【45】初恋の人
――視察旅行から戻り、もうすぐ一月。
足の捻挫もすっかり癒えて、平穏な日々が過ぎている。
「それでね。今日もお父様がね、剣のけいこのとき、ほめてくれたんだ。『どんどんうまくなってる』って」
子ども部屋での、夜のひととき。絵本を読んでおしゃべりをしてから、アレクを寝かしつけようとする。今日の絵本は騎士が冒険をするお話だったから、アレクはまだ興奮気味だ。
「良かったわね、アレク。それじゃあ私も、明日はお稽古を見に行ってもいい?」
「お母様はまだダメ。もっと強くなるから、もう少しまってて。ぜったい、びっくりさせるから」
子供の成長は早い。5歳も半ばを過ぎたアレクは、一段としっかりしてきた。力強い笑顔がとても眩しい。
「楽しみにしてるわね。それじゃあ、今日はそろそろおやすみ」
「はーい」
寝転がったアレクの胸を、とん。とん。と優しく叩いて子守唄を歌う。やがて穏やかな寝息が聞こえ、私はそっと立ち上がった。
「んぅ。……おかあさま。おとうさま……むにゃ」
幸せそうな寝顔が、とてもかわいい。
「――おやすみ」
私は、静かに子ども部屋から出て行った。
それから向かったのは、旦那様の書斎だ。
「旦那様。ジェシカです」
「入ってくれ」
眠る前の、短い時間。二人でお茶を飲みながら他愛無い会話をする――それが、いつの間にか私たちの習慣になっていた。
まだ寝室は別だけれど、心の距離はずっと近い。
今日も並んでソファに座り、農作物の実りやアレクの成長、色々な話に花を咲かせた。
「次回の視察では、養蚕工房の拡張を検討するつもりだよ。工房を拡張して職人を育てれば、仕事を求めて流入する者たちの受け皿にもなるからな。貴女の助言が、とても参考になった」
「お役に立てて嬉しいです。実家の領地でも、そういった施策に関わっていたんです。近領の貧しい地帯からの移住者がとても多くて、無頼者に身をやつさないよう手厚く保護する仕組みを作っていました」
「すばらしいよ。人を育てる力でジェシカに及ぶ者はいない。これからもよろしく頼む」
――ふと、旦那様が表情を引き締める。
「そういえば――収監所から、母について報告が来た」
「お義母様の……」
「あれ以来、驚くほど静かだそうだ。もう悪あがきもできないだろう」
「そうですか……」
本当に、一区切りついたんだなという実感が湧いてくる。
「今後も定期的に報告させる。母のこと以外にも、気になることがあれば言ってくれ」
「ありがとうございます」
気になること。
……聞いてみたいことなら、ある。
「それじゃあ。ひとつ、答え合わせをしてもいいですか?」
「答え合わせ?」
「ええ。16年前のことです」
緊張して、喉の渇きを感じた。
「誘拐された私を、助けてくれた少年がいました。……あなただったんですね?」
わずかな沈黙の後、旦那様はうなずいた。
「――そうだ」
ふっと体の力が抜けた。ソファに沈み込みながら、少し唇を尖らせる。
「どうして言ってくださらなかったんですか? 婚約の時点で教えて欲しかったです!」
「悪かった。伝えるつもりだったんだ……手紙には書いたんだが」
「……燃やされてしまいました」
「そうだったな……」
なんとも皮肉なすれ違いだ。
旦那様が気まずそうに視線を落としている。
私は、思い切って尋ねた。
「お義母様の裁きのとき……『私の初恋』って言っていましたよね。あれは本当ですか?」
旦那様の喉仏が、ごくりと動いた。
「本当だ。ずっと貴女だけだった」
「私も初恋でした」
「――!」
驚きに目を見開いた旦那様の顔は、まるで少年のようで。
「初恋……私が?」
「ええ。忘れるはずがありません。命を救ってもらったんですもの」
「……言って欲しかった」
「言えませんよ。普通、初恋を夫に語ったりしません」
「貴女のことなら、私は何でも聞きたいが」
「だって、旦那様だなんて思いませんでしたし」
「あのとき、本当は名乗りたかった」
旦那様は、両手で私の肩を掴まえた。熱を孕んだ青い瞳が、まっすぐに私を見ている。
「レオンだ。ジェシカ……今、呼んでくれ」
「…………はい」
胸が高鳴る。
震える声で、名前を呼んだ。
「レオン様……」
「様は、いらない」
「で、でも……」
「呼び捨てがいい」
……はずかしい。
視線がうろうろ彷徨って、でも、澄んだ視線に絡め取られる。
その美しい瞳から、目を逸らせなくなっていた。
「……レオン」
――ぱぁ。と、彼の美貌が綻んだ。
初めて見る、心からの笑顔。
まるで春の雪解けのような、優しく溶ける甘い微笑。
こんなの、反則――
「ジェシカ」
唇を奪われていた。
一度唇が離れると、確かめるように見つめ合う。
互いの息遣いが、熱く交じり合う。
「レオン」
幸せそうに頷いて、もう一度重なった。想いを繋ぎ直すように、何度も唇を重ねる。
「ジェシカ。愛している」
しびれるように甘くて、深いキス。
温かい指に頬をなぞられ、体の芯からとろけていった。
「ずっと、貴女に触れたかった」
私も。ずっと。
おずおずと、大きな背中に腕を回した。
「……夢みたい」
「夢なものか。すべて現実だ――ジェシカが切り拓いてくれた」
涙があふれて止まらない。
レオンが、そっと拭ってくれた。
優しいキスを落としながら、レオンは穏やかな声で囁く。
「もう、過去はやり直せない。やり直す必要もない。――未来を贈るよ。一緒に作ろう」
「……はい」
――この人を愛している。
幼いころの憧れが、最愛の夫になって抱きしめてくれている。
「レオン」
「ジェシカ」
互いの名前を呼び合いながら、溺れるように愛し合った。
いつもお読みくださりありがとうございます!
次話で2章完結です…! ここまで本当にありがとうございました。
日頃の感謝を込めて新しい短編を本日12/17投稿したいと思っています。間に合うよう、がんばって仕上げますのでよければお付き合いください♪





