、なついていったのか。見ると、酒に酔った猫たちが千鳥足で踊ったり歌ったり、幽霊の青年にしなだれかかって甘えたり、もはややりたい放題の饗宴と化している。
「楽しそう」
私も思わず笑顔になり、あられもない可愛い猫たちの嬌態に眺め入った。
「それで・・・」
言いかけたトラ猫を私は制した。
「わかった。あなたをダウトしない。そのかわり、あなたもしないでね」
「うん。ありがとう」
トラ猫はほっとしたように言って、そっと耳元に口を寄せた。
「お礼と言っては何だけど、あの、ぶち猫には気を付けて」
青年の膝に頭を乗せて酔いつぶれている大きな白と黒のぶち猫の姿を指した。
「彼は何度もダウトを成功させてる。特に新人はやられやすい。出来るだけ近づかないように」
それだけ言うと、トラ猫は宴会には加わらず、身軽に公園を抜けて闇の中へ走り去っていった。後には、瑞々しい春の花のような香りが残った。
翌朝、目が覚めた瞬間に現実を疑った。ベッドの上で両手を広げる。やっぱり人間の手だ。私は人間のままだ。当然ながらその事実に絶望し、絶望したままのろのろと身支度を整えた。現役女子高生の私は、月曜日の一限目を公然とさぼる理由がない。
母に急かされながら朝食を食べ、満員電車に飛び乗り、まだまだ翳りを知らない九月の太陽を一身に浴びて坂の上の高校の校門へ辿り着いた。
またしてもこの陰鬱な日常がスタートを切ったのだ。鉛みたいに重い足を引きずり、教室のドアを開ける。面白みのない、どこをどう切り取ってもまったくいつも通りの光景。
私は完全に教室中に聞こえるくらいのため息を吐いて、窓際の一番前の席に着いた。
この席次から言っても、俄然やる気を消沈させる。大儀そうに腰を下ろしたところで、近づいてくる人影があった。
「あすみー、おはよっ。今日も絶好調に腐ってるね」
屈託ない笑顔の茶髪の声がつむじあたりに落ちる。
「おはよ、美菜。世の中の高校生は何が楽しくて生きてるんだろう」
机に突っ伏し顔を横に向けたまま答えた。鼻息で顔に掛かった髪が揺れ、くすぐったい。
「なにってあんた、女子高生ってだけで至上の価値があるってことにまだ気づかないのかね。生きてるだけで誰もが羨むJkのいまを謳歌しないなんて、青春をどぶに捨てたも同然だよ」
大げさに捲し立てながら肩をバンバン叩かれ、若干殺意を覚える。もうなんでもいいからとにかくそっとしておいてほしい。
あー早く次の猫化が訪れないかな、なんてボケっとしていたらいつのまにか一時間目が終わっていた。私は本当に時間をどぶに捨てているようだ。
そうこう時間を棄てまくってまた一週間の時が過ぎた。感じる。今夜は猫化の日だ。むくむくと体の奥底から野生の気配が沸き上がってくる。
私はいてもたってもいられずに午後八時に就寝した。もうウキウキしすぎて一分だって正気で過ごせなかった。果報は寝て待てだ。そして待ちに待った深夜、あの血管が沸騰したみたいな熱っぽさがやってくる。今度は疑うこともなく一瞬で飛び起きて、ベッドから飛び降りた。軽やかに両手足で着地する。姿見を見るまでもなく、まっすぐに出窓に飛び乗ると、うっすらと秋の気配が差し込む夜の中へ身を乗り出した。
どうしようかと思ったが、やはりまた猫の集会に顔を出してみることにした。あのトラ猫のことも気になった。今夜も来ているのだろうか。そして、きっと来ているだろうと思った。彼にはなにか、目的というか意志的なものを感じた。どうしても集会に来たいのだという確固とした決意のようなものを。
公園に足を踏み入れると、すでに大勢の猫が集まっていた。その中心あたりにいる大きなぶち猫が目に入って、遠ざかるように対極線上に陣取った。そこからみても、ふてぶてしいまでに猫然と、堂々としている。いったいもう何匹の猫化人間のライフを吸い取ったのだろう。
トラ猫の姿を探そうとした時、あの現象が起こった。ざわめきが近づき、円の中心に映像のように朧な姿が象られていく。それが人の形を取り、やがて愛おし気に猫たちに手を差し伸べた。明かりが灯り、酒や御馳走が現れる。我先にと殺到する猫たち。嬉しそうな笑顔で猫に取り巻かれる、女性。三十代か四十代か、細面で上品そうな女の人だった。とても優しい面差しで、猫に触れる手つきも丁寧で細やかだ。
その輪の中心に、この間のトラ猫がいるのがわかった。女性が座った膝元に遠慮がちに近づき、おずおずと見上げている。そのピンと立った耳の間を、女性の手が愛おし気に撫でた。
トラ猫が目を閉じ、首を下げ、何かを堪えるように震えたように見えた。一瞬、痛みでもあったのかと思ったが、違う。彼はたぶん、胸が一杯なのだ。溢れて止まらない想いが暴れ出さないように、必死で耐えているのだ。女性はトラ猫を撫でつづける。優しく、いつまでも手を触れたまま目を細めて見つめている。
私は言葉を失くし、その光景に釘付けになって、どうしようもなく胸が切なくなった。
そのときだ。トラ猫に近づいていく巨体が視界の端に映った。あのぶち猫だ。恥知らずにもたくさんのライフを飲み込みブクブクと肥大化した悪党。そいつが、肥えて皮膚に押された細い目をらんらんと光らせて、トラ猫に忍び寄っていく。
ダウトする気だ!
