【41】私の騎士
暗闇の中で、誰かの声が静かに響いた。
『……大丈夫か。もう、心配いらない』
声変わり前の少年の声。
ああ――あの人の声だわ。
分かった途端に、ホッとした。
彼の夢は、これまで何度も見てきたもの。
まだ幼かった頃、悪漢にさらわれた私を助けてくれたあの少年。
私の命の恩人で、忘れられない大事な人。
でも、名前も教えてもらえないまま別れてしまった。
『待って! 何か、お礼を』
『いらない』
『じゃあ、せめてお名前を……』
『名乗るほどの者ではない』
そっけなく言うと、彼はそっぽを向いてしまった。目深にかぶった外套のフードで隠された顔は、ほとんど見えなくて。
『あなた、まるで騎士様みたい……! わたし……あなたのこと、忘れない!』
心からのお礼を言うと、彼は私を振り返った。
ちらりと覗いた青い瞳が、じんわり涙で濡れていた。……ねぇ、どうしてあなたは泣いていたの?
彼はそのまま駆け去った。
優しい瞳の、強い人。
きっともう二度と会えない。
私の初恋は、名前さえ知らないままで遠ざかっていった――。
**
「待っ…………」
私は遠ざかる少年に手を伸ばそうとした。
伸ばした指は虚空を掴み、けれど代わりに大きな掌にしっかりと包み込まれた。
「ジェシカ。しっかりしろ」
重みのある声に名を呼ばれ、ハッと目を開けた。――旦那様だ。
初恋の少年と、旦那様の目はよく似ている。色も同じだ……。
初めて気づいたその真実に、私は息を呑んでいた。
「――目覚めてよかった、ジェシカ」
「旦那様。ここは……?」
見回すと、見慣れない客室のベッドの上だった。領内視察中に滞在している、領主別館の一室のようだ。寝衣に着替えさせられて、私はそこに寝かされていた。旦那様とアレクとクゥが、心配そうに見下ろしている。
「私……」
「運ぶ途中で気を失ったんだ。医師は『極度の緊張による失神だ』と言っていた。足の捻挫もひどい」
足……?
動かした瞬間に、包帯を巻かれた右足首がずきりと痛んだ。義母の屋敷での出来事が、一気に胸へ押し寄せてくる。
「……モニカは? 旦那様……モニカは無事なんですか!?」
悲鳴のようにそう叫ぶと、
「奥様。私はここにおりますよ」
ベッドの脇から、モニカがひょっこりと顔を覗かせた。
ティーカップを片手に、明るく微笑みかけてくれる。
「ケガは!? あなた、……大丈夫なの?」
「はい。旦那様と騎士の皆様のおかげです。かすり傷ひとつありませんから、ご安心を」
安堵した瞬間、胸の奥が苦しくなった。
「……ごめんなさい、モニカ。私、あなたを置いて……」
「違います」
モニカは、真剣な表情で首を振った。
「奥様は正しい判断をしてくださいました。だから、そんな顔をなさらないでください」
「モニカ……」
支えるように手を握られて、涙が滲む。
「ジェシカ。私が不甲斐ないばかりに、済まなかった」
私とモニカを、旦那様は苦しげに見つめていた。
「私が母の本性を見抜けなかったせいだ。……先ほどアレクからも、母の暴挙をいくつか聞いた。貴女へ宛てた手紙も、母に燃やされたそうだな」
私は、無言でこくりと頷いていた。
「襲撃を辛うじて止めることが出来たのは、アレクのおかげだ。あと一歩遅ければ、取り返しのつかないことになっていた。――しかし、母は取り逃してしまった。騎士侯爵の名が泣く」
「……お父様のせいじゃないよ。捕まえられなかったのは、ぼくがあそこにいたからだ」
アレクは、悔しそうに唇を噛み締めている。
「取り調べで、賊がデュネット商会の配下だと分かった。商会は抑え、領境はすべて封鎖したから、母に逃げ場はない」
旦那様は立ち上がった。
「私はこれから母を追う」
私も連れて行ってください――と、咄嗟に言おうとした。
義母の結末を、私自身の目で見届けたい。これは傲慢な願いではないはずだ。
私たち家族は、義母に散々苦しめられた。もう二度と私の家族に触れられないよう、自分自身で確認したい。
でも、旦那様は私の思考を先読みするように首を振ると、私の足首に視線を落とした。
「貴女の傷は軽くない。どうか、ここで休んでいてくれ。必ず捕まえて、しかるべき罰を与える。私を信じてもらえないか」
確かに、この足では足手まといにしかならない。気持ちをぐっと飲み込んで、私は深く頭を下げた。
「……分かりました。どうか、ご無事で」
「ぼくが行く」
アレクが勢いよく立ち上がった。
「いや。アレク、お前は――」
「じゃましないよ。約束する。ママのかわりに、ぼくが行くんだ」
アレクの幼い瞳には、確かな覚悟が燃えていた。
「ぼくがお父様をてつだう。今度こそぜったいに、あの人をゆるさない」
「――分かった。頼む、アレク」
そう言うと、旦那様とアレクはまっすぐに私を見つめた。
「必ず戻る」
「ママ、まってて」
大きな背中と小さな背中が並んで部屋から出て行くのを、私はじっと見送っていた――。





