【37】領内視察
盛夏の太陽がまぶしい季節。
旦那様と一緒に暮らし始めてから、季節は春から夏へと移り変わっていた。
「――わぁ! 畑が階段みたいになってる!」
桑の段々畑を見て、アレクがパッと顔を輝かせた。
アレクの背中にしがみついていた子竜まで、『くぅ!』と楽しそうな声を上げている。
旦那様と私とアレク――私たち一家は今、領内のレース産地を視察している。そばには侍女や数名の護衛が控えているけれど、家族の妨げにならないよう距離を取ってくれていた。
レース織りは、このノイエ=レーベン領が誇る一大産業だ。
お義母様に搾取されていた頃とは違い、今は不正のない白い取引で回っている。農家や職人たちが晴れやかな顔で働いているのを見て、私はとても嬉しくなった。
案内役の桑農家の老人に、アレクは質問していた。
「おじいさん。この葉っぱからレースができるの?」
「いえ、坊ちゃま。この桑は、蚕のエサなんですよ」
「カイコ?」
「蚕は、桑の葉を食べて育つ虫です。育った蚕が繭を作り、それが絹糸になります。良い絹糸からは、良いレースができるんです」
「そうなんだ……!」
アレクはきらきらと目を輝かせている。
その隣で、旦那様は真剣な面持ちで桑畑を見渡していた。
「今年の桑の育ちはどうだ? 病害はないか」
「はい、領主様。今年は日当たりにも恵まれて、いい繭がどんどん育っておりますよ」
農夫は誇らしげに胸を張っている。
その光景を見つめながら、私は静かに微笑んでいた。
今回の視察は、私たち家族の初めての旅行とも言える。
旦那様のいる日常にも、いつの間にか馴れていた。
領主として腕を振るう旦那様は頼もしく、領民からの信頼も厚い。アレクもすっかり旦那様に馴染んで、最近では並んで歩いたり言葉を交わし合ったりすることも増えた。
そして旦那様は、私にも良くしてくれている。
私は、何気なく自分の胸元に手を触れた。さっき旦那様に付けて貰ったレースの襟飾りが、日差しを受けて美しく輝いている。
この桑畑に来る前に、家族三人でレース工房を視察していた――そのときに、職人が献上してきた襟飾りを、旦那様が私に付けてくれたのだ。
『貴女に似合いそうだ』
低い声で囁かれ、そっと襟元に触れられた瞬間、心臓が跳ねた。
『……ありがとうございます、旦那様』
頬が熱くてたまらなかった。旦那様の頬も、少し赤かった気がする。
『やはり、よく似合う』
それだけ告げると、彼は私から距離を取ってアレクのほうに行ってしまった。嬉しいはずなのに、私はなぜか少しだけ寂しくなった……。
私は工房でのことを思い出し、桑畑を見ながら小さなため息をついた。
(旦那様とは、互いに距離を保って尊重し合えているはずよ。……きっとこれが、最適な関係だわ)
あの晩酌依頼、寝室に呼ばれたことは一度もない。
もちろん愛だの恋だの浮ついた関係もなく、力を合わせて領地経営にあたっている。
私を女としてではなく、アレクの母であり侯爵家の女主人として必要としてくれている。それが、旦那様の求める距離感なのだと思う。
もちろん、私はそれで十分だ。
こんなに幸せなことはない――。
ふと、アレクが私と旦那様を交互に見つめていることに気付いた。
「どうしたの?アレク」
「……なんでもない」
『くぅー』
アレクの背中にしがみつく子竜が、アレクの声に重なるように鳴き声を上げた。
「クー。どうしたの?」
旦那様が命名を任せてくれた子竜に、アレクは鳴き声そのままに『クー』と名付けていた。
(旦那様の『ヴァイス』といい、親子そろって名づけがまっすぐね……)
そう思うと、自然に頬が緩んでしまう。
そういえば、アレクも最近は「旦那様に似ている」と言われても嫌がらなくなった。まだ距離感を探っているように見えるけれど、前とは比べ物にならないほど親しい。
農夫の案内も一通り終わり、私たちは木陰で休憩することになった。
「ぼく、クーとあっちで遊んでくるね」
『くぅ!』
「あんまり遠くに行っちゃダメよ?」
「はーい」
アレクが離れていき、私と旦那様は二人きり……。
以前のアレクなら、絶対に私と旦那様の間にいたのに。
最近のアレクは、さりげなくどこかに行ってしまうことがある。もしかして、気遣ってわざと二人きりにしている? いいえ……考えすぎよね?
気恥ずかしさと胸をしめつけられるような感覚に戸惑ってしまうけれど――でも、今は旦那様に重要な話をしなければならなに。
「……旦那様。大事なお話があります」
隣に座る旦那様のほうを向いて、私は背筋を正した。
「先日申し上げた通り――私はこれから、バーバラお義母様のところへ行って参ります」
義母の住む屋敷は、ここからそう遠くない。
7か月以上ずっと会っていなかったけれど、今回は会いに行こうと決めていた。
理由は一つ。
バーバラお義母様に、『旦那様の生存』を直接伝えるためだ。……流石に、いつまでも隠しておくわけにはいかないと思った。
私はこれまで、義母にこの情報を伏せてきた。
不義理だとは思ったけれど、手紙で伝えるには重すぎる内容だ。
それに、義母がどう動くか見極める必要があると思った。
旦那様は険しい表情になった。
「……しかし、貴女が出向けばつらい思いをするのではないか? 私自身のことなのだから、私が出向くべきでは――」
「いいえ。旦那様は、今回はお控えください」
もちろん、旦那様を疑っている訳ではない。
でも、死んだと思っていた息子が突然目の前に現れたら、義母が冷静でいられるわけがないと思う。
もし7か月の間に義母が少しでも改心していたのなら――そのときは、旦那様にも会っていただきたい。
でも、まずは私が見極めなければ。
「やはりお義母様が心配ですか? ……旦那様にとっては、実のお母様ですものね」
息子であるこの人に聞くには、少し酷な問いかけだったのかもしれない。しかし旦那様は静かに首を振り、私の頬に触れた。
「母ではない。あなたが心配なんだ」
「――え?」
「……幼い頃から、あの母をどう扱うべきか分からなかった。母はいつも危うげで、だから手を放すべきではないと思っていた。だが、貴女を傷つけるなら別だ」
胸がじんわり熱くなる。旦那様の今の言葉だけで、十分だ。
「ありがとうございます。旦那様」
「……貴女が行くのなら、止めはしない。だが、何かあれば必ず言ってくれ」
「分かりました」
頬に触れる旦那様の手をそっと取って、私はにこりと微笑んだ。
何気なく、向こうで遊ぶアレクのほうに目を馳せる。とても楽しそうに、クーと一緒に追いかけっこをしているところだ。
(……声を掛けるのは、やめておこうかしら)
だって「お義母様のところに行く」なんて言ったら、きっと心配するでしょうし。
「――それでは、行って参りますね」
私は旦那様に礼をして歩き出した。
その後ろには、侍女のモニカと護衛騎士がひとり。三人で、義母の屋敷へと向かった――。