気づいたときには駆け出していた。私は酔ってそこら中に這いつくばったり暴れたりしている猫たちの間を縫って、または押しのけ踏み付けて、一目散にぶち猫まで辿り着き、その横っ面に強烈な猫パンチをお見舞いした。
虚を衝かれたぶち猫は「ぐぎゃ」という蛙を踏み潰したみたいな声をあげ、あっさりとその場にのびる。もしかしたら割とご老体だったのだろうか。そうだとしたらちょっと申し訳ないことをした、と胸中で両手を合わせ、私はその首根っこを噛んで輪の外まで引っ張り出した。
宴は夜が白む頃まで続き、ぶち猫はのびたままで、トラ猫は女性に寄り添ったままで、猫たちは酔いつぶれたままだった。そしていつの間にか朝になり、私はベッドの上で眠っていた。なんだかとても、清々しい朝だった。
スキップしたいくらいの晴れやかな気持ちで玄関を飛び出し、満員電車すらメリーゴーランドの気分で乗りこなし、坂すら小躍りで駆け抜けて、私は校門をくぐった。軽やかに教室のドアを開けるなり、いつになくしまりのない顔面で席に着く私にすかさず目を止めた美菜が駆け寄ってくる。
「なになに、なんかいいことあったっしょ?何よいったい、正直に吐きなって」
よほどにやけていたのか私の顔を両手で挟みながら強引に横に向けた。九十度に曲がった首が悲鳴を上げ不平を零したいところだが、今の私はお釈迦様よりも懐が深い。多少の無礼くらいへの河童だ。しかしそうは言っても説明なんてできる筈もない。
「ちょっとねー」
にへらにへらと不敵な笑みを膨らませて適当に流すと、美菜は不気味なものを見るみたいに若干ひいた顔つきで、チャイムと共に席に戻っていった。
昼休み、尋問をしようとする美菜に引きずられるように廊下に連れ出され、私は仕方なく従った。話したいけど話せない。ジレンマに苦悩し、しかしやはり甘やかな充足感に陶酔し、私はまたもにやけていた。いったい何がそんなに嬉しいのか自分でも分からなくなり始めていたが、一秒でもこの気持ちを長続きさせたくて、張り付いた笑顔を引っ込められないでいた。
そのとき、ふわりと鼻孔を掠める匂いに足が止まった。いつか嗅いだ、瑞々しい花の香りだ。シャンプーだか柔軟剤だと思ったが、しかし忘れる筈もない。この甘さ、この濃度。
咄嗟にすれ違った生徒を振り返った。そして自分でも驚くくらい積極的に近づくと、その人の前に回り込んだ。
「あのっ・・・」
言いかけた私を戸惑った様子で見つめた彼は、やがてゆっくりと微笑む。そうだ、間違いない。この笑い方。この雰囲気。穏やかで、優しい眼差し。
「折原じゃん、なに?あすみ知り合いだったの?」
美菜が追いかけてきて私と折原と呼ばれた少年を交互に見比べた。
「あたし同じ中学だったんだよ。え、二人、つまり、そういうこと?」
好奇心と老婆心を滲ませて、美菜が艶のある声を出す。とんでもなくめんどくさいことになりそうだが、どうしても二人で話がしたくて私は思わせぶりな顔つきを精いっぱい作った。
「そうなの、ちょっと、二人にしてくれる?」
「もちろんよ」
心得たとばかりにほくそ笑んで、去り際にひそかに親指まで立てて美菜はそそくさと遠ざかっていく。私と折原君は阿吽の呼吸で廊下の突き当りまで移動すると、周りに人がいない事をそっと確認した。間もなく昼休みが終わってしまう。
改めて向き合ったところで、折原君の方から口を開いた。
「ありがとう」
その言葉が、すべてを物語っている。私は素直に頷いた。あのときと同じ、沁みいるような綺麗な声だと思った。
「あの人、誰だったの?」
「母だよ」
うっすらと、そんな気がしていた。あの女の人を見つめる折原君の目と、注がれる視線の優しさは同じ色をしていた。
「君が僕をダウトしなかったおかげで、しかもぶち猫まで撃退してくれたから、最後にゆっくり母と会えた」
ぶち猫への狼藉はばっちり見られていたらしい。
「最後?もう会えないの?」
「地上に降りられるのは一度きりだから」
少しだけ寂しそうに笑って、折原君は姿勢を正した。
「もう思い残すことはないよ、僕をダウトして。そうしたら、君のライフが増える」
「じゃあ、一緒にダウトしよう」
考える前に、そう言っていた。言ってから理由を考えて、でもやっぱりその答えしか浮かばなかった。あれほど猫化を素晴らしいと思っていたけど、日常なんてくだらなくてつまらないと思っていたけど、なんだか自分にももう思い残すことなんてないような気がした。
折原君が一瞬驚いたように目を大きくして、やがて柔らかく微笑んだ。
胸の中心が、鼻の奥に冷たい水が沁みたみたいにツンと痛くなる。でもそれは、なんだか癖になりそうな、何度でも味わいたくなるような痛みだった。
私と折原君は見つめ合って、同時に息を吸って、声を合わせた。
「ダウト!」
私はもう猫にはならない。現実に咲き出しそうな小さな喜びの蕾を、目の前に見つけたから。




